明石町に学校発祥地をたずねる
令和4年5月28日(土)
今回訪れた中央区明石町は明治2年に外国人の居留地となった所です。ただ外国航路を持つ横浜・神戸などに比べると外国商人の評価は低く、商館よりも教師・宣教師・医師など知識階級の私邸が多く、その結果ミッションスクールや教会が多く誕生しました。一方で横浜には貿易商が住む商館が多くありました。この頃、汽笛一声を残し新橋―横浜間を汽車が往復するようになったのは、こうした人達の交流も大きな理由だったのです。
訪ねた旧跡はいずれも聖路加国際大学・聖路加国際病院(正式な読み方は「せいるか」St. Lukes)の足元に存在しています。このような狭い場所に、その後幾多の俊英を輩出した多くの名門校が産声を上げたのはたいへん珍しいことではないでしょうか。
50回を経て新たなリスタートへ(モットスマイルヲクダサイ)
☆芥川龍之介生誕の地(明石町10)
この辺は乳牛の牧場だった所で、そこの支配人で牛乳やバターを外国人に販売していた店の長男として、明治25年に生まれました。名前は辰年辰月辰日の生まれに因んで付けられました。ただここに居たのは生後7か月までで、母が精神に異常をきたしたために両国の母の実家に引き取られていきます。
☆浅野内匠頭屋敷跡(明石町10)
赤穂藩(兵庫県)浅野家5万3千石の上屋敷のあった所です。内匠頭はここで生まれたようです。死後に江戸屋敷は幕府に取り上げられ浅野家は断絶し、その後は出羽新庄藩、ついで若狭小浜藩へと引き継がれます。刃傷事件の約2年後、吉良邸討ち入り後に泉岳寺へ向かう途中、赤穂浪士たちは(すでに浅野家ではない)この屋敷前を通ったといわれています。
☆『蘭学事始』の地(明石町11)
ここは中津藩(大分県)奥平家の中屋敷のあった所で、安永3年(1774年)に藩医の前野良沢が若狭小浜藩の杉田玄白らと『ターヘル・アナトミア』(解體新書)を翻訳した場所です。右の赤い御影石には女性の人体図と「解體新書」の文字、左の黒い御影石には「蘭学の泉はここに」と刻まれています。
☆学校発祥の地
この辺は「築地居留地」といい、明治期に宣教師たちにより数々の学校が開校された場所です。明治以前創立の慶應義塾以外はみんなミッション系の学校で、10校のそれぞれに洗練された形の石碑が建っていました。
・女子学院(明石町10)
明治3年に設立された「A六番女学校」に始まります。なお「A六番」はここ築地居留地の地番です。碑は大きな自然石でした。
・慶應義塾(明石町11)
『蘭学事始』と同じ中津藩の中屋敷で安政5年(1858年)に23歳の福沢諭吉が開いた蘭学の「福沢塾」に由来しています。慶應4年(1868年)には芝新銭座(港区浜松町1丁目)に移転し、年号に因み「慶應義塾」としました。碑は本のページを見開いた形で、かの有名な言葉が刻まれています。
・立教学院(明石町10)
明治7年に「立教学校」という名の私塾で、生徒数わずか5名でスタート。立教大学は大正7年に池袋へ移転するまではここにありました。つやつやと輝く馬蹄形の黒色の石碑でした。
・立教女学院(明石町10)
明治10年に湯島で「立教女学校」が設立されましたが、明治15年に当地へ移転してきました。ピンク色の石碑に当時の校舎の写真がはめ込まれています。
・暁星学園(明石町7)
明治21年にこの地の聖堂(教会)で開校しました。石碑の上部には分厚い本が開かれ、中に「あなたがたは地の塩 世の光である」と書かれています。
・関東学院(明石町1)
明治28年に開校された「東京中学院」が源流です。
・雙葉学園(明石町1-6)
明治8年開校の「築地語学校」が源です。二葉葵の葉をデザインしたかわいらしい石碑です。
・青山学院(明石町6-25)
青学の礎となった「海岸女学校」が明治10年に開校した場所です。縦長の碑に「青山学院記念の地」と書かれていました。
・女子聖学院(明石町6-24)
明治38年、教師3名・生徒10名で始まったそうです。四角錘の上に校章の入った四角の石が乗っている石碑です。
・明治学院(明石町7-16)
明治10年「東京一致神学校」が開校しました。オーソドックスな四角の黒御影石の碑です。
☆聖路加ガーデン(明石町8-1)
さて、これまでは落とし物を探すように地べたばかり見てきたので、今度は視角を変えようと、近くにある聖路加ガーデンのオフィス棟(47階)とレジデンス棟(38階)をつなぐ連絡ブリッジ(28階)に上りました。東京タワーとはまた違うウォーターフロントのビル街が見下ろせました。
☆佃大橋
江戸時代の「佃の渡し」の場所に、昭和39年の東京オリンピックに合わせて架けられた橋です。橋の長さは476m。佃島に渡り、佃煮御三家と呼ばれる店で名物を買う時間を設けました。100gで500~700円位でそれを2種類くらい、老人所帯には適量でした。
☆住吉神社(佃1-1-14)
海上安全・渡航安全の神様です。鳥居の陶製の扁額や、彫刻が優れた水盤舎は中央区の有形文化財に指定されています。江戸時代の初期、家康の命により摂津国佃村から江戸に移り住んだ漁夫33人と神職が、この地を埋め立てて故郷を偲んで佃島と名付けました。その後佃村の田蓑神社の分霊をここに祀ったのが始まりといわれています。付近にはまだまだ下町の風情が残っていました。
陶製の扁額は明治15年製、有栖川宮幟仁親王の筆
散策の会も50回を超えて新しいフェーズに入りました。そこで第1回の「築地・月島・佃を歩く」(2010年9月30日)を振り返る意味で、あの時のコースの中から一か所この神社を選んで再び参拝してみました。オリジナルメンバーで今回も参加いただいたのは國友・栗原の両氏でした。深い散策愛に敬意を表します。
【散策後の懇親会】
新型コロナウイルス感染防止のため、今回も行いませんでした。
【参加者】
大河原・大河原夫人・大島・梶川・木本・國友・栗原・佐藤・福田・福田夫人・松村(11名)
(文=佐藤(俊) 写真=松村・佐藤)