坂東三十三観音巡礼記


[その3]

滝沢公夫(30法)



坂東三十三箇所の一覧

山号 寺号 通称 本尊 宗派 所在地
23 佐白山
さしろさん
観世音寺
かんぜおんじ
佐伯観音
正福寺
十一面千手観世音菩薩 普門宗 茨城県笠間市
24 雨引山
あまびきさん
楽法寺
らくほうじ
雨引観音 延命観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県桜川市
25 筑波山
つくばさん
大御堂
おおみどう
大御堂観音 千手観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県つくば市
26
南明山
なんめいさん
清瀧寺
きよたきじ
清瀧観音 聖観世音菩薩 真言宗豊山派 茨城県土浦市
27 飯沼山
いいぬまさん
円福寺
えんぷくじ
飯沼観音
銚子観音
十一面観世音菩薩 真言宗 千葉県銚子市
28 滑河山
なめかわさん
龍正院
りょうしょういん
滑河観音 十一面観世音菩薩 天台宗 千葉県成田市
29 海上山
かいじょうさん
千葉寺
せんようじ
十一面観世音菩薩 真言宗豊山派 千葉県千葉市
30 平野山
へいやさん
高蔵寺
こうぞうじ
高倉観音 聖観世音菩薩 真言宗豊山派 千葉県木更津市
31 大悲山
だいひさん
笠森寺
かさもりでら
笠森観音 十一面観世音菩薩 天台宗 千葉県長生郡
長南町
32 音羽山
おとわさん
清水寺
きよみずでら
清水観音 千手観世音菩薩 天台宗 千葉県いすみ市
33 補陀洛山
ふだらくさん
那古寺
なごでら
那古観音 千手観世音菩薩 真言宗智山派 千葉県館山市



[第23番札所 観世音寺(佐白観音)]


笠間焼の地元 [第二十三番] 正福寺(佐白観音)

(山号) 佐白山 (宗派) 曹洞宗 (本尊) 千手観音

(所在地) 茨城県笠間市笠間田1056

(巡礼歌) 夢の世にねむりも覚むる佐白山 妙なる法や響く松風


観世音寺(正福寺)は、水戸線笠間駅から徒歩二十分ほどのところにあります。笠間稲荷で有名な地であり、常時人出が多いです。特に、菊の季節の混雑ぶりは大変なものです。簡素な山門を入りますと、ささやかな仮の本堂があります。本格的な本堂建築のための募金が行われていました。

★ここで、最も印象的な経験があります。本堂に入りますと、まず住職がお茶を薦めて、各種の四方山話や宗教の話に興じます。他の札所が、事務的に朱印を押すことのみに終わり、全く巡礼者との心の交流がないことを強烈に嘆いていました。

★また、朱印帳や掛け軸にご朱印を戴く際も、本尊の前で住職と一緒に観音経を唱えます。一回目のときは、本当に驚くとともに、さわやかな共感を覚えましたが、二回目のときは、前回のときのことを良く覚えていてくれて、色紙に揮毫もしてくれました。料金は全く受け取らず、本当に恐縮するとともに、信念に生きる住職の心意気を強く感じとることができました。

観世音寺(正福寺)本堂
坂東33観音HPから転借

★裏山には、躑躅で有名な佐白スカイラインが通じており、笠間城本丸跡があります。この寺は当初ここにあり、百以上の僧坊があって関東でも巨刹のひとつであったようです。孝徳天皇の白雉二年(651)に狩人の粒浦某が発心して開基し、本尊の千手観音は毘沙門天の霊刻と伝えられ、勅願寺となりました。

★その後、元久二年(1205)宇都宮氏の一族・藤原時朝が伽藍を破却して築城しようとしたため、僧徒の抵抗を受けましたが排除し、ここに築城して笠間氏を名乗りました。しかし、時朝は亡霊に取り付かれて危難に逢い、観音に祈願して城内に堂宇を再興したとのことです。

★時朝の子孫は、四百年にわたり信仰に徹しますが、天正十八年(1590)城主綱家は秀吉によって除封されました。堂塔も宝勝院を除いて破却され、宝勝院は山上に移されて勝福寺となり、貞享三年(1686)には正福寺と改められました。元禄元年(1688)伽藍の修理が行われましたが、その後城主の交代が激しく、延享四年(1747)に牧野貞道が入封して明治時代になりましたが、いずれの城主も信仰が篤かったといわれます。

★しかし、明治の廃仏により山上から姿を消し、昭和五年現在地に仮本堂が建築され、本尊も安置されました。この寺は、茨城県内で最も数奇な運命を辿り、大変な苦労がありましたが、現在はささやかながら落ち着いた雰囲気の中、住職の暖かく強い信念で着実に歩んでおり、本当に印象深い札所です。

★近くには、日動美術館や笠間稲荷、笠間焼き窯元等多くの見所があり、一日ゆっくりと過ごしたい地です。



[第24番札所 楽法寺(雨引観音)]

皇室に関係が深い古刹 [第二十四番] 楽法寺(雨引観音)

(山号) 雨引山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 延命観音

(所在地) 茨城県桜川市本木1

(巡礼歌) へだてなき誓ひをたれも仰ぐべし 仏の道にあまびきの寺


昔は関東鉄道筑波線の雨引駅から行きましたが、現在は廃線となり、水戸線岩瀬駅からバスに乗車、雨引観音下下車、急坂を徒歩五十分ほどです。寺の前には駐車場があり、自家用車で行くのが最も良いと思います。

★参道には室町末期のものといわれる豪壮な黒門があり、長い石段が仁王門へと続いています。途中に不動堂や鐘楼堂もあります。仁王門の先に、宿借りの椎という大木がありますが、文明年間(1469-86)の火災の時、本尊自らこの木で難を避けたものといわれます。ここから更に石段を登りますと、入母屋造り、瓦葺の五間四方の堂々たる本堂が現れます。

楽法寺本堂
坂東33観音HPから転借

★樂法寺は、用明天皇の御代(586)、中国梁の帰化僧・法輪独居士が開創し、本尊の延命観音(重文)もこの僧とともに渡来、安置されたものといわれます。光明皇后は、安産祈願のため法華経を奉納し、以来ここは皇室の祈願所となって、皇太子・浩宮出産の際には、住職が皇室に参内・祈願したといわれます。また、嵯峨天皇の弘仁二年(821)の旱魃の際、天皇自ら降雨祈願をしたところ降雨があり、天彦山を雨引山と改めたそうです。

★本尊の延命観音は、わが国ではほかに見られない珍しいもので、前立ちの如意輪観音、不動明王とともに国の重文に指定されています。堂内は薄暗いですが、古刹にふさわしい荘厳さが感じられます。

★古くは足利氏や真壁氏の支持があり、また明暦の頃は、紀伊国屋文左衛門が祈願して利益があり、参詣者の急増や火災後の速やかな復興もあり、慶長十八年(1613)には家康から百五十のご朱印を与えられ、また、現在の本堂は寛永七年(1630)十万講による改修といわれます。

★本堂近くには多宝塔があります。光明皇后が寄進、建長六年(1254)再建、嘉永六年(1853)十万講により多宝塔に改造したものといわれ、全体に豪快且つ優美で、堂々たるものです。

★休憩所からの展望は素晴らしく、遠く霞ヶ浦まで見通すことができます。本堂右手の霊泉・延命水も有名です。また、境内に桜の木が多く、関東の吉野ともいわれます。延命長命飴も珍しいものです。本当に苦労して登ってきた甲斐のある素晴らしい寺です。




[第25番札所 筑波大御堂]


筑波山の入り口の寺 [第二十五番] 筑波大御堂

(山号) 筑波山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 千手観音

(所在地) 茨城県つくば市宮脇474

(巡礼歌) 大御堂かねは筑波の嶺にたて かた夕暮れにくにぞこひしき


★この地は、「万葉集」や「常陸風土記」の舞台のひとつであり、信仰とともに男女交流の地でもありました。

★筑波大御堂は、昔は関東鉄道筑波線の筑波駅で下車しましたが、現在は廃線のため、土浦駅からバスを乗り継ぎ筑波神社で下車、すぐのところにあります。大通りを左手に入りますと嘘のように静寂になり、石段を登りますとすぐ目の前に本堂があります。昭和十三年の豪雨で埋没し、昭和三十六年に再建されたもので、大変ささやかながら厳かな建物です。

筑波山大御堂
坂東33観音HPから転借

★寺伝によりますと、延暦元年(782)徳一上人が開基して千手観音を安置、弘法大師が堂宇を建立して知足院中善寺と号しました。その後鎌倉時代に僧・明玄が別当をつとめましたが、応永五年(1358)焼失、後に源海上人が再興しました。

★江戸幕府は、この地が鬼門にあたるため祈願所と定め、家光は御堂・三重塔・楼門・鐘楼等を建立し、神仏習合の道場として大いに繁栄したといいます。「がまの油売り」もこの当時からあったようです。

★しかし、明治維新の廃仏で、筑波神社は残されましたが、寺はすべて破壊されて廃寺となり、その後昭和五年に大御堂だけが再建されたものです。本尊は二メートルほどの木彫りで、直接拝観できます。余り風情のない寺ですが、曲折の歴史を思いますと、しみじみとした感情に襲われます。

★ここから、自動車またはケーブルカー・ロープウエーで筑波山頂に行けば、関東平野全体を眺望できます。万葉集にある歌垣等を偲びながら、一日ゆっくりと巡り歩きたい場所です。




[第26番 清瀧寺]

激動を経た新しい本尊 [第二十六番] 清滝寺

(山号) 南明山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 聖観音

(所在地) 茨城県土浦市小野1151

(巡礼歌) わがこころいまより後はにごらじな 清滝寺へまいる身なれば


★清滝寺は大変不便なところにあります。土浦駅から「ゆうもあ村」行きバスで本郷二本松下車、徒歩三十分です。広い田畑の中に石段が見えてきます。石段を登りつめますと仁王門があり、その先に、再建されたばかりの鉄筋コンクリートの本堂が見えてきます。

清瀧寺本堂
坂東33観音HPから転借

★寺伝によりますと、草創は推古天皇の十五年(607)、勅願により聖徳太子作の聖観音を安置しました。また、筑波の二柱の神が天の鉾で地を突いたところ、清水が湧き出し、滝口に行基菩薩が寺を建立したとの伝承もあります。

★鎌倉時代、幕府の功臣・八田知家に保護されて大いに繁栄しましたが、室町時代の戦乱で悉く焼失。その後長らく忘れられていましたが、元禄年間(1688-1704)にやっと再建。しかし、明治以降再び衰え無住となりましたが、昭和四十四年、不審火で仁王門を残して全焼し、本尊も失われてしまいました。その後の仮堂も不審火で焼失。昭和五十二年、村人の手で、現在のコンクリート銅葺きの本堂が再建されたものです。現在、信徒が交代で管理にあたっています。本尊は、昭和五十四年に開眼した真新しいものです。

★それにしても、本当に激動の経験を経てきた寺であり、純粋の巡礼者だけが訪れる、静寂で心温まる札所です。当番の信徒の対応にも本当に感動しました。


  

[第27番札所 円福寺(飯沼観音)]

犬吠埼に近い観音 [第二十七番] 円福寺(飯沼観音)

(山号) 飯沼山 (宗派) 真言宗 (本尊) 十一面観音

(所在地) 千葉県銚子市馬場町293

(巡礼歌) このほどはよろずのことを飯沼に きくもならはぬ波の音かな

★円福寺は、総武本線銚子駅で可愛らしい銚子電鉄に乗り換え、二つ目の観音下車、徒歩十分のところにあります。観音堂と朱印を受け付ける本坊は別の場所です。駅を降りると繁華街になっており、浅草寺と同じような大変な人出です。

★本尊の十一面観音は、奈良時代の神亀五年(728)、銚子の海で漁師によって拾い上げられたといい、浅草寺と同じような草創伝説です。拾い上げた漁師は、後に出家して漫善と称しました。その頃、天から米粒が降ってくるという奇瑞があったので、「飯沼」の地名が生まれたといいます。

★弘仁年間(810-24)弘法大師が巡錫した時、連座を作って開眼。この地の海上長者という千葉氏一族の豪族が、観音の慈悲力と大師の修法力に心を打たれて財を提供し、壮麗な伽藍を建立して大師を開祖としたといわれます。

★その後、海上氏の庇護によって発展、天正六年(1578)には八間四方の観音堂が建てられました。また、安永二年(1773)には十間四方に改築され、仁王門・鐘楼・多宝塔等の建物も整備されましたが、太平洋戦争ですべて焼失。近年までは観音堂も仮堂でしたが、昭和四十六年に巨大なコンクリート造りで再建されています。

円福寺本堂
坂東33観音HPから転借

★更に、平成二十一年五月には、五重塔が建立されました。高さ33メートル、銅葺き、総檜造り、朱塗りの荘重・華麗な美しさを漂わせた本格的な塔で、千葉県では屈指のものです。

★納経を受ける本坊は、二百メートルほど離れていますが、以前はこの周辺の商店街を含め、すべて円福寺の境内であったといいますから驚きです。本坊は瓦葺で、客殿・庫裏や幼稚園もあって、茶華道の稽古も行われ、活気に満ちています。重要美術品等も保存されているようです。

★ここ銚子は、温暖で自然に恵まれており、銚子漁港の活気、犬吠埼の雄大な眺望を楽しむことができるほか、各種詩碑・歌碑から、文人に愛されてきた土地であることが伺えます。一日ゆっくりと過ごしたい場所だと思います。



[第28番札所 龍正院(滑河観音)]

大木に覆われた落ち着いた寺 [第二十八番] 龍正院(滑河観音)

(山号) 滑河山 (宗派) 天台宗 (本尊) 十一面観音

(所在地) 千葉県成田市滑川1196

(巡礼歌) 音にきく滑河寺のけさがふち あみころもにてすくふなりけり


★龍正院は、成田線滑河駅下車、徒歩二十分ほどのところにあります。成田駅からならば、バスで三十分の観音前で下車、すぐのところです。国道に面して仁王門があります。大きな注連縄が飾られており、国の重文に指定されています。文亀年間(1501-03)飛騨大隅の作といわれる八脚造りですが、享保年間(1716-35)に一帯が大火に見舞われた際、ここの仁王尊が寺域を守護したといわれ、大火を免れた部落の人々が、注連縄を綯って奉納しました。ただ、ここの注連縄には、神社と異なって青蔦をからめてありますが、これは龍を象徴しているそうです。

★仁王門を入りますと、元禄年間(1688-1703)再建の本堂がありますが、これは昭和四十三年に大修理されたものです。規模は大したことはありませんが、欄間には色鮮やかな天人の彫刻があり、盛時を偲ばせてくれます。

龍正院本堂
坂東33観音HPから転借

★寺伝によりますと、仁明天皇の承和五年(838)慈覚大師が開基し、本尊は四メートルの十一面観音ですが、ある年冷害に見舞われました。城主・小田将冶は観音に祈願したところ、結願の日に少女が現れたので後を追っていきました.すると、川中の老僧が衣を網に縒って引きますと、小さな観音像がかかり、将治がこれを持ち帰り堂宇を建立して安置したところ、豊作になりました。後にこの観音は、すでにある十一面観音の胎内に奉納されたとのことです。

★この寺の境内は、各種の大木に覆われ、森閑としています。訪れる巡礼者も少なく、本当に落ち着いた心を洗われる札所です。


[第29番札所 千葉寺]

興廃の激しかった寺 [第二十九番] 千葉寺

(山号) 海上山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 十一面観音

(所在地) 千葉市千葉寺町167

(巡礼歌) 千葉寺へ詣る吾身もたのもしや 岸打つなみに船ぞうかぶる


★千葉寺は、千葉駅からバスに乗車し千葉寺前で下車、すぐのところにあります。バス停前に、古色蒼然たる仁王門が建っていますが、天保十二年(1841)再建されたものです。門を入りますと、鐘楼堂と天然記念物の大銀杏があり、この陰に間口四間の豪壮な本堂が現れます。戦災で焼失し、昭和五十一年に再建されたものです。

★「千葉寺縁起」によりますと、元明天皇の和銅二年(709)、行基菩薩がこの地を巡錫して十一面観音を彫刻、更に聖武天皇に奏聞して三界六道の地に本堂と諸坊を建立、唐の西明寺の観音を腹中に篭めて安置しました。その後、二条天皇の永暦元年(1160)に雷火で焼失し、この時に現在地に移されたものといわれます。しかし、考古学的には、奈良時代後期から現在地に建てられていたことが証明されているそうです。

千葉寺本堂
坂東33観音HPから転借

★その後、千葉氏の祈願所となり、特に二十代・千葉胤富は、永禄十二年(1568)海上郷を寄進し、千葉寺村一円を統括しました。しかし、織田信長により一割に減らされ、更に天正十八年(1590)、徳川家康が御朱印地を寄進して繁栄を極めましたが、元禄二年(1689)の火災で全滅してしまいました。その後、文化三年(1806)本堂はじめ本尊も焼失しました。

★現在の本尊は、文化六年(1809)のものだといわれます。その後も嘉永五年(1852)に失火し、庫裏・客殿等が焼失。明治維新当時は寺領も没収されましたが、村内有志の努力で土地を得て復興。しかし、また戦災で焼失してしまいました。

★本当に、現在の堂々たる本堂が建築されるまでには、興廃が甚だしく、関係者のどれほどの苦労があったか、胸の痛むことです。境内には、多くの石碑・石塔・石仏が散在しており、歴史を偲びながらゆっくりと過ごしたい寺です。



[第30番札所 高蔵寺(高倉観音)]

子育て・縁結びの名刹 [第三十番] 高蔵寺(高倉観音)

(山号) 平野山 (宗派) 真言宗豊山派 (本尊) 聖観音

(所在地) 千葉県木更津市矢那1245

(巡礼歌) はるばると登りて拝む高倉や 富士にうつらふ阿娑婆なるらん


★高蔵寺は、内房線木更津駅からバスに乗車して三十分、高倉下車徒歩五分のところにあります。苔むした薄暗い石段を登って行きますと、茅葺の量感あふれる、江戸時代再建の仁王門に出ます。更に登って行きますと、茅葺にトタンを乗せた、二重屋根の本堂が現れます。

★十二間四方の本堂は、老木に覆われ、豪壮雄大で神秘的です。床が極めて高い高床式で、人が自由に立って歩くことができます。八十八本ある堂内の柱には、なにやら古代文字のような彫刻があります。前立ち観音の両側には、慈覚大師作といわれる不動明王と毘沙門天が安置されています。内陣厨子の回りには、百観音霊場の本尊を模した観音が並んでいます。

高蔵寺本堂
坂東33観音HPから転借

★寺伝によりますと、用明天皇の御世に、徳儀上人が篭り法華経を読んでいると、老翁が現れ、「当山に草庵を結び、永く国土を守護し、衆生済度のため聖身の観音飛来し給えり。飛来の観音彼所に安座せり」と古木を指すので、その古木を見ると、聖身の観音が安座していたので、村人とともに堂宇を建立、この観音を安置しました。その後、天平年間(729-48)に行基菩薩が巡錫し、観音像を彫刻して、飛来の像を頭に納めて本尊としたということです。

★古来、ここは子育て、縁結びの名刹として知られますが、これは、この里の有力者・猪長官が子授けの願をかけたところ、一女を得、この子供が藤原鎌足であるところからきているそうです。鎌足は、白雉元年(650)諸堂を建立し、この村を永代の寺領としたといいます。その後、貞観(859-75)の頃、藤原時重が再建しましたが焼失、室町以前に再建されたもののようです。関東大震災で屋根の一部が崩れ、復旧していませんが、建立当時の姿は失われていないようです。

★本当に、このような地に、歴史ある、特徴的な、素晴らしい寺が存在することは感動的です。この感動を胸に秘めて、次の札所に向かったのでした。(つづく)



[第31番札所 笠森寺(笠森観音)]

四方懸崖造りの珍しい寺 [第三十一番] 笠森寺(笠森観音)

(山号) 大悲山 (宗派) 天台宗 (本尊) 十一面観音

(所在地) 千葉県長南町笠森302

(巡礼歌) 日は暮るる雨はふる野の道すがら かかる旅路をたのむかさも


★笠森寺は、外房線茂原駅からバスで三十分、笠森下車すぐのところにあります。天然記念物・笠森寺自然林に指定されている鬱蒼たる切通しの道を登っていきますと、「子授けの楠」という巨木があります。この木の股を潜りますと、子宝に恵まれるといわれます。ここから更に進み、仁王門から境内に入りますと、紫金閣という休憩所があり、ここから目の上の山頂にある本堂を見上げることができます。

★大悲閣といわれる本堂(国指定重文)は、観音山の山頂にあり、四方が舞台になった四方懸崖造りで、わが国でも唯一の大変珍しい様式を持ちます。入り口で履物を脱ぎ、七十五段の階段を登って回廊に立ちますと、はるか房総の山並みと九十九里の海が展望できます。感動の一瞬です。

笠森寺本堂
坂東33観音HPから転借

★本尊は、伝教大師が彫刻したものと伝えられています。堂内には、厨子の前に小さな前立ち観音が祀られ、その手から紐が伸びています。参詣者は、この紐にハンカチ等を結びつけ、観音のご縁にすがるのです。

★この寺は、延暦三年(784)に伝教大師が創立し、長元元年(1028)後一条天皇は飛騨の匠・一条康頼と堀川友成に命じて御堂を建立し、勅願寺としました。現在の本堂は、桃山時代の再建といわれますが、昭和三十二年から三十五年にかけて大修理を実施し、現在の姿になったといいます。

★境内には、芭蕉の句碑等もあり、珍しい様式の本堂を見上げながら、歴史を偲び、雰囲気をゆっくりと楽しみたい寺だと思います。



[第32番札所 清水寺]

清水三観音のひとつ [第三十二番] 清水寺

(山号) 音羽山 (宗派) 天台宗 (本尊) 千手観音

       (所在地) 千葉県いすみ市鴨根1270

(巡礼歌) 濁るとも千尋の底は澄みにけり 清水寺にむすぶあか桶


★清水寺は、外房線長者町駅からタクシーを利用しますと、十分ほどで着きます。天然林の生い茂る参道を登りつめますと、正面に仁王門があり、その奥に、二層に勾欄を巡らした堂々たる構えの四天門が望まれます。

★この門を潜りますと、左手に奥の院があり、十一面観音が安置されています。ここから更に石段を登りますと、右手に鐘楼堂、その前に水涸れしたことがないといわれる「千尋の池」があり、この寺の名称の由来を伝えています。

★正面の本堂(観音堂)は、文明十三年(1481)と文化十年(1813)に焼失、文化十四年(1817)再建されたものですが、江戸建築の粋を伝えています。外陣の長押には、数々の絵馬が奉納されており、源平合戦等歴史的価値のあるものもあり、興味深いです。

清水寺本堂
坂東33観音HPから転借

★この寺は、西国十六番、同二十五番と並ぶ清水三観音のひとつですが、寺歴は遠く延暦年間に遡ります。伝教大師が東国教化のため下向した際、熊野権現の霊示を得て、この地に草庵を建てたのが始まりといわれます。

★その後、慈覚大師がここを訪れ、師の志を継いで千手観音を刻み、更に東征途上の坂上田村麻呂が堂宇を建立して、京都の清水寺に似た地形から、同じ山号・寺名をつけたといいます。確かに、京都の清水寺に似た雰囲気を持つ寺で、やや不便なこの地までやって来た甲斐が感じられました。



[第33番札所 那古寺(那古観音)]

坂東結願の寺 [第三十三番] 那古寺(那古観音)

(山号) 補陀洛山 (宗派) 真言宗智山派 (本尊) 千手観音

(所在地) 千葉県館山市那古1125

(巡礼歌) 補陀洛はよそにはあらじ那古の寺 岸うつ波を見るにつけても


★いよいよ結願の寺です。内房線館山駅からバスに乗車、那古で下車してすぐのところにあります。自然林に覆われた那古山の中腹にあり、日本百景のひとつである鏡が浦(館山湾)を一望に見下ろす絶景の地です。

★バス停から石段を登りますと本坊があり、更に仁王門を潜り、阿弥陀堂、多宝塔を右手に見て石畳を行きますと、瓦葺、朱塗りの本堂があります。ここからの眺めが最高です。堂内には、折鶴や納札がところ狭しと納められ、結願所の雰囲気に満ちています。本尊の千手観音は楠の一木造りといわれ、また、外陣の千手観音は銅造の重文で、鎌倉時代初期の作といわれます。

那古寺(中央奥に本堂=観音堂の屋根が見える)
坂東33観音HPから転借

★寺伝によりますと、元正天皇の養老元年(717)、天皇は悩みを持たれ、行基菩薩に平癒を祈らせたところ、行基菩薩は霊夢を感じ、海中からの霊木で千手観音を刻み祈願したところ、天皇は平癒されたといいます。後に、慈覚大師がこの地で錬行し、更に、正治年間(1199-1200)には、秀円上人が真言密教の道場として、源頼朝、足利尊氏、里見義実等の帰依を受けて栄えたといいます。

★徳川時代にも、鶴岡八幡宮の別当を兼ねて二百八十万石を領しました。しかし、元禄十六年の震災で全壊し、幕府は岡本兵衛に命じて本堂を現在地に移して工事に着手、明和年(1764-71)に落成しました。明治維新では、寺領は失いましたが寺門は維持され、大正十一年浄財により本堂の大修理が完了しました。しかし、翌十二年の大震災で半壊、その後檀家・信徒の努力で翌十三年に復旧し、現在に至っております。

本堂(観音堂)

★本堂右手の多宝塔は、宝暦十一年(1761)に建立された大変美しいもので、木組み、細工は入念で、亀腹に楠の素木を使用する特色を持ち、総体的にホレボレさせられる塔です。

★本坊の朱印受付で、通常のご朱印のほか、「結願の証」(巡拝しおわんぬ)を頂戴し、住職から「これからも御仏のお導きにより、強く、明るく、正しく、健康に、人生を歩んでください。」との言葉を戴きました。長い年月の巡礼の苦労が吹き飛び、楽しい思い出だけが残り、同時にこれからの人生への勇気が湧いてくるひとときでした。

★あくまでも明るく素晴らしいこの寺で、美しい弓なりの海岸を眺望するとともに、境内の建物や景観を心ゆくまで眼と頭の中に吸収し、心身の浄化された満足感を持って帰途についたのでした。

★なお、館山駅からは、平砂浦海岸やフラワーライン方面へのバスが出ていますので、年間絶えることのない各種の花々を楽しむのも良いと思います。



♪BGM:Chopin[Nocturne5]arranged by Pian♪


表紙へ 坂東33観音
目 次
坂東33観音
12−22番