
Category Archives: 散策の会
第68回散策の会
第67回 散策の会報告
下谷七福神めぐり
第67回 散策の会報告下谷七福神めぐり
令和8年1月6日(火)
新年恒例の七福神めぐりは、本年は「下谷七福神めぐり」を企画しました。集合場所の鶯谷駅北口に着くと、何と「W」の旗を掲げた集団が!お聞きすると練馬稲門会で、我々と同じ七福神めぐりとの事。さすがの30名の大集団。お先に出発されました。我々はいつも通り瀧川世話役のガイドの説明を受け出発しました。

説明を受けていざ出発
(1)寿老神 元三島神社(台東区根岸1-7-11)
寿老神は社殿の奥に祀られていました。この神社は愛媛県大三島の大山祇神社の分霊を勧請し、上野・浅草・この地へと移転。今はラブホテルに囲まれた高台にあります。

奥に鎮座する寿老神
(2)福禄寿 真源寺(下谷1-12-16)
境内の小さなお堂の中に二頭身の福禄寿が祀られていました。
ここは太田蜀山人の「恐れ入り谷の鬼子母神」の方が有名です。鬼子母神とはインドの神話に出てくる女神で、日本では子授け・安産・子育ての神として祀られています。正確には「きしもじん」ですが、一般的には「きしぼじん」と呼ばれています。また夏の朝顔市も有名。

鬼子母神の福禄寿
(3)大黒天 英信寺(下谷2-5-14)
本尊は弘法大師作と伝わり、正面が大黒天、右は弁財天、左は毘沙門天という「三面大黒天」で、ガラスケースに入れられた黒い木像でした。

珍しい三面大黒天
(4)毘沙門天 法昌寺(下谷2-10-6)
毘沙門天像は小さなお堂の中で黒光りする木彫の軍神です。
他にボクサーでコメディアンのたこ八郎の地蔵がありました。

黒光りする毘沙門天
(5)小野照崎神社(下谷2-13-14)
仁寿年2(852年)に平安時代を代表する歌人・学者の小野篁(おののたかむら)公を祀る神社として上野に創建。後に現在の地に移り江戸後期には菅原道真公も祀られており、学問の他、芸能にも御神徳があるとされています。江戸時代に富士山の溶岩を使って築かれた境内の富士塚「下谷坂本富士」があり、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

お正月モードの小野照崎神社
(6)弁財天 弁天院(竜泉1-15-9)
厨子に入った木彫の弁天様です。常陸国下館藩の水谷勝隆が上野の不忍池に弁天堂を建立したとき、同時に下屋敷があったこの場所にも祠を建て弁財天を祀ったため両社は姉妹弁財天と呼ばれています。河の化身の弁天様だけに境内には池や橋がありました。

顔出し弁財天
(7)鷲神社(千束3-18-7)
天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る神社。毎年11月、開運を願って熊手を求める人々で賑わう「酉の市」が有名で、商売繁昌を始め学業成就や厄除けのご利益もあるとか。ここにも七福神の寿老人がありますが、浅草名所七福神のほうに数えられています。

鷲神社をバックに集合写真
(8)恵比寿 正宝院(竜泉3-11-11)
小さな堂のガラスケースに入った小振りな恵比寿様でした。ここは「飛不動」という名の方が有名。住職が本尊を背負い奈良県の大峯山へ修行に行った際、本尊だけが一夜にして空を飛び、江戸に帰って来たという由来からこのように呼ばれるようになったそうです。古くは病魔や災難を飛ばしてくれると信仰され、現代は航空関係者や海外旅行者、宇宙開発関係の人々の参拝が多い。また「落ちない」ということから合格祈願も多いとか。

小振りな恵比寿様
(9)布袋尊 寿永寺(三ノ輪1-22-15)
布袋尊は露天に置かれた大きな石造で、豪快に笑う姿が印象的でした。お寺は寛永7年(1630年)の建立で、徳川二代将軍秀忠の妻の侍女だった寿永法尼という尼が秀忠を弔うためにこの地に庵を営んだことが始まりだそうです。

豪快に笑う布袋尊
今回の七福神めぐりは比較的近距離に集中しており、好天にも恵まれ久しぶりに7か所全部を回ることができました。参加者全員と小平稲門会に、本年、福を呼び込めることを願いつつ,三ノ輪駅にて解散しました。その後、有志9名にて高田馬場「清瀧」にて喉を潤した後、久々に満員電車に揺られて帰宅しました。
【参加者(五十音順、敬称略)】
伊藤(木谷さんの友人)、大河原(忠)、大河原(眞)、河崎(健)、河崎(和)、木谷、木本、末次、瀧川、松村、山田、山本、計12名 。
(文・写真=松村)
第66回 散策の会報告
お岩さんゆかりの寺社を訪ねて
令和7年11月28日(金)
最近、天候に恵まれないことが多い散策の会ですが、この日は嘘のような好天に恵まれ、7名の参加にて新宿御苑前駅に集合しました。今回は、お岩さんゆかりの寺社を含む、新宿一丁目から四谷三丁目までの旧跡を巡る旅で、いつも通り瀧川世話役のガイドの説明を受け出発しました。

恒例の事前レクチャーのあとはエッホエッホと
(1)三遊亭圓朝旧居跡(新宿1-21)
ここは圓朝が明治21~28年まで住んでいた場所です。圓朝は東京落語界の名人といわれ、また怪談噺や人情噺に多くの傑作を創作しました。旧居跡は新宿区指定史跡に指定されており、花園公園内に旧居跡の碑が建っています。

昨年訪れた北斎通り(墨田区)からここへ引っ越した
(2) 四谷大木戸跡
甲州道中を往来する人々を監視する目的で造られました。間口二間半の木戸があり、番所を置いて検問しました。木戸は22時(四ツ)になると閉じられました。

大木戸の西に宿場・内藤新宿が開かれる
(3) 水番所跡(内藤町87)
玉川上水はここから地下へ入り、石樋や木樋で四谷見附方面へ導かれました。この水番所ではゴミや死体などが地下に入らないように監視していました。
近くには玉川上水を拓いた玉川兄弟の功績をたたえた高さ4.6mほどの漢文で記された石碑「水道碑記」(すいどうのいしぶみのき)があります。
(4)多武峰(とおのみね)内藤神社(内藤町1-8)
今の新宿御苑に中屋敷があった信州高遠藩内藤家の屋敷神です。 境内には、内藤家の四谷屋敷拝領の伝承にかかわる石碑の「駿馬塚の碑」があります。また、ここは明治20年に、眞崎鉛筆製作所(現三菱鉛筆)が玉川上水の分水を利用した水車を動力にし鉛筆の製造を始めた所で、それにちなんだ「鉛筆の碑」もあります。

ひっそりした新宿のルーツの屋敷神
(5)斎藤茂吉終焉の地(大京町22)
歌人・精神科医の斎藤茂吉が空襲で南青山の自宅を失った後、昭和25~28年を過ごした場所です。
「新宿の 大京町と いふとほり わが足よわり 住みつかむとす」(茂吉)

70歳で没し、墓は青山墓地に
(6)長善寺(四谷4-4)
四谷で最も古い寺院。通称「笹寺」と呼ばれますが、それは二代将軍秀忠が鷹狩りで訪れた際、境内一面に熊笹が生い茂っていたからといわれています。横綱の始祖といわれる明石志賀之助が境内で江戸初めて(1624年)の勧進相撲をしたとして、記念の「四谷勧進角力始祖」の碑があります。曹洞宗。

江戸勧進相撲の発祥の地
(7)於岩稲荷田宮神社(左門町17)
鶴屋南北の「東海道四谷怪談」のモデルとなったお岩(田宮於岩)と縁のある神社。もとは同心田宮家の屋敷神でした。実在のお岩は養子の伊右衛門とは仲の良い夫婦で、家勢を再興したといわれることから、人々の信仰を集めました。
「東海道四谷怪談」は於岩が生きていた時代より200年後に作られた作品。境内には「田宮」の表札がかかった家があり、子孫がお住まいのようです。

寄進者には歌舞伎・新派の名優たちの名が
(8)陽運寺(左門町18)
ここにあったお岩の霊堂が戦災にあったため、栃木県沼和田から堂を移し再建しました。堂内にはお岩の立像があり、厄除け・縁事・芸事に霊験があると信仰を集めています。境内にはお岩ゆかりの井戸もあります。境内にはカフェや売店がありなかなかの商売熱心のよう。日蓮宗。

お岩さんとのゆかりがいまいち分からなかった
(9)消防博物館(新宿区四谷3-10)(入場無料)
消防博物館は、正式には東京消防庁消防防災資料センターといい、江戸の消防に関する錦絵、瓦版、古文書、消火道具や明治時代から現在に至るまでの消防ポンプ、防火衣、消防活動資器材などの実物を中心に展示しています。まず、10Fの防災ラウンジに上り、新宿副都心や富士山を眺めた後、各階の展示場を巡りました。
5F屋外にあり操縦席に乗ることができる消防ヘリコプターが機械の不具合により展示中止となっていたのは残念でしたが、3Fではヘリコプターの操縦室を再現したシミュレーション飛行や、「なろうよ消防士コーナー」での消火の模擬体験(ある親子が長く占領しており、体験できませんでしたが・・・)など親子で楽しめるコーナーもありました。地下のB1には現在の様々な消防車が数多く展示されており、ベンツの消防車の前で記念撮影をしました。入場無料にしてはなかなか楽しめる施設でした。

今回のコースで好評だったのがここ消防博物館

終わりよければすべてよし・・・でした
個人的には、40年ほど前勤めていた事務所が新宿一丁目にあり、久々に懐かしさに浸ることができました。この近辺は大都会ですが、一歩脇に入ると静けさの中に江戸情緒を感じることができた散策でした。
その後、参加者全員でおなじみの「三平」で懇親会を実施しました。
【参加者(五十音順、敬称略)】
荒木、大河原、河崎、佐藤、瀧川、松村、山本
(文=松村、写真=佐藤・松村)
第67回散策の会
「下谷七福神めぐり」のご案内

第65回 散策の会報告
旧日光街道・千住宿を往く
令和7年10月14日(火)
今回は、昨年11月に開催予定が荒天により中止となったリベンジ開催となりました。前回の企画とは逆に、千住大橋駅にて集合し、少数精鋭7名のメンバーにて隅田川べりにある芭蕉の旧跡からスタート。雨予報もありましたが、何とか降らずに旧日光街道を歩き、千住宿があった北千住駅方面を目指しました。
☆ 奥の細道矢立初めの地(千住橋戸町) 150日間、2,400㎞の旅のスタート地点 『よく歩いたもんだなぁ』
千住大橋のすぐ脇に『奥の細道』と刻まれた記念碑があります。ここから松尾芭蕉は弟子の曽良を伴い東北・北陸を巡る約150日間の旅をスタートさせました。“行く春や鳥啼き 魚の目は涙”が最初の句でした。もっとも深川から船でこの地に来た芭蕉が上陸して出発したのは、対岸の荒川区(南千住)なのか? ここなのか?は謎のままです。南千住駅前にも松尾芭蕉像が立っていて、荒川区説を主張しています。
近くの隅田川テラスの壁には芭蕉の旅立ちの様子を与謝蕪村が描いた「奥の細道図屏風」が大きくペンキで描かれています。その隣には江戸時代の川や橋の番付表があり皆さんの興味を引きました。また、千住大橋の真下には秘密通路のような千住小橋が架かっていて、間近によどんだ川面を眺めながら渡ってみました。


俳画の大家与謝蕪村の描く芭蕉と曽良
☆千住宿奥の細道プチテラス (千住橋戸町50)
旧日光街道に面した小さな広場に「矢立を持った芭蕉像」があります。芭蕉生誕360年の平成16年に設けられたものですが、一部の方から芭蕉の印象が違うと不評でした。

まずは一首「行く春や…」
☆千住宿歴史プチテラス (千住河原町21-11)
天保元年(1830年)に建てられた元地漉き紙問屋横山家の内蔵(土蔵)を移築したものですが、休館日らしく中へは入れませんでした。
☆千住高札場跡 (千住仲町18)
高札場とは幕府のお触れを木の板に書き、人目に触れるように高く掲示する場所です。ここの高札はヒノキ材で高さ2間・幅3間・奥行1間半あったようです。今は小さな石柱一本あるだけなので、後程、高札場を再現した公園に立ち寄りました。

今は石柱1本 当時の賑わいはいかばかりか
☆一里塚跡 (千住仲町19-5)
この場所は日本橋から2里の位置の旧日光街道沿いにあります。ただここも「一里塚跡」と書かれた石柱だけでした。「千住高札場跡」の石柱と街道をはさんだ反対側にありました
☆森鷗外旧居跡 (千住1-30-8)
鷗外の父が開業した橘井堂 (きっせいどう)医院のあった場所で、鷗外は東大医学部卒業後に住み始めました。ここから勤務先の三宅坂にあった東京陸軍病院まで人力車で通勤したそうです。またドイツ留学からの帰国後も結婚するまで再びここに住んでいます。
「鷗外」という号は隅田川の白髭橋付近にあった「鷗の渡しの外」という意味で、千住を意味しています。なお、鷗外は明治23年から2年間、東京専門学校 (早稲田大学の前身)の講師 (美術関係の講座?)を勤めていますので、我々とは細い縁があるようですね。

珍しい原稿用紙をかたどった石碑
☆金蔵寺(こんぞうじ) (千住2-6)
ここには2つの供養塔があります。「南無阿弥陀仏」と刻まれている塔は千住遊女の供養塔で、病気などで死亡した飯盛(めしもり)女の霊を供養するために、当時の楼主たちが建立したものです。「無縁塔」の方は天保8年(1837年)飢饉で亡くなった人々のものです。千住で病死・衰弱死した者は823人にのぼり、4つの寺に葬られました。街道から東へ少し離れた所にある真言宗豊山派の寺院です。

苦しみと悲しみの内に逝った人々
☆勝専寺 (千住2-11)
門は明治12年の明治天皇行幸を記念して造られたもので、真っ赤に塗られ格式の高さを思わせます。その格式はここが徳川将軍の鷹狩や日光参拝の折の御旅所になったことから来るものでしょう。本堂は煉瓦貼りのたいへんユニークな形をしていて、明治39年に建立されたものです。木造千手観音像は「千住」の地名の起源の一つとされています。通称「赤門寺」とも呼ばれる浄土宗の寺院です。

インド様式の“ばえる”お寺です
☆千住本陣跡 (千住3-33)
本陣とは大名・公家・日光東照宮への勅使など身分の高い人が宿泊や休憩する施設のことです。 千住宿は江戸四宿 (品川・内藤新宿・板橋・千住) の一つで、日光道中で日本橋から最初の宿場町です。ここは19世紀半ばには本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋55軒があり、そのうち食売旅籠(めしうりはたご)(遊女屋のこと))が36軒もあったそうです。人口は約1万人で四宿中最大の宿場町であり、遊里としても発達したのです。

今も一大繫華街です
☆横山家住宅(千住4-28-1)(足立区登録有形民俗文化財)
江戸時代後期に建てられた商家で、火災を免れ千住宿の名残を今に伝える屋敷です。千住宿を公用で通る者や荷物に人・馬を提供する伝馬役を担っていました。敷地は間口13間、奥行き56間とウナギの寝床のようになっています。横山家は戦前まで地漉紙問屋(じすきがみどんや)を営んでいました。地漉紙とは使い古した紙を漉き直した再生紙のことで、「浅草紙」とも呼ばれるトイレットペーパーのことです。明治維新の上野戦争の折、彰義隊士によってつけられた刀傷が柱に残っています。

200年を超えて今なお現役
今回は、ほぼ旧日光街道沿いに歩く平坦なルートで実測6千歩強、若いとは言えないメンバーには優しいコースでした。現在の北千住駅付近は、今や若者に人気のエリアで、若向けのおしゃれ系のカフェやショップが数多くありましたが、一歩路地裏に入ると懐かしい風情が感じられる、味わい深いエリアでした。
何とか雨にも降られず、小平まで戻り6名でささやかな懇親会を行いました。
【参加者(五十音順、敬称略)】
荒木、大河原(忠)、大河原(眞)、木本、佐藤、瀧川、松村
(文=松村、写真=佐藤・松村)
第66回散策の会
「お岩さんゆかりの寺社を訪ねて」のご案内

第64回散策の会報告
烏山寺町を歩く
令和7年9月16日
5月開催予定が荒天の為延期となり、今回がリベンジ開催となりました。世田谷区烏山の寺町は「世田谷の小京都」といわれ、都市化の波にのまれず、緑に包まれた街並み(寺並み?)が残っています。ここは600m程の寺町通りに26もの寺院があり、そのほとんどは大正12年の関東大震災後の区画整理により、浅草・築地・本所・荒川などにあった寺院が移転してきたものです。今回はその内の8寺をお参りしました。
当日は好天には恵まれたものの、残暑厳しく、容赦なく日差しが照り続ける集合場所の千歳烏山駅を早々に移動。冷房の効いた区民会館にて瀧川世話役の説明を受け、寺町巡りをスタートしました。

涼しい場所で、瀧川世話役の説明に聞き入る参加者
☆妙高寺(世田谷区北烏山6-23-1)日蓮宗
千歳烏山駅から甲州街道を渡り中央高速をくぐり徒歩15分、寺町最初の寺院です。山形藩主水野家の菩提寺。日本画家速水御舟とその兄弟子の今村紫紅の墓がありました。

日本画家速水御舟とその兄弟子の今村紫紅の墓
☆多聞院(北烏山4-12-1)真言宗豊山派
石仏があちこちに鎮座し、大きな「石造涅槃図」や天保の大飢饉による落命者の墓である、高さ3メートルの「568人無縁墓」がありました。昭和20年の東京大空襲で焼け出され、新宿からこの地に移転してきた寺町の中では最も新しい寺。

石造涅槃図(左)と568人無縁墓
☆幸龍寺(北烏山5-8-1)日蓮宗
1580年代、徳川家の祈願所として開山。浜松、駿府、湯島、浅草と移転。昭和15年に移転完了。「君が代」でおなじみの「さざれ石」があります。

さざれ石
☆稱往院(北烏山5-9-1)浄土宗
天明の飢饉(1780年頃)の折、塔頭の庵主が食料不足の町民に蕎麦を振る舞っていました。ところが美味いと評判になり蕎麦屋と化してしまい、本来の勤行が疎かになってしまいました。住職はついに怒り、「不許蕎麦入境内」の碑を山門に立てたとの事です。俳人宝井其角の墓もありました。

「不許蕎麦入境内」の碑
☆妙祐寺(北烏山4-16-1)浄土真宗
古代インド様式の寺院で、築地本願寺に雰囲気は似ていました。車庫に鎮座していたアメ車を住職(?)がピカピカに磨いており、お寺とアメ車のコントラストが奇妙でした。

古代インド様式の寺院
☆妙壽寺(北烏山5-15-1)法華宗
震災で焼けた名工藤原正次の梵鐘があります。客殿は麻布・狸穴にあった旧鍋島侯爵邸を移設したもの。大原麗子の墓があり、戒名は「華麗院妙舞大姉」、存命なら今年80歳との事。我々の世代には思い出深い彼女で、今回のお墓参りで断トツの反響でした。

大原麗子の墓
☆専光寺(北烏山4-28-1)浄土宗
品川で創建。馬喰町、浅草と移り、震災後烏山に移転。今話題の浮世絵師喜多川歌麿の墓があります。墓石に彫られていた姓は「北川」(本姓)となっており、この寺が移転前の浅草にあった頃から北川家の菩提寺だったこともあり、お墓もそのまま移転してきたようです。

喜多川歌麿の墓の前で。酷暑と直射日光で過酷な集合写真
☆高源院(北烏山4-30-1)臨済宗
久留米藩有馬家が仏道に帰依し、品川に創建。大正15年烏山に移転。鴨の飛来する池として親しまれる弁天池は中央に浮御堂が建ち、宝生弁財天が奉安されています。池には下見時は鴨が泳いでいましたが、今回は小さな亀しか居ませんでした。

弁天池と浮御堂
今回は8寺を巡りましたが、各寺がそれぞれアピールポイントを所持していて、参拝客の集客に努めている様子が伺い知れました。厳しい残暑に、参加者の皆さんはややバテ気味でしたが、国学院久我山校を横に見ながら何とか解散場所の久我山駅にたどり着きました。この後、有志7名にて生ビールで乾杯しました。
今回、カメラマンの未熟とスマホの不調にて写真の出来栄えに難点があり、特に集合写真に写った皆様にはお詫び申し上げます。
【参加者】(五十音順、敬称略)
大河原(忠)、大河原(眞)、大島、梶川、河崎(健)、河崎(和)、瀧川、松村、山田、山本(計10名)
(文・写真=松村)
第65回散策の会
「旧日光街道・千住宿を往く」のご案内


