第65回 散策の会報告
旧日光街道・千住宿を往く

令和7年10月14日(火)

今回は、昨年11月に開催予定が荒天により中止となったリベンジ開催となりました。前回の企画とは逆に、千住大橋駅にて集合し、少数精鋭7名のメンバーにて隅田川べりにある芭蕉の旧跡からスタート。雨予報もありましたが、何とか降らずに旧日光街道を歩き、千住宿があった北千住駅方面を目指しました。

奥の細道矢立初めの地(千住橋戸町)
千住大橋のすぐ脇に『奥の細道』と刻まれた記念碑があります。ここから松尾芭蕉は弟子の曽良を伴い東北・北陸を巡る約150日間の旅をスタートさせました。“行く春や鳥啼き 魚の目は涙”が最初の句でした。もっとも深川から船でこの地に来た芭蕉が上陸して出発したのは、対岸の荒川区(南千住)なのか? ここなのか?は謎のままです。南千住駅前にも松尾芭蕉像が立っていて、荒川区説を主張しています。
近くの隅田川テラスの壁には芭蕉の旅立ちの様子を与謝蕪村が描いた「奥の細道図屏風」が大きくペンキで描かれています。その隣には江戸時代の川や橋の番付表があり皆さんの興味を引きました。また、千住大橋の真下には秘密通路のような千住小橋が架かっていて、間近によどんだ川面を眺めながら渡ってみました。

150日間、2,400㎞の旅のスタート地点

『よく歩いたもんだなぁ』

俳画の大家与謝蕪村の描く芭蕉と曽良


千住宿奥の細道プチテラス (千住橋戸町50)
旧日光街道に面した小さな広場に「矢立を持った芭蕉像」があります。芭蕉生誕360年の平成16年に設けられたものですが、一部の方から芭蕉の印象が違うと不評でした。

まずは一首「行く春や…」


千住宿歴史プチテラス (千住河原町21-11)
天保元年(1830年)に建てられた元地漉き紙問屋横山家の内蔵(土蔵)を移築したものですが、休館日らしく中へは入れませんでした。

千住高札場跡 (千住仲町18)
高札場とは幕府のお触れを木の板に書き、人目に触れるように高く掲示する場所です。ここの高札はヒノキ材で高さ2間・幅3間・奥行1間半あったようです。今は小さな石柱一本あるだけなので、後程、高札場を再現した公園に立ち寄りました。

今は石柱1本 当時の賑わいはいかばかりか


一里塚跡 (千住仲町19-5)
この場所は日本橋から2里の位置の旧日光街道沿いにあります。ただここも「一里塚跡」と書かれた石柱だけでした。「千住高札場跡」の石柱と街道をはさんだ反対側にありました

森鷗外旧居跡 (千住1-30-8)
鷗外の父が開業した橘井堂 (きっせいどう))医院のあった場所で、鷗外は東大医学部卒業後に住み始めました。ここから勤務先の三宅坂にあった東京陸軍病院まで人力車で通勤したそうです。またドイツ留学からの帰国後も結婚するまで再びここに住んでいます。
「鷗外」という号は隅田川の白髭橋付近にあった「鷗の渡しの外」という意味で、千住を意味しています。なお、鷗外は明治23年から2年間、東京専門学校 (早稲田大学の前身)の講師 (美術関係の講座?))を勤めていますので、我々とは細い縁があるようですね。

珍しい原稿用紙をかたどった石碑


 ☆金蔵寺(こんぞうじ) (千住2-6)
ここには2つの供養塔があります。「南無阿弥陀仏」と刻まれている塔は千住遊女の供養塔で、病気などで死亡した飯盛(めしもり)女の霊を供養するために、当時の楼主たちが建立したものです。「無縁塔」の方は天保8年(1837年)飢饉で亡くなった人々のものです。千住で病死・衰弱死した者は823人にのぼり、4つの寺に葬られました。街道から東へ少し離れた所にある真言宗豊山派の寺院です。

苦しみと悲しみの内に逝った人々


勝専寺 (千住2-11)
門は明治12年の明治天皇行幸を記念して造られたもので、真っ赤に塗られ格式の高さを思わせます。その格式はここが徳川将軍の鷹狩や日光参拝の折の御旅所になったことから来るものでしょう。本堂は煉瓦貼りのたいへんユニークな形をしていて、明治39年に建立されたものです。木造千手観音像は「千住」の地名の起源の一つとされています。通称「赤門寺」とも呼ばれる浄土宗の寺院です。

インド様式の“ばえる”お寺です


千住本陣跡 (千住3-33)
本陣とは大名・公家・日光東照宮への勅使など身分の高い人が宿泊や休憩する施設のことです。 千住宿は江戸四宿 (品川・内藤新宿・板橋・千住) の一つで、日光道中で日本橋から最初の宿場町です。ここは19世紀半ばには本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋55軒があり、そのうち食売旅籠(めしうりはたご)(遊女屋のこと))が36軒もあったそうです。人口は約1万人で四宿中最大の宿場町であり、遊里としても発達したのです。

今も一大繫華街です


横山家住宅(千住4-28-1)(足立区登録有形民俗文化財)
江戸時代後期に建てられた商家で、火災を免れ千住宿の名残を今に伝える屋敷です。千住宿を公用で通る者や荷物に人・馬を提供する伝馬役を担っていました。敷地は間口13間、奥行き56間とウナギの寝床のようになっています。横山家は戦前まで地漉紙問屋(じすきがみどんや)を営んでいました。地漉紙とは使い古した紙を漉き直した再生紙のことで、「浅草紙」とも呼ばれるトイレットペーパーのことです。明治維新の上野戦争の折、彰義隊士によってつけられた刀傷が柱に残っています。

200年を超えて今なお現役


今回は、ほぼ旧日光街道沿いに歩く平坦なルートで実測6千歩強、若いとは言えないメンバーには優しいコースでした。現在の北千住駅付近は、今や若者に人気のエリアで、若向けのおしゃれ系のカフェやショップが数多くありましたが、一歩路地裏に入ると懐かしい風情が感じられる、味わい深いエリアでした。

何とか雨にも降られず、小平まで戻り6名でささやかな懇親会を行いました。

【参加者(五十音順、敬称略)】
荒木、大河原(忠)、大河原(眞)、木本、佐藤、瀧川、松村

(文=松村、写真=佐藤・松村)

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