縦 走 路

山本 浩(昭29・政経)

私の山との出会いは学生時代、友人から東京の一番高い所へ行こうと誘われたことに始まる。

昭和25年、20歳の私は山の何たるかを考えることもなく、学生服学帽の姿で三峰神社から白岩山を越えて雲取山を目指した。着いた山小屋はロッグ造り、むき出しの丸太の記憶が残っている。
翌朝2,017 mの山頂から奥秩父の金峰、甲武信、国師等の山並みを望んで、何時か必ずあの山々に登ってみたいと思った。

昭和25年、雲取山山頂。後方に富士山


その後、体育の単位をとるために富士山に登る機会があったが、5合目迄車で行ける今と違って歩き始めはふじアザミの大きな花が目についた馬返しから、1合目、2合目と刻んで5合目で泊まり。翌朝暗いうちに出発して、その鮮やかさに感激したご来光は8合目。しっかり注意されていたゆっくり歩きを心掛け3,776 mの頂上に立った時、吸い込まれそうな濃紺の空に星の瞬きを見た。
下りは金剛杖を股に挟んで雪渓をグリセード、続いて草鞋をグルグル足に巻き付け脛まで潜る須走を豪快に駆け下りた。

日本一の富士登山の後、また友人から「おい、日本で2番目に高い所は何処か知ってるか?」と云われて3人で白根三山を目指すことになったが、この縦走こそが山の厳しさ、恐ろしさと共に醍醐味もしっかり与えてくれて、後年の私の山歩きに深く根を下ろすものとなった。

現在、北岳登山は甲府からバスで野呂川の奥、広河原から登るのが一般的だが、昭和26年当時、バスは御勅使川の芦安まで、此処から歩き始めて夜叉人峠を越え野呂川、荒川の合流点にあった無人の荒川小屋が最初の泊まり(今行程の山小屋は全て無人、しかも誰にも出会わなかった)。装備は毛布に飯盒と米、若干の嗜好品が全て、毎回火をおこすのが一番大変だった。
此処から登り始めたのが池山吊り尾根(登る人が少なく今の地図では点線表示)、折悪しく雨になって急登が続く。霧の中に浮かぶピークをクリヤしたと思ったらその上に又ピーク、嫌になる程これを繰り返す。風にそよぐ幽玄な「さるおがせ」なる植物もこの時初めて見た。

悪戦苦闘、へとへとになって北岳頂上下の石室に着いた時、もう周りはすっかり暗くなっていた。
何はさておき、火をおこすために薪を集めてこなければならないが、ヘッドランプを照らして暗い雨の中、薪を探すのは容易なことではなかった

北岳頂上下石室の前で

今にして思えば一体どうやって火をおこすことが出来たのか不思議な気がしてならない。
外は風雨が激しく、風音が高い。そのうち外で誰かが「おーい、おーい」と呼んでいるような気がして、外でランプを振り回すが反応は全くない。ひょっとしてこれは高山病の幻聴だったかもしれない。

十分な休養が採れたわけではないが、我等は進むしかない。幸い翌朝雨は上がって朝食後、北岳頂上3,193 mをきわめ三千メートルの稜線を縦走し始めた。
最初の目標、間ノ岳3,189.5 mは何処が頂上とも分からない茫洋とした大山塊、その為霧など悪天候の際の遭難事故が多いとされている。今日の我らにその心配はなかったが、パーティの仲間に異変が発生した。

3人のうちの1人の歩速が上がらない、そのうちぱったり止まる。どうしたと声を掛けても返事がない。目は虚ろ、これは間違いなく高山病にやられたと気付いたが、その時我等が助けを求め得る人力も手段も全くない。やはり我等が前に進むしかないので彼のリュックを担いでやり、前進を促す。
初めのうちは何とか歩いてくれていたが、それもだんだん難しくなってきた。
こうなれば心を鬼にして歩かせるしかない、「歩け!」と怒鳴り、突き飛ばして無理やり歩かせた。

間ノ岳、農鳥岳3,025.9 mの頂上を楽しむ余裕はなく大門沢の下りに入ってヤレヤレ、何とか明るいうちに大門沢小屋に転がり込んだ。
彼にエネルギー補給をして元気になってもらおうと食事を勧めるが全て吐いてしまって喉に通らない。その時私が所持していた米軍(進駐軍)のドロップス状緊急食糧(エマージェンシーレイション)だけやっと受け付けてくれたのは全く幸運だった。
早川沿いに下って高度が下がる毎に、彼の状態は徐々に快方に向かった。
山を下りて人里で初めて泊ったのは西山温泉、男女混浴の温泉だったがそんなことよりともかく人がいてくれることが大きな安らぎだった。
翌日南アルプス街道を下って富士川へ出たのだが、うろ覚えながら馬車鉄道に乗ったような気がする。富士川の駅ホームですっかり元気になった彼に「山では手荒なことをしてすまなかった」と詫びを言ったら、何と彼は全く何も覚えていないと言うのだ。そんな馬鹿なと思ったが、正にこの時は高山病の恐ろしさをまともに突き付けられた瞬間だった。

学友に山形の農家出身者がいて、冬休みの誘いで初めてスキーを体験することになった。
当時のスキーはイタヤの単板、竹のストック、皮ひもの締め具と素朴な道具だったが、彼の家の裏山で暗くなるまで滑ってズボンの裏が破れるまで尻もちをついた。

翌日は蔵王の樹氷を見に出かけ、地蔵岳の頂上に登り、お前は歩いて降りろという友人の言葉に逆らってスキーで滑降、当然のことながら、こけつまろびつ、樹氷の間の狭いコースで倒れていると後から来る上級者は私の上を飛び越えていく。やがて最大の難所、懺悔坂に差し掛かる。坂を前に暫し考えたが無駄なこと、真っ直ぐ滑るしか出来ないので飛び降りるがごとく直滑降、滑るというより転がり落ちて身体じゅう雪玉だらけ、よくもまあ怪我しなかったものだ。

蔵王の樹氷をバックに

スキーは結局ものにならず、冬山を歩き景色を楽しむスノーシューに転向してしまった。
学生時代が終わり社会人となった最初の勤務が九州の三池だったので、休日を利用して阿蘇や久住に登ったが、やはり一番印象に残るのは高千穂の峰から噴火直後で未だ道を火山灰が覆っていた新燃岳(本当は入山禁止だった)、韓国岳を縦走して林田温泉に下りた山行だ。火口を見ながらの歩きは月面のクレーターを真近に見るようだった。

在職中は時間の余裕がないので半ば本格的に山に登りだしたのは会社勤めを終えてからで、退職して直ぐに老け込んだりしたくないし、何とか体力をキープしたいからでもあった。


縦走で最も想い出深いのは剣・立山縦走で一行6名(真に残念ながら4名は既に故人となった)、室堂から雷鳥沢の雪渓を左に別山乗越2,750 mへ上って薄暗い空におどろおどろしくも猛々しく聳え立つ剣岳に正対した時、果たしてこんな山に登れるのだろうか、これは正しく魔の山だと思った。
前進基地は佐伯さんの剣沢小屋、食事が良いので評判、翌朝5時発、一服剣へ登って一旦武蔵のコルへ下り難所の前剣の門、平蔵の頭、コルからカニノタテバイ、頂上2,998 mへと夢中で登った。
下りもカニノヨコバイなど気を許せない。剣沢小屋で昼食休憩、別山乗越から別山山頂2,874 mを越えて内蔵助山荘泊まり。翌朝も早立ちで真砂岳2,860 mを越えて富士ノ折立2,999 mへ登るが、いきなり叩き付ける豪雨とともに真近の雷、3,000 m近い稜線では遮るものは何もない。「山本さん、どうしますか」の声に「逃げる先は大汝避難小屋」と走り出した。
何とか小屋へ転がり込んだが、一人腹の調子が悪く用を足してから追いついたので「丁度、水洗便所になってよかったのでは」は悪い冗談だった。
雨が小降りになってから雄山3,003 mを経由して室堂に下りたが、此の水洗便所の君が百名山を達成した時、一番大変だった山は何処と聞いたら、ためらわずこの時の剣・立山縦走を上げた。九州天草出身の快男児だったがもう会うことは出来ない。

槍ヶ岳は好きな山で槍沢、東鎌尾根、西鎌尾根と4度登ったし、戸隠の高妻山は一不動五地蔵八観音と上り下りを繰り返し、行きが上りで帰りが下りとも言えない不思議な山だった。
70歳の記念となった北穂・涸沢・奥穂・前穂や太郎平・黒部五郎・双六・笠、荒川三山・赤石岳、雲ノ平、水晶岳、鷲羽岳等随分多くの縦走路を歩いた。
73歳の塩見岳で日本の3,000 m峰21座を完登したが、10年前二度目の奥穂高以来3,000 m峰を訪れることが無くなってしまった。

気分としては登れないのではなく、登らないだけだと思いたいのだが、最近の平衡感覚や歩速の低下は逃げきれない現実だ。
然し、翻って考えればこの年にして未だ歩ける、幾らでも自然を楽しめるとポジティブに考えればまだまだ過去の人になることはない。
これからも身の丈に合った楽しさを求めて生きたいと願っています。

(2019.07.30)

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