第63回散策の会報告
烏山寺町を歩く

令和7年9月16日

5月開催予定が荒天の為延期となり、今回がリベンジ開催となりました。世田谷区烏山の寺町は「世田谷の小京都」といわれ、都市化の波にのまれず、緑に包まれた街並み(寺並み?)が残っています。ここは600m程の寺町通りに26もの寺院があり、そのほとんどは大正12年の関東大震災後の区画整理により、浅草・築地・本所・荒川などにあった寺院が移転してきたものです。今回はその内の8寺をお参りしました。

当日は好天には恵まれたものの、残暑厳しく、容赦なく日差しが照り続ける集合場所の千歳烏山駅を早々に移動。冷房の効いた区民会館にて瀧川世話役の説明を受け、寺町巡りをスタートしました。

涼しい場所で、瀧川世話役の説明に聞き入る参加者


☆妙高寺(世田谷区北烏山6-23-1)日蓮宗
千歳烏山駅から甲州街道を渡り中央高速をくぐり徒歩15分、寺町最初の寺院です。山形藩主水野家の菩提寺。日本画家速水御舟とその兄弟子の今村紫紅の墓がありました。 

日本画家速水御舟とその兄弟子の今村紫紅の墓


☆多聞院(北烏山4-12-1)真言宗豊山派
石仏があちこちに鎮座し、大きな「石造涅槃図」や天保の大飢饉による落命者の墓である、高さ3メートルの「568人無縁墓」がありました。昭和20年の東京大空襲で焼け出され、新宿からこの地に移転してきた寺町の中では最も新しい寺。

石造涅槃図(左)と568人無縁墓


☆幸龍寺(北烏山5-8-1)日蓮宗
1580年代、徳川家の祈願所として開山。浜松、駿府、湯島、浅草と移転。昭和15年に移転完了。「君が代」でおなじみの「さざれ石」があります。

さざれ石


☆稱往院(北烏山5-9-1)浄土宗
天明の飢饉(1780年頃)の折、塔頭の庵主が食料不足の町民に蕎麦を振る舞っていました。ところが美味いと評判になり蕎麦屋と化してしまい、本来の勤行が疎かになってしまいました。住職はついに怒り、「不許蕎麦入境内」の碑を山門に立てたとの事です。俳人宝井其角の墓もありました。

「不許蕎麦入境内」の碑


☆妙祐寺(北烏山4-16-1)浄土真宗
古代インド様式の寺院で、築地本願寺に雰囲気は似ていました。車庫に鎮座していたアメ車を住職(?)がピカピカに磨いており、お寺とアメ車のコントラストが奇妙でした。

古代インド様式の寺院


☆妙壽寺(北烏山5-15-1)法華宗
震災で焼けた名工藤原正次の梵鐘があります。客殿は麻布・狸穴にあった旧鍋島侯爵邸を移設したもの。大原麗子の墓があり、戒名は「華麗院妙舞大姉」、存命なら今年80歳との事。我々の世代には思い出深い彼女で、今回のお墓参りで断トツの反響でした。

大原麗子の墓


☆専光寺(北烏山4-28-1)浄土宗
品川で創建。馬喰町、浅草と移り、震災後烏山に移転。今話題の浮世絵師喜多川歌麿の墓があります。墓石に彫られていた姓は「北川」(本姓)となっており、この寺が移転前の浅草にあった頃から北川家の菩提寺だったこともあり、お墓もそのまま移転してきたようです。

喜多川歌麿の墓の前で。酷暑と直射日光で過酷な集合写真


☆高源院(北烏山4-30-1)臨済宗
久留米藩有馬家が仏道に帰依し、品川に創建。大正15年烏山に移転。鴨の飛来する池として親しまれる弁天池は中央に浮御堂が建ち、宝生弁財天が奉安されています。池には下見時は鴨が泳いでいましたが、今回は小さな亀しか居ませんでした。

弁天池と浮御堂


今回は8寺を巡りましたが、各寺がそれぞれアピールポイントを所持していて、参拝客の集客に努めている様子が伺い知れました。厳しい残暑に、参加者の皆さんはややバテ気味でしたが、国学院久我山校を横に見ながら何とか解散場所の久我山駅にたどり着きました。この後、有志7名にて生ビールで乾杯しました。

今回、カメラマンの未熟とスマホの不調にて写真の出来栄えに難点があり、特に集合写真に写った皆様にはお詫び申し上げます。

【参加者】(五十音順、敬称略)
大河原(忠)、大河原(眞)、大島、梶川、河崎(健)、河崎(和)、瀧川、松村、山田、山本(計10名)

(文・写真=松村)

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