|
秩父34観音巡礼記
[その2] |
|
滝沢公夫(30法) |
|
[秩父三十四霊場の一覧]
番 |
山号 |
寺号 |
宗派 |
所在地 |
11 |
南石山
なんこくさん |
常楽寺
じょうらくじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
12 |
仏道山
ぶつどうざん |
野坂寺
のざかじ |
臨済宗南禅寺派 |
埼玉県秩父市 |
13 |
旗下山
きかさん |
慈眼寺
じげんじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
14 |
長岳山
ちょうがくさん |
今宮坊
いまみやぼう |
臨済宗南禅寺派 |
埼玉県秩父市 |
15 |
母巣山
ははそさん |
少林寺
しょうりんじ |
臨済宗建長寺派 |
埼玉県秩父市 |
16 |
無量山
むりょうざん |
西光寺
さいこうじ |
真言宗豊山派 |
埼玉県秩父市 |
17 |
実正山
じっしょうざん |
定林寺
じょうりんじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
18 |
白道山
はくどうざん |
神門寺
ごうどじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
19 |
飛淵山
ひえんさん |
龍石寺
りゅうせきじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
20 |
法王山
ほうおうざん |
岩之上堂
いわのうえどう |
臨済宗南禅寺派 |
埼玉県秩父市 |
21 |
要光山
ようこうざん |
観音寺
かんのんじ |
真言宗豊山派 |
埼玉県秩父市 |
22 |
華台山
かたいさん |
童子堂
どうじどう |
真言宗豊山派 |
埼玉県秩父市 |
23 |
松風山
しょうふうざん |
音楽寺
おんがくじ |
臨済宗南禅寺派 |
埼玉県秩父市 |
24 |
光智山
こうちざん |
法泉寺
ほうせんじ |
曹洞宗 |
埼玉県秩父市 |
25 |
岩谷山
いわやさん |
久昌寺
きゅうしょうじ |
臨済宗南禅寺派 |
埼玉県秩父市 |
|
[第11番札所 常樂寺]
セメント工場近くの寺 [第十一番] 常樂寺
(山号) 南石山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 十一面観音
(所在地) 秩父市坂氷781
(巡礼歌) つみとがも消えよと祈る坂ごおり 朝日はささで夕日かがやく
|
★常樂寺は、第十番から徒歩十五分のところにあります。山沿いの道を歩き、秩父セメントの工場のところから急な石段を登っていきます。秩父の街が見下ろされる場所に、三間四方の可愛らしい本堂があります。僅かな向拝も設けられております。
|
常楽寺本堂 |
秩父札所連合会HPから転借 |
|
★享保三年(1718)には出開帳をしましたが、その当時は、大きな観音堂があったとのことです。その後明治の大火で焼失、明治三十年に再建して今日に至っています。小さいながら清掃が行き届き、気持ちの良い本堂です。それにしても、セメント工場きらの粉塵を払う苦労が偲ばれます。
★本尊は、九十センチの立像で、行基菩薩がこの地で、観音を感得して刻んだものといいます。この寺は、当初秩父市街にありましたが、門海上人の開基により現在地に移転したとのことで、同上人の仁王門建設への祈願と病気快癒の奇跡の伝説が残っています。
|
|
[第12番札所 野坂寺]
秩父市街地の寺[第十二番] 野坂寺
(山号) 仏道山 (宗派) 臨済宗南禅寺派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市野坂2-12-25
(巡礼歌) 老いの身に苦しきものは野坂寺 いま思い知れ後の世の道
|
★野坂寺は、第十一番から徒歩二十分のところにあります。なだらかな坂を下っていきますと、秩父の市街地に入り、西武秩父線のガードをくぐってすぐのところです。
★山際の桜並木の参道を行きますと、堂々たる山門があり、ここから入りますと、境内は広々としています。正面には、六間四方の比較的規模の大きい本堂があります。明治末期に焼失し、その後再建されたものです。
|
野坂寺本堂 |
秩父札所連合会HPから転借 |
|
★本尊は、百五十センチ余りの、藤原時代の木造り聖観音といわれますが、豊満な吉祥天に似たような像です。
★昔、甲斐の商人がここで山賊に襲われましたが、観音に祈願したところ救われ、山賊は改心して出家、商人は感動して堂宇を建立し観音を安置したといわれます。勧善懲悪の思想が息づいている寺です。
|
|
[第13番札所 慈眼寺]
行基菩薩が刻んだ本尊[第十三番] 慈眼寺
(山号) 旗下山 (宗派 )曹洞宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市東町26-7
(巡礼歌) 御手に持つ蓮のはばき残りなく 浮世の塵をはけの下寺
|
★慈眼寺は、第十二番から徒歩二十分のところにあります。西武秩父駅の前を行き、秩父宮記念館から左折し、秩父鉄道の線路を渡ると右手すぐにあります。
★瓦葺の堂々たる山門を入りますと、秩父大火で焼失し、昭和三十年代に再建されたためか、意外に小さい三間四方の本堂があります。やや華美な装飾が目立ちますが、三手先の組み物を持っています。本尊は、行基菩薩が刻んだという聖観音で、脇侍として室町時代のものといわれる阿弥陀三尊が安置されています。
|
慈眼寺本堂 |
秩父札所連合会HPから転借 |
|
★伝説によりますと、日本武尊が東国征伐の際、この地に旗を立てたことから、地名と山号が生まれたといいます。また、この地の高野という檀徒の娘が江戸に嫁いだところ明暦の大火に逢い、観音の霊験によって生き延びたとも言われます。
★境内には石造りの一切経蔵があって、六角の蔵を回して功徳にあずかれるようになっています。納められているものは、京都の黄檗版の一切経千六百三十巻だといいます。一切経は、天平七年(735)玄肪が唐から持ち帰り、書写した黄檗版は延宝六年にできたといわれます。ここの全隆和尚は、江戸の旅館の主人から、宝暦五年(1755)一切経の奉納を受けたそうです。
★境内には、札所を開拓した聖者の像や枝垂桜もあり、この山中の寺を百観音に組み入れたことの苦労も偲ばれます。
|
|
[第14番札所 今宮坊]
多難な歴史を持つ寺 [第十四番] 今宮坊
(山号) 長岳山 (宗派) 臨済宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市中町25-12
(巡礼歌) 昔より立つともしらぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん
|
★今宮坊は、本来僧侶の住居を指す「坊」という語を使用していますが、これが本当の寺名なのです。第十三番から徒歩十分という近いところにあります。
★平安時代の修験道者・長岳坊の開山で、同人は永観二年(984)に没したといわれます。今宮神社と観音堂が同一場所にあり、今宮坊が両方を管理していたようです。京都の今宮神を祀ったのが今宮神社であり、また、観音堂は弘法大師が刻んだ観音が安置されて、長暦三年(1038)には堂宇が建築されていたようです。
★その後、永禄十二年には武田氏によって寺社は焼失しましたが、やがて再興され、神社・寺とも発展しましたが、明治の神仏分離によって荒廃し、遂に無住になってしまいました。
|
今宮坊本堂(観音堂) |
秩父札所連合会HPから転借 |
|
★今宮神社は既にあませんが、今宮坊の本堂は、三間四方の小さいながら落ち着いたたずまいです。堂内には、藤原時代後期の飛天像(市指定重文)があります。ただ、狭い境内には地蔵尊が祀られているほかに見るべきものはありません。なお、ここの納経は、近くの民家で受けています。
|
|
[第15番札所 少林寺(蔵福寺)]
大変な変遷のある寺 [第十五番] 少林寺(蔵福寺)]
(山号) 母巣山 (宗派) 臨済宗建長寺派 (本尊) 十一面観音
(所在地) 秩父市番場町7-9
(巡礼歌) みどり子のははのそ森の蔵福寺 ちちもろともにちかひたのもし
|
★少林寺は、第十四番から徒歩十分の、繁華街から秩父鉄道の踏み切りを渡ったところにあります。石段を登り台地に出ますと、和洋折衷の白漆喰塗りの本堂が現れます。
|
少林寺本堂(観音堂) |
秩父札所連合会HPから転借 |
|
★寺伝によりますと、近江商人が、東国へ行く途上不思議な声を聞いたため、仏師の定朝にこのことを話したところ、定朝は近江観音像を商人に預けました。定朝は、平安時代後期の著名な仏師で、宇治平等院の本尊・阿弥陀如来坐像(国宝)が代表作。商人は領主に願い出て、秩父の母巣の森に堂宇を建立し、観音を安置したのが蔵福寺の草創といわれます。開山の東雄朔方は明暦二年(1656)に没したといわれます。
★明治維新の廃仏で、蔵福寺は廃寺となり、住職は神官となって本尊を売却してしまいました。これに怒った信者は、近くの少林寺に札所が設置されるよう運動し、やっと蔵福寺と少林寺が合併することで札所が復活したとのことです。
★しかし、当初からの本尊は、他の寺の本尊として現存し、ここの本尊は新しいものです。それにしても、大変な変遷を経てきた寺であり、怒りに似た思いを禁じ得ません。
|
|
[第16番札所 西光寺]
秩父神社近くの寺 [第十六番] 西光寺
(山号) 無量山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 千手観音
(所在地) 秩父市中村町4-8-21
(巡礼歌) 西光寺ちかひを人にたづぬれば 終のすみかは西とこそきけ
|
★西光寺は、第十五番から徒歩十五分のところにあります。途中に、秩父総鎮守・秩父神社があり、ここと宝登、三峰をあわせた三社巡りは盛んです。
★秩父神社の前を行き、右手に折れますと白壁の塀があり、小さな門を入りますと本堂に突き当たります。本堂は、三間四方の小規模なものですが、江戸末期のものといわれ、落ち着いた雰囲気を持っています。本尊は、行基菩薩の作と伝えられますが、実際は室町時代のものらしいです。
|
西光寺本堂 |
|
★開山は賢秀といわれますが、天文年間(1736-40)に中間開山・寛明和尚が寺門の興隆につとめ、今日の形態になったようです。本堂の欄間には、涅槃像や羅漢、動物の彫刻があります。この寺は、秩父神社とあわせ、ゆっくりとしたいところです。
|
[第17番札所 定林寺(林寺)]
暗い歴史的背景のある寺 [第十七番] 定林寺(林寺)
(山号) 実正山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 十一面観音
(所在地) 秩父市桜木町21-3
(巡礼歌) あらましを思い定めし林寺 かねききあいづゆめぞさめける
|
★定林寺は、第十六番から徒歩二十分のところにあります。静かな郊外風景の中を行き坂を登りますと、四間四方の中規模の本堂があります。本尊は鎌倉時代末期のものといわれます。
|
定林寺本堂 |
|
★東国の勇将・壬生良門は横暴を極め、家臣・林定元も追放された上死亡しましたが、その後良門は反省して定元の子に旧領を授け、更に定元の塚の傍に堂宇を建立、林定元の名をとって定林寺としたそうです。一方、ここは林寺とも称され、観音が安置されて霊場となったとのことです。
★本堂の前に県重文の梵鐘があり、日本百観音の本尊が浮き彫りになっています。現存のものは宝暦八年(1758)に再興されたものといいます。この鐘は、子供を捨てた母親が悔やんで寄進したものだそうです。どうもこの寺は、捨て子、間引き等幼児にまつわる暗い歴史的背景があるようでなんとなく陰気です。なお、納経は、すぐそばの民家が交代で受けています。
|
|
[第18番札所 神門寺]
無住の寺 [第十八番] 神門寺
(山号) 白道山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市下宮地町5-15
(巡礼歌) ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまへる
|
★神門寺は、第十七番から交通頻繁な国道を通り、徒歩二十分ばかりのところにあります。昔は大木が両側にあって、門のようになっていたことから神門寺の名がついたといわれますが、現在は何もありません。
★本堂は、方形の禅宗様で、屋根には宝珠をいただき、名匠・藤田若狭の作といいます。勾欄の擬宝珠には、安政五年(1858)の銘があります。堂内には納札が多く貼り付けられていて、札所の雰囲気はありますが、無住の寺だけにひっそりとして、とりつく島もありません。
|
神門寺本堂 |
|
★ここは昔は神社でしたが、荒廃したため村人が再興しようとしましたが、寺にするよう霊感があり、観音を安置して札所にしたといいます。中興開山の正覚は文禄四年(1595)没、寛政年間(1789-1800)に堂宇はすべて焼失し、寺歴については分からないことだらけの寺です。なお、納経は国道を挟んだ向かい側で受けます。
|
|
[第19番札所 竜石寺]
眺めの良い寺 {第十九番} 竜石寺
(山号) 飛淵山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 千手観音
(所在地) 秩父市大畑町15-31
(巡礼歌) 天地を動かす程の竜石寺 詣る人には利生あるべし
|
★竜石寺は、第十八番から山村風景の中を徒歩十五分ほどのところにあります。六地蔵の前から境内に入りますと、一面に敷き詰めたような凸凹のある岩盤になっています。本堂は小さいですが、内陣に四天柱があります。本尊は四十六センチの室町時代のものです。
|
竜石寺本堂(観音堂) |
|
★寺の縁起では、弘仁年間(810-23)弘法大師が自ら千手観音を刻みましたが、この地の村民が観音を念じていますと、大師の像が飛来し、村民は堂宇を建立してこの像を安置したのがこの寺の始まりといわれます。
★境内一帯の岩盤は巨大で、日照りの年には割れて竜雲が立ち上がり、豊年になったといわれます。境内からの眺めは良く、下に荒川の流れ、対岸に第二十番が望めます。一風変わった雰囲気の寺です。なお、納経はすぐそばの宗福寺で受けます。
|
|
[第20番札所 岩之上堂]
当地最古の本堂 [第二十番] 岩之上堂
(山号) 法王山 (宗派) 臨済宗南禅寺派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市寺尾2169
(巡礼歌) 苔むしろしきてもとまれ岩の上 玉のうてなもくちはつる身を
|
★岩之堂は、第十九番から徒歩十分、荒川にかかる秩父橋を渡り、急な坂を登った上にあります。本堂は荒川の崖の上にあり、極めて小さいですが、秩父では最も古い建物といわれます。元禄年間(1688-1703)に内部の補修、宝永年間(1704-10)に彫刻の補修が行われています。
|
岩之上堂本堂 |
|
★寺伝によりますと、昔は願上寺といって大伽藍を持っていましたが、天文・永禄の乱で焼失、その後仮堂に本尊を安置していましたが、当時この村を支配していた内田氏が観音堂を建立して願上寺は廃寺となり、現在はその名を記した額だけが残っているそうです。
★本尊は、承暦元年(1077)白河法皇が熊野に行幸した時の発願で、この地に安置されたものといわれます。六十八センチの立像で、学術的には藤原時代の作といわれ、市指定重文になっています。厨子は宮殿型のもので、堂内には、素朴な薬師・阿弥陀・観音等が安置されています。
★境内の乳水地蔵のところから滴る清水は、これを飲んだ母親の乳が出るようになったという伝説があります。納経は、近くの内田家で受けます。
|
|
[第21番札所 観音寺(矢ノ堂)]
秩父連山の美しい寺[第二十一番] 観音寺(矢ノ堂)
(山号) 要光山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市寺尾2354
(巡礼歌) 梓弓いる矢の堂に詣で来て 願ひし法にあたる嬉しさ
|
★観音寺は、第二十番から徒歩十分ばかり、小学校の近くにあります。本堂は小さいですが、「秩父廿一番」という大きな扁額が掛かっています。大正十二年、小学校からの類焼で全焼、廃寺になっていた建物を移築したものといいます。焼失前の本堂は、巨大なものであったらしいです。本尊は、火災の際に持ち出されています。
|
観音寺(矢ノ堂) |
|
★昔の本堂の境内は八幡宮の社地で、神託により行基菩薩の刻んだ観音像を安置して矢ノ堂と称し、堂宇を建立して札所としたといいます。
★矢ノ堂はもと矢納村にあり、日本武尊が東征の時、矢を納めて社を建てたものとも、またはその他の言い伝えもあるようです。ここからの秩父連山の眺望は素晴らしいものです。なお、納経はすぐ前の民家で受けます。
|
|
[第22番札所 永福寺(童子堂)]
ほのぼのとした可愛らしい寺[第二十二番] 永福寺(童子堂)
(山号) 西陽山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市寺尾3595
(巡礼歌) 極楽をここに見つけて童う堂 後の世までもたのもしきかな
|
★永福寺は、第二十一番から徒歩二十分ばかりのところにあります。のんびりした畑の中の道を行きますと、曲がり角に、高い台座を持つ地蔵尊があります。巡礼者を待ち受けているようで微笑ましいです。ここから狭い道を行き坂を登りますと、左手に茅葺の仁王門があります。いかにも可愛らしい仁王が安置され、ほのぼのとした感じを受けます。
★本堂は、三間四方の小規模なものですが、彩色の彫刻が施されており、内部も彩色されて地方装飾技術の粋を集めたものといえましょう。本尊は弘法大師の作と伝えられます。寺伝では、遍照僧正が大同二年(807)、淳和天皇の弟・伊予親王の菩提を弔うため、この地の領主に堂宇を建立させ、本尊を安置したものといいます。
|
永福寺(童子堂) |
|
★その後、延喜十五年(915)天然痘が流行したため、山奥の堂宇を里に移し、観音に祈願したところ子供達の天然痘は快癒し、それ以来童子堂の名が生まれたそうです。元禄十四年(1701)には、江戸の田井三右衛門弘祐が施主となり、永福寺住職の弟・栄鏡が願主になって、堂宇を建立しました。明治四十三年には荒川の西岸に移転、更に大正末期に現在地に移転したものといいます。
★童子堂の管理者である永福寺は、僧・南光の開山で、開基は鉢形城主・北条氏邦の家臣の息子・八木甚兵衛といいます。広々とした田園風景の中の可愛らしい寺、縁起からしてもほのぼのとした雰囲気に包まれています。梅並木のほかに特に見るべきものとて無いですが、ゆったりと過ごしたい寺です。
|
|
[第23番札所 音楽寺]
松風が音楽に聞こえる寺[第二十三番] 音楽寺
(山号) 松風山 (宗派) 臨済宗南禅寺派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市寺尾3773
(巡礼歌) 音楽のみ声なりけり小鹿坂の 調べにかよう峰の松風
|
★音楽寺は、第二十二番から徒歩二十分のところにあります。急坂を登って行きますと、次第に樹木も薄くなり、展望が良くなります。秩父盆地や武甲山も一望のもとにあります。山の中腹の一寸した平地に庫裏があり、ここで風に吹かれて一休みしました。更に石段を登りますと、左手に本堂があります。朱塗りで、屋根に宝珠をいただいています。本尊は、七十四センチの立像で、室町時代のものといわれます。
|
音楽寺本堂 |
|
★天長(824-33)の頃、慈覚大師がこの地の景観に打たれ、自ら聖観音を刻んで山道を登ろうとしたところ、小鹿が現れて山上に導いたため、小鹿坂という名がついたといいます。また寺伝では、円福寺の南岩天陽が、応永十九年(1414)荒廃した寺を再興したものといわれます。
★本堂の前に鐘楼堂があり、市指定文化財の梵鐘には百八の乳頭があります。この鐘は、明和五年(1768)再鋳されたものといわれます。明治十五年の秩父事件の際は、農民がこの鐘を打ち鳴らしたそうです。伝説では、聖者がこの地の松風を聞いて菩薩の音楽と感じたといいますが、まことに平和な静寂な寺です。
|
|
[第24番札所 法泉寺]
女性の願いを成就する寺[第二十四番] 法泉寺
(山号) 光智山 (宗派) 臨済宗南禅寺派 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市別所1586
(巡礼歌) 天照らす神の母祖の色かへて なおもふりぬる雪の白山
|
★法泉寺は、第二十三番から徒歩一時間ほどのところにあります。長閑な田舎道を下っていきますと、右手に荒川にかかる佐久良橋があり、ここからやや上り坂を行きますと平坦な道となります。しばらくして右手に入りますと、急な百段余りの石段となります。ここを上り詰めますと、江戸中期のものといわれる本堂に出ます。小さい、如何にも侘しい感じの建物です。本尊は、唐様二十四センチの坐像で、室町末期の作といいます。
|
法泉寺本堂 |
|
★寺伝によりますと、養老元年(717)越後の泰澄大師が秩父に来て、夢の中で姫神が枯れ木を三つに切り、その一つで観音を刻み、私は日の神だといいました。泰澄大師は、余った木を箸にしましたが、この箸が万病に効くと信じられたそうです。
★この寺の巡礼歌に「天照らす神」とあり、また、女性の願い事を成就するといわれることも、この伝説が背景になっているらしいです。納経は、石段を下がったところの民家で受けます。それにしても、何も見るべきものの無い寺ですが、武甲山の削られた山容がまじかに見られる、安らぎの地といえましょう。(つづく)
|
|
[第25番札所 久昌寺(御手判寺)]
大変不便な地の寺[第二十五番] 久昌寺(御手判寺)]
(山号) 岩谷山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 秩父市久那2215
(巡礼歌) 水上はいづくなるらん岩谷堂 朝日もくまなく夕日かがやく
|
★久昌寺は、第二十四番から徒歩一時間のところにあります。秩父市といっても、全くはずれで、小鹿野町に入り込んだ地です。曲がり角に寺の表示があり、ここを左に入りますと、「御手判寺」という額の掲げられた茅葺の仁王門があります。樹木に覆われて薄暗く、陰鬱な気分です。
★更に少し行きますと、岩壁に沿って本堂があります。小さな方形で、江戸後期の建築だそうです。堂内は暗いですが、美しい厨子は見えます。本尊は、行基菩薩の作と伝えられますが、実際は室町時代のものらしいです。伝説によりますと、悪行を重ねる女が、村人によって川に投げ込まれましたが、助かって女の子を産む。その後女は死にましたが、女の子は美しい心の持ち主で、母の菩提を弔うために観音堂を建立し、観音を安置したのがこの寺の草創といいます。
|
久昌寺(御手判寺)本堂 |
|
★また、この寺には御手判石がありますが、これは、性空上人が秩父に来た時、閻魔大王から石の手判と証文を賜りました。証文は西国二十四番の中山寺に納め、手判はこの寺に納めたといいます。そこで、この寺は御手判寺ともいうのです。本堂近くには弁天池があり、ここから見る本堂の眺めは、自然と調和していて素晴らしいものです。池のそばの竹林の中の民家で納経を受けます。(つづく)
|
|
♪BGM:Chopin[Nocturne2]arranged by Pian♪
|
|
|
|
|
|
表紙へ |
|
秩父34観音
その1 |
|
秩父34観音
その3 |
|
|