第37回散策の会 報告

谷中七福神めぐり

平成30年1月9日(火)

七福神めぐりも今年ではや8回目になります。これまでの延べ50福神のご利益のおかげで元気な20名の方々が今回も参加していただきました。
「谷中七福神めぐり」は江戸市中で最も古い歴史を持っていて、神社がなくお寺ばかりの珍しいものです。ただめぐる距離が長く、約11,000歩は参加者の年齢(女性を除く推定平均年齢76歳)ではかなりきつかったように思われます。しかし快晴のうえ、桜の咲く頃の気温16度にもなったのは幸運でした。

さて何処の部位に貼ろうかなあ、頭はもう手遅れだし

さて何処の部位に貼ろうかなあ、頭はもう手遅れだし


☆福禄寿 東覚寺(北区田端2-7-3)
JR田端駅から7分ほどにある山門に入ると、真っ赤な異様な姿の仁王様が2体、目につきます。「赤紙仁王」と呼ばれる金剛力士です。体の悪い部分と同じ部位に赤紙を貼って祈願すれば、病気が治るという風習があるのです。病気が治癒した人が奉納する草鞋がたくさん脇にありました。裏の立派な日本庭園も拝見しました。さて、本日の主役の福禄寿は30cmほどの厨子に収まり、緑の衣を着た木造仏でした。真言宗豊山派。

小さな福禄寿ですがお賽銭箱は・・・

小さな福禄寿ですがお賽銭箱は・・・


☆恵比寿 青雲禅寺(荒川区西日暮里3-6-4)

ふっくらした恵比寿様は赤い衣装を着て、左手に鯛、右手に釣り竿を持ち、海中の岩に座っておられました。ここは江戸時代花見の場所として賑わったので「花見寺」と呼ばれています。なるほど境内に今は葉を落とした大きなしだれ桜の木が2本ありました。臨済宗妙心寺派。

釣り竿の先には海老が(ン?)

釣り竿の先には海老が(ン?)


☆布袋尊 修性院(しゅしょういん)(西日暮里3-7-12) 
このあたりは「ひぐらしの里」といわれたので、布袋も「ひぐらし布袋」と呼ばれています。木造で“どてぇ~”とした巨大な体躯の上に破顔一笑のお顔が乗っていました。布袋様はそもそも中国の唐の末期に実在したとされる人物で、生活用具を入れた大袋を背負い、あちこち徘徊していた悠々自適の乞食坊主だったといわれています。となればかなり痩せていたはずなのに、それが神格化されると、このように肥満体になるから不思議です。

お前さん、お賽銭は幾らじゃな?

お前さん、お賽銭は幾らじゃな?

お寺は谷中銀座の北側の静かな通りにあり、ピンク色の塀には19枚ものユーモラスな布袋様のイラストが描かれたタイル画がはめ込まれていたので、すぐに分かりました。ここもかつては数々の花が咲き「花見寺」と呼ばれていたそうです。日蓮宗。

布袋様の前で皆さん安心して?集合写真を撮りました

布袋様の前で皆さん安心して?集合写真を撮りました

この後、道中にあった経王寺にちょっと立ち寄りました。ここは上野戦争の際、彰義隊士が隠れたため新政府軍の攻撃を受けた所で、山門に数発の弾痕が残っています。一瞬150年前の銃声が聞こえたような気がしました。

歴史の弾痕の向こう側は平成最後の年

歴史の弾痕の向こう側は平成最後の年


☆毘沙門天 天王寺(台東区谷中7-14-8)
毘沙門天像は伝教大師作と伝えられています。このお寺は目黒不動・湯島天神と共に「江戸の三富」といわれ、寺を維持するために幕府から富くじ興行を許されていました。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった五重塔は昭和32年に放火心中事件で焼失し、近くに塔址が残っています。なお、ここは平成23年5月の「谷・根・千めぐり」で訪れたことがあります。天台宗。

☆寿老人 長安寺(谷中5-2-22)
徳川家康が納めたものと伝えられている寿老人像は1mほどの木造の座像で、脇に1,500歳といわれる鹿を従えています。また、墓地の中程に狩野芳崖(日本画家)の墓がありました。臨済宗妙心寺派。

鹿でさえ1,500歳、寿老人に長寿を願って

鹿でさえ1,500歳、寿老人に長寿を願って


☆大黒天 護国院(台東区上野公園10-18)
ここの大黒天画像は徳川家光が贈ったものだそうです。その御前立として黒光りした穏和なお顔立ちの大黒様の立像がありました。本堂脇の庫裏の1階部分は昭和2年の建築で、国の登録有形文化財です。寛永寺の最初の子院で、天台宗。

家光寄贈の画像を従えて穏和な大黒天

家光寄贈の画像を従えて穏和な大黒天


☆弁才天 不忍池弁天堂(上野公園2-1)
森鷗外の旧宅跡を右にみて、左手の高台の「精養軒」を仰ぐ頃、疲労度はかなり増します。ようやく不忍池に到着。池の蓮は茎が折れ曲がり、寂寞とした冬枯れの様相を呈していましたが、島の中の弁天堂は人であふれかえっています。しかし弁天様は秘仏のため拝顔はできず、足どりが俄然重くなりました。見ることの叶わない弁才天は慈覚大師の作と伝えられ、八臂(八本腕)だそうです。そういえば井の頭池の弁天様も八臂でした。江戸時代、天海僧正が琵琶湖の竹生島になぞらえて不忍池に小島を造り、竹生島から弁才天を勧請して弁天堂を建てたといわれています。

夕日を浴びてカラ(?)元気溌剌笑顔の二十福神

夕日を浴びてカラ(?)元気溌剌笑顔の二十福神


【散策後の懇親会】

上野・アメ横のガード下にある「酒亭じゅらく上野店」で16時から行いました。11,000回足を動かした面々は椅子に張り付いたように動かず、酒のオーダーが速射砲のように放たれます。「じょっぱり(青森)」「車坂(山形)」「日高見(宮城)」を2時間飲んで、牛歩から千鳥足に変わった一同は上機嫌で上野駅に向かいました。

隅から隅までズイ~ッと「おめでとうさん」

隅から隅までズイ~ッと「おめでとうさん」


【参加者】
荒木・井垣・伊藤(徹)・大河原・大河原夫人・大島・小川・国友・栗原・小林(弘)・小山・佐藤(俊)・篠原・末次・鈴木・田中・野村・堀田・松村・山本(20名)

  (文:佐藤(俊)、写真:荒木)

 

第37回散策の会 のお知らせ

散策の会の第37回例会は、「谷中七福神めぐりです。

【日時・集合場所】

平成30年1月9日(火)午後1時00分
JR田端駅 北改札口前 集合

【経路】
JR田端駅→東覚寺(福禄寿)→青雲寺(恵比寿)→修性院(布袋尊)→天王寺(毘沙門天)
→長安寺(寿老人)→護国院(大黒天)→
不忍池弁天堂(弁才天)→JR上野駅(解散)

【参考情報】
(1)歩行数は約1万1千歩、 前回や前々回の約2倍弱
(2)解散後、希望者で懇親会を行う。(会費 4,000円程度)

【申し込み】
1月7日までに佐藤(俊)の下記あてにお願いいたします。
090-9149-8977 またはt-sato(at)ion.ocn.ne.jp
*Emailで連絡する場合、(at)を@に変更してください。

なお、懇親会出席希望の方で、前日・当日のキャンセルは、食事代2,500円を申し受けます。

 (以 上)

 

第36回散策の会 報告

丸の内のレトロビルをめぐる

平成29年11月25日(土)

“昭和は遠くなりにけり、況んや明治・大正においてをや”。明治時代の建物はそっくり再現、大正の物は一部保存、昭和はまだまだ現役、そしてはかなく跡地に記念碑だけのものも。今回は丸の内近辺に点在するそんなレトロなビルを訪ね歩いてみました。そこには機能面の充実との狭間で、先人達の残した遺産を守ろうとする関係者の気概が感じられます。さらには行き先につぎつぎと出現した新ビルを仰ぎ見ながら、最先端のビジネス街も味わって来ました。11月下旬の雲一つない日本晴れの日、丸の内は輝いていました。

東京駅天皇家の出入り口前で集合写真

東京駅天皇家の出入り口前で集合写真


☆東京駅丸の内駅舎(丸の内1-9-1)
現在ある三代目の駅舎は約100年前の初代のように3階建にし、南北のドームも丸屋根にもどし、平成24年に完成したものです。二代目は空襲のあと、昭和22年に2階建で再建された南北の屋根が木造八角形のもので、それが長い間われわれの目におなじみの建物でした。駅舎は重要文化財に指定されています。今回、集合場所を北口のドーム下に選んだのは、ドーム内部の十二支(8つしかない)や鷲の彫刻を見てほしかったからです。ただ天井が高くて細かい部分はよく見えず、そのうえ人の流れや騒音が多く、説明もそこそこに立ち去りました

ドームの天井装飾を堪能

ドームの天井装飾を堪能


☆日本工業倶楽部会館(丸の内1-4-6)
大正9年に会員の交流施設として完成、平成15年に南側部分だけを保存して建て替えました。内部も当時のままそっくり保存されていますが、残念なことに会員以外は入ることはできませんでした。正面屋上に戦前の二大工業だった石炭と紡織を表現する人物像が載っています。現在は三菱UFJ信託銀行本店ビルの一部です

正面屋上の人物像

正面屋上の人物像


☆新丸ビル(丸の内1-5-1)
このビルは平成19年に竣工された超高層ビルなので、いわゆるレトロビルではありませんが、7階のテラスから東京駅正面が一望できるので昇ってみました。赤煉瓦のシンメトリーな丸の内駅舎全体が、目の前のワイドスクリーンに投写された映像のような迫力で広がって見えます。このあと近くの「KITTE」ビルに立ち寄り、屋内日本最大級のクリスマスツリーを眺め、何色もの光の変化を鑑賞してきました。

「KITTE」ビルの色が変わるクリスマスツリー

「KITTE」ビルの色が変わるクリスマスツリー


☆三菱一号館(丸の内2-6-2)
明治27年にジョサイア・コンドルの設計で完成したもので、丸の内最初の洋風貸事務所でした。平成21年にレプリカ再建され美術館として使用されています。ちなみに赤煉瓦230万個は当時に近い製法ですが、国内では入手困難で中国製です

信号待ちをしながら三菱一号館赤レンガを見上げる

信号待ちをしながら三菱一号館赤レンガを見上げる


☆明治生命館(丸の内2-1-1)
昭和9年に竣工した建物がそのままの形で残っています。戦後GHQに接収されアメリカ極東空軍司令部として使用されました。洋風の意匠を導入した建築としては1つの到達点に達したものといわれ、昭和に建てられた建物として初めて重要文化財に指定されました。5階分の高さのコリント式列柱はすばらしいものです。ここは内部に入り、見学コースに沿って歩きましたが、落ち着いた雰囲気の漂う空間でした。

明治生命館のコリント式列柱

明治生命館のコリント式列柱


☆第一生命館(有楽町1-13-1)
昭和13年に竣工しました。外装は花崗岩を主として、装飾を排したシンプルで力強いデザインです。正面の10本の柱は美しさの表現であるのは無論ですが、夕日と騒音を遮るためでもあるそうです。昭和20年にGHQ庁舎として使用されましたが、その時のマッカーサー総司令官室は一般公開されていません。いまの建物は平成7年に「DNタワー21」として竣工しました。戦前最後の大規模建築物として、東京都選定歴史的建造物になっています。

10本の柱のある第一生命館正面

10本の柱のある第一生命館正面


☆日比谷公会堂(日比谷公園1-3)
色づいた木々の間に覗く赤煉瓦の建物は、頭に時計台を載せ縦線を強調した造りが目立ちます。昭和4年の完成で当時は都内唯一のコンサートホールでした。設計者は早大教授で大隈記念講堂や津田塾大学を設計した佐藤功一。昭和35年の秋、日本社会党委員長の浅沼稲次郎(早大OB)がここで右翼の少年に刺殺され事件は、暴力で言論を封じようとしたテロでした。現在は大規模改修工事のため休館中です。

懐かしい思い出の詰まった日比谷公会堂

懐かしい思い出の詰まった日比谷公会堂


☆鹿鳴館跡(内幸町1-1)
コンドルの設計により、国賓などの接待に使用する社交場として、明治政府によって建てられました。外国人や政府高官たちの舞踏会が毎夜開かれ、「鹿鳴館外交」や「鹿鳴館時代」の言葉が残っています。
明治16年に落成し、鹿鳴館としては明治23年まで、そして建物は昭和15年に取り壊されました。いまは帝国ホテルの隣のNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の横に石碑があるのみで、往時を偲ぶよすがはありません

鹿鳴館跡の碑の前で洋装麗人を想像しながら

鹿鳴館跡の碑の前で洋装麗人を想像しながら


☆泰明小学校(銀座5-1-13)
関東大震災で木像校舎が焼失したあと、昭和4年に建てられた当時としては超モダンな校舎です。東京大空襲で大きな損害を受けましたが、復旧工事を経てほぼ建築当時の姿に復元されました。蔦のからまる外壁、半円形の窓、アーチ型の開口部のある塀など実にしゃれたデザインの塊です。ここも都の歴史的建造物に選定されています。卒業生に北村透谷・島崎藤村らの詩人、信欽三・加藤 武・朝丘雪路・中山千夏ら俳優陣、ほかに近衛文麿や池田弥三郎がいます。

建築当時の姿に復元された泰明小学校。卒業生はいませんか?

建築当時の姿に復元された泰明小学校。卒業生はいませんか?


【散策後の懇親会】
早稲田マンに銀座は似合わない・・・ということで解散地の銀座駅から新宿へ移動、東口の「御酒印船 新宿店」で行いました。「吉乃川」など地酒11種をリクエストした強者もいて、18時30分みなさんご機嫌よく帰路に向かいました。

【参加者】
荒木・伊藤(徹)・大島・梶川・小林(弘)・定村・佐藤(俊)・志村・滝沢・竹内・千葉・中村・堀田・松村・山本 (15名)

 (文:佐藤(俊)、写真:荒木)

 

第36回散策の会 のお知らせ

散策の会の第36回例会は、「丸の内のレトロビルをめぐるです。

【日時・集合場所】
平成29年11月25日(土) 13時30分
JR東京駅丸の内北口 丸ドーム真下 集合

【経 路
東京駅丸の内駅舎→日本工業倶楽部会館→新丸ビル→三菱一号館→
明治生命館→第一生命館→鹿鳴館跡→日比谷公会堂→泰明小学校→
東京メトロ銀座駅(解散)

【参考情報】

(1)歩行数は約6,500歩。
(2)解散後、希望者で懇親会を行う(会費4,000円程度)。

【申し込み】
11月23日までに佐藤(俊)の下記あてにお願いいたします。
090-9147-8977 または t-sato(at)ion.ocn.ne.jp
メールアドレスは、 (at) を@に変えてご利用ください。

なお、懇親会出席希望の方で、当日のキャンセルは、食事代2,800円を申し受けます。

(以 上)

 

第35回散策の会 報告

向島百花園界隈めぐり

平成29年9月30日(土)

われらがメンバーにも風流を好む人がきっとおられるに違いないと思い、それなら『秋の七草』を、となれば場所は向島百花園だろうということで出かけました。期待どおり名物の「萩」をはじめ、うつろいゆくさまざまな秋の草花を鑑賞して、薄曇りの9月の晦日を楽しみました。これに加えて、道中にある1寺1社も寄ってみました。集合場所の鐘ヶ淵駅近くでは明治の中頃に鐘淵紡績が創業し、広大な東京工場がありました。でも今では「カネボウ」の名は化粧品(花王の子会社)のみになってしまいました。また、近年は東武伊勢崎線の一部がスカイツリー線 と改称されるなど、時代は流れていることを痛感します。

「鐘淵紡績」を思い出す駅

鐘淵紡績」を思い出す駅

巨大な防災壁となる団地

巨大な防災壁となる団地

さてこの度、8年間もの長い間、散策の会の会長として参加者をお世話いただいた滝沢さんが、6月をもって会長職を勇退されました。これまでの文化に満ちた企画・立案と実施のご努力に対して、心から感謝申し上げます。また、いくつもの同好会で、いつもすてきな写真とキャプションを提供してくださる荒木さんに、今回もまたまたお願いしてしまいました。今後とも強力な味方としてお世話になります。さらにはヤングパワーの松村さんが新たに幹事として加わり、懇親会場の設営等にさまざま有効な助言をいただきました。力不足の新米会長佐藤と共に、さあ新体制の第一歩です

纏とスカイツリーのコラボです

纏とスカイツリーのコラボです


木母寺(もくぼじ) 
(墨田区堤通2-16-1)
東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅から徒歩15分の隅田川沿いにこのお寺はあります。
平安時代の中頃、琵琶湖のほとりで人買いにさらわれた梅若丸が奥州へ売られに行く途中、この地で12歳の生涯を閉じるという、哀れな人買い物語の『梅若伝説』の舞台であり、梅若の霊を供養した小庵が始まりと伝えられています。
当初「梅若寺」と称していましたが、後に「梅」の字を分けて「木母寺」としました。周囲を首都高や長大な高層都営団地に囲まれ、いかにも都区内の寺院といった風情ですが、近くに広い公園があるので少し開放感があります。

木造を火災から守るためのガラスに囲まれて

木造を火災から守るためのガラスに囲まれて

「梅若丸」の霊を供養した小庵

梅若丸」の霊を供養した小庵

☆隅田川神社  (堤通2-17-1)
木母寺から5分の所にあります。「水神さん」と呼ばれ近在の人に親しまれていました。隅田川の守り神であり、船頭や船宿などの信仰を集め、また「水」との縁から水商売の人達にも人気があったそうです。源頼朝が戦勝を祈願して創建したと伝えられています。
都内では一般的にお寺は堂宇や墓地用に広い土地を有している所が多いようですが、それに比べて神社は狭隘な土地に窮屈そうに収まっている場合がよく見受けられます。ここも社殿の頭上を首都高がかぶさり、都会ならではの気の毒な様相をしています。

隅田川の守り神「水神さん」

隅田川の守り神「水神さん」

門は高層都営団地の入り口に

門は高層都営団地の入り口に

☆向島百花園   (入場料 65歳以上70円) (東向島3-18-3)
「四季百花の乱れ咲く園」という意味で命名され、絵師の酒井抱一や狂歌師の大田蜀山人など江戸の文人墨客がよく訪れた名所です。「萩まつり」の期間中ということで入園者も多く、園内には狙いどおりオミナエシ・キキョウ・オバナなど秋の七草が咲き乱れていましたが、とりわけ名物の萩のトンネルは赤紫や白と緑に包まれた30mでした。季節の草花を大切にする心が感じられます。
江戸末期の風流人で、日本橋の骨董商だった佐原鞠塢(さわらきくう)が別邸として造園した所です。これまでにいくつか廻った大名庭園は金をかけた造りでしたが、ここは町人文化が花開いた文化・文政期(19世紀初頭)の庶民の趣のある庭園でした。今は国指定の名勝・史跡で都立の庭園です。

萩のトンネルを出ると・・・

萩のトンネルを出ると・・・

ちょうど良い椅子が在ったので

ちょうど良い椅子が在ったので

【散策後の懇親会】
帰りの電車ルートを考慮して、解散地の東向島駅から1駅乗った、曳舟駅近くの「三代目網元 さかなや道場 東武曳舟駅前店」で行いました。刺身の三種盛り・ムール貝とあさりの貝豆腐・鰹の山わさびソース・鮪のっけ巻き寿司など、店名どおり魚もさまざまでした。酒は「出羽桜」、焼酎は「一刻者」に注文が集中したようです。今回は歩数が6,000歩程度で、これまでと比べかなり負担が少ないコース。集合場所を14時スタートで16時ちょっと過ぎには飲み屋ののれんをくぐるという早業ができました。そのうえ元気な人だけが参加する会だけに、帰路の長丁場を気にせず、飲む方もいたって元気。笑声が絶えず、あっという間に時間は過ぎ去りました。散策2時間、懇親会2時間、どっちがメインなんだろう?

どっちがメイン? 「もちろん○○です!」

どっちがメイン? 「もちろん○○です!」

【参加者】
荒木・伊藤(徹)・小川・国友・小林夫人・定村・佐藤(俊)・鈴木・滝沢・千葉・土井・野村・松村・山本(14名)

(文:佐藤(俊)、写真:荒木)


 

第35回散策の会 のお知らせ

 

散策の会の第35回例会は、「向島百花園界隈めぐり」です。

【日時・集合場所】
平成29年9月30日(土)  14時00分
東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅 西口改札前 集合
【経 路
東武スカイツリーライン鐘ヶ淵駅→木母寺→隅田川神社→向島百花園→東向島駅
【参考情報】
(1
)歩行数は約7,000歩
(2
)トイレは木母寺と向島百花園にあり
(3)解散後、希望者で懇親会を行う(会費 4,000円程度)
     「三代目 さかなや道場 東武曳舟駅前店」  03-5630-4011
【申し込み】
9
月28日までに佐藤(俊)(090-9149-8977)あてにお願いいたします。
なお、懇親会出席希望の方で、当日のキャンセルは、食事代2,800円を申し受けます。

 

第34回散策の会 報告

皇居東御苑をめぐる

平成29年5月14日(土)

12世紀の初頭、この地を開発して館を築いたのが江戸氏といわれています。室町時代に太田道灌が江戸城を築城し、戦国時代には小田原北条氏の支配下に置かれます。その後徳川家康が入城し、さらに徳川三代の手によって江戸城が完成しました。そして大政奉還後に宮城となります。
大手町駅に集合した老々男女15名は、そんな900年にも及ぶ歴史に思いを馳せながら、本降りの雨の中皇居の東の地区を回ってみました。ただ日本史上最大の城郭といわれる江戸城も、その後の火災・大震災・大空襲などで多くの遺産が失われてしまっています。

大手門で集合写真。江戸と現代のコラボ・・・

大手門で集合写真。江戸と現代のコラボ・・・

☆大手門(千代田区千代田1-1)
大手町という町名の由来にもなった江戸城の正門です。ここから諸大名は登城し三の丸に入りました。何度も火災や震災に遭い,現在のものは昭和42年に再建されたものです。

☆三の丸尚蔵館
皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類を収蔵・展示している施設で、平成5年に開館しました。訪れた時の企画展では円山応挙・司馬江漢・横山大観の風景画もありました。

三の丸尚蔵館の外は大雨でした

三の丸尚蔵館の外は大雨でした

☆同心番所
登城する大名達は大手三の門で駕籠を降ります。そのお供達を監視する与力や同心がここに詰めていました。

同心番所の前で解説

同心番所の前で解説

☆百人番所
長さ50mを超える建物で、江戸時代から残る数少ない遺構です。ここは本丸を警備する番人の最大の詰所で、将軍の親衛隊であり、鉄砲の扱いに慣れた1組当たり与力20人と同心100人で構成の4組{甲賀(こうか)組・伊賀(いが)組・根来(ねごろ)組・二十五騎組}が交代で詰め、24時間警護に当たっていました。

24時間眠らない?百人番所

24時間眠らない?百人番所

☆二の丸庭園
五月雨に濡れる美しい樹木に囲まれた一帯です。池にはコウホネやアサザが浮かび、錦鯉も泳いでいます。車の往来音も聞こえず、これが東京のど真ん中にあるとは思えない風景です。
かつて二の丸には将軍の跡継ぎや大御所(隠居した前将軍)などが居住する御殿がありました。現在ある庭園は九代将軍家重時代の図面をもとに、昭和43年に回遊式庭園として復元されたものです。雨の中訪れる日本人客は少なく、西洋人客が目に付くばかりです。

外国人ツアー客と一緒に

外国人ツアー客と一緒に

☆大番所
中之門の内側に設けられた本丸への最後の番所で、他の番所より位の高い与力・同心が守っていました。現在のものは再建されたものです。

☆富士見櫓
高さは約16mで、将軍がここから両国の花火や品川の海、富士山を眺めたそうです。「振袖火事」(1657年)で天守が焼失した後は、ここが天守の代わりとなりました。ただこの櫓も同じ時に焼けたので、現在のものは1659年に再建されたものです。

タイムスリップして江戸時代へ

タイムスリップして江戸時代へ

☆松の廊下跡
「忠臣蔵」で有名な「松の廊下」の跡です。「本丸御殿大広間」と「白書院」をつなぐ畳の廊下で、幅が2間、長さが26間の鉤型で、江戸城で二番目に長い廊下でした。襖戸に松と千鳥の絵が描かれていたのでこの名がつきました。ただ、いまは名を刻んだ石碑が1つあるのみです。

耳を澄ませば・・・「殿中で御座る!」

耳を澄ませば・・・「殿中で御座る!」

☆富士見多聞(ふじみたもん)
昨年の11月から内部公開を始めた建物です。多聞とは石垣の上に建てられた長屋型の櫓のことです。戦時はここから鉄砲や弓矢で狙撃し、平時には武器庫として使われました。江戸城には15の多聞がありましたが、現存するのはここだけです。

柱の間から狙撃隊の気分で・・・

柱の間から狙撃隊の気分で・・・

☆本丸跡
現在は広大な芝生と植え込みと、アスファルトの遊歩道があるのみです。
本丸御殿は表・中奥・大奥の三つに分けられていました。表は将軍が謁見する御殿や諸役人の執務部屋。中奥は将軍の執務室兼生活空間、大奥は将軍の正室・生母・子供の居室、奥女中が生活する空間でした。
本丸は5回火災に遭いその都度再建されてきましたが、明治に入る直前の火災後は資金が尽き再建されませんでした。

天守へ登城します

天守へ登城します

☆天守台
巨石を組み上げた見事な天守台を見るだけで、壮大な天守が頭に浮かびます。天守は徳川幕府の初期の頃に3回造営されました。二代将軍秀忠の時の天守は高さ58m(現在の大阪城は55m)の五層五階建で、屋根に金の鯱が置かれていました。「振袖火事」(1657年)で焼失し以後、すでに防衛の役目を終えたことと、大火での市中の復興に資金を使うべきとの考えから再建されませんでした。
坂道を登った上はベンチの他なにもない広場ですが、雨に煙る日本武道館や大手町のビル群が望めます。

☆桃華楽堂
音楽好きの香淳(こうじゅん)皇后(昭和天皇の皇后)の還暦記念として,昭和41年に建設されました。屋根がテッセンの形を模した八面体で、モザイクの壁面が美しい音楽堂です。屋根の上には金色の雛人形が飾られていました。設計したのは演劇博物館や會津八一記念博物館(旧図書館)を設計した早大教授の今井兼次氏です。

右下写真は中央雛人形の拡大

右下写真は中央雛人形の拡大

☆北桔橋門(きたはねばしもん)
本丸の大奥から外部へ通じる門で、壕を深くし石垣は最も堅固にしてあります。橋は跳ね橋で、通行を遮断するため通常は上げられていました。

【散策後の懇親会】
竹橋駅から東西線で高田馬場駅へ移動し、駅前にある稲門ビルの「米家ル」(まいける)で行いました。日本酒通の滝沢会長がセレクトした「一ノ蔵」「八海山」「獺祭」を飲み放題種として、若鶏と野菜の塩鍋、本マグロの刺身や雲丹マヨの揚げじゃがなどで冷えてた体も温まるほどに、アカペラで歌い出す御仁も出始め、大いに盛り上がった一夕でした。

【参加者】
荒木・伊藤(徹)・栗原・佐藤(俊)・志村・滝沢・竹内・土井・野村・堀田・松村・山本・横田・定村・千葉(15名)

(文=佐藤(俊)、写真=荒木)



第34回散策の会 のお知らせ

散策の会の第34回例会は、「皇居東御苑を巡る」です。 

【日時・集合場所】
平成29年5月13日(土) 14時
東京メトロ大手町駅 C10出口地上に集合
【経 路
大手町駅―大手門―三の丸尚蔵館―同心番所百人番所―二の丸庭園―大番所―富士見櫓―松の廊下跡―富士見多聞―本丸跡―天守台―桃花楽堂―北詰橋門―竹橋駅(解散)
【参考情報】
(1)歩行距離は2.5キロ程度。登り下りが数か所。
(2)トイレは皇居の中に数か所。
(3)解散後、希望者で懇親会を実施。4,000円程度。

  「米家ル(まいける)」(高田馬場駅前・稲門ビル 03-6233-7881)

【申し込み】
5月11日(木)までに、滝沢(042-345-0953)あてにお願いします。

(以 上)

第33回散策の会 報告

国分寺崖線をめぐる          2017年3月25日(土)

このコースには春うららがふさわしいと思い、3月下旬に企画しました。週初めの日の最高気温が19度なのでこの調子で!と祈ってはみたものの、週末は花冷えの11度。薄曇りの中“春の小川はさらさら流る・・・”文部省唱歌の心の原風景を求めて、国立市の近郊を歩いてみました。川幅1mほどの清らかな小川が岸辺に小さな花を添えて、コースの大半をつかず離れず寄り添うように流れていきます。

澄んだ水が流れ、少年が蟹を網で捕っていた

澄んだ水が流れ、少年が蟹を網で捕っていた

☆谷保天満宮 (谷保5209)
湯島・亀戸と並び関東三大天神一つと呼ばれ、創建は菅原道真が亡くなった903年、三男の道武が廟を建てたのが始まりといわれています。受験シーズンが終わり、御利益を与えたであろうおびただしい数の絵馬が下がっています。我等もさらなる学力アップを祈願し手を合わせました。ただ手遅れの感はありますが。

絵馬を奉納した子供達はみんな合格したかなあ

絵馬を奉納した子供達はみんな合格したかなあ

またここは、明治41年に有栖川宮威仁親王らが国産ガソリン車など11台で日本初の遠乗りを行い、この地で休憩したことから、交通安全祈願発祥の地ともいわれています。

右手看板だけで、レプリカ車も外出中でした

右手看板だけで、レプリカ車も外出中でした

江戸時代、太田蜀山人が『神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん』と詠み、ここからありがたくない「野暮天」の語が生まれたという説もあります。
社名は「やぼ」(駅名・地名は「やほ」)。チャボが10羽近く足下をついばんでいました。

「やぼ」の「チャボ」チャボが10羽で「ヤボテン」?

「やぼ」の「チャボ」チャボが10羽で「ヤボテン」?

☆城山(じょうやま) (谷保6003)
青柳段丘の高さ8mの台地の縁にある、鎌倉時代初期の三田氏といわれる居館跡で、土塁・空堀や方形の曲輪(くるわ)が残っています。ただ現在私有地で、立ち入ることは叶えられませんでした。

奥のヤブの所が居館跡

奥のヤブの所が居館跡

☆城山公園  (谷保5983)
城山の足下にあり、崖線の地形をそのまま生かした親水公園です。さまざまな木が生い茂り原始のハケの姿を今に伝える一方、木橋や広場があり子供達の絶好の遊び場となっています。ただ学校も春休みに入ったこの時期なのに子供の姿はく、その代わりにアメンボだけがすいすい泳ぎ回っていました。

城山公園の移築古民家、小平のふるさと村にそっくり

城山公園の移築古民家、小平のふるさと村にそっくり

☆ハケ下散策路
ヤクルト中央研究所のすぐ脇を、崖から湧き出る水が小川となって流れ、その縁を歩きやすい散策路が続きます。川と歩道の間は野草園になっていて、さまざまな花の名札が立っていましたが、3月下旬では目につくのはハナニラ、ユキヤナギ、ハナダイコンくらいでした。この辺では崖のことを「ハケ」や「ママ」といいいます。

近代的なヤクルトの研究所の脇をハケからの水が流れる

近代的なヤクルトの研究所の脇をハケからの水が流れる

☆くにたち郷土文化館(谷保6231) (入場無料)
大きなガラス張りの明るい建物で、国立の歴史や自然についての資料を展示してある学習の場です。展示物の「石棒」は近々国の重要文化財に指定されます。(佐賀市の大隈重信記念館も同じ時に登録有形文化財に指定。)

重要文化財の「石棒」のあるくにたち郷土文化館

重要文化財の「石棒」のあるくにたち郷土文化館

☆ママ下湧水公園
その昔わさび田だったことがうなずけるほど、清らかな水が足下を流れて行きます。そして川上の行き止まりは小さな洞穴があり、水底から湧き出る水源地になっていました。
なおこの後、1月に国分寺市にオープンした東京都立多摩図書館を訪ねる予定でしたが、時間の都合で割愛しました。期待されていた方々にはお詫びいたします。

左手奥の崖から水が絶え間なく湧きだしている

左手奥の崖から水が絶え間なく湧きだしている

☆散策後の懇親会
国分寺駅南口直前の「庄や」で行いました。脇には通い慣れたカラオケ店のネオンが招いています。献立はキャベツのぶつ切りサラダ・もつ煮込み・刺身の五点盛り・串カツ・鶏唐揚げ・ポテトフライ・茶そば、そしてこだわる人の多いプレミアム飲み放題の日本酒は高清水・浦霞・澤乃井の1升瓶が3本でした。実は幹事にとっては散策コースの策定よりも、懇親会場の選定の方がはるかに難儀なのです。幹事のリサーチ力不足(飲み回数不足?)のためご期待に添えない時もあり、その節はどうかご容赦をお願いいたします。

「庄や」で乾杯! 集合写真の代りです。ここに参加されなかった4人の皆さんごめんなさい。 でもスナップのどこかに写っていますよ

「庄や」で乾杯! 集合写真の代りです。ここに参加されなかった4人の皆さんごめんなさい。
でもスナップのどこかに写っていますよ


【参加者】
荒木・井垣・伊藤(徹)・大野・小川・小平・梶川・国友・栗原・小林夫人・佐藤(俊)・志村夫人・滝沢・竹内・土井・堀田・山本・横田、以上18名

(文=佐藤(俊)、写真=荒木・山本)

                    

第33回散策の会 のお知らせ

経路が変更・追加となりました(赤字部分。平成29年3月6日)

散策の会の第33回例会は、「国分寺崖線を巡る」です。 

【日時・集合場所】
平成29年3月25日(土) 13時30分
JR南武線 谷保駅改札口(1か所のみ)前に集合
【経 路
谷保駅―谷保天満宮―城山―ハケ下散策路―くにたち郷土文化館―ママ下湧水公園―矢川駅立川駅西国分寺駅東京都立多摩図書館西国分寺駅(解散)
【参考情報】
(1)歩行距離は約4キロ。
(2)トイレは、谷保天満宮その他にある。

【懇親会】
解散後、希望者のみで実施。会費4,000円程度。
庄や 国分寺南口店」 電話042-321-4351

【申し込み】
3月18日(土)までに、滝沢(042-345-0953)あてご連絡ください。