いなほ随想

特集

四国遍路顛末記


大島二典(44理工)


第2集


(連載第11回)
◆平成20年4月9日

[善楽寺〜竹林寺〜禅師峰寺(ぜんじぶじ)]

★朝6時に宿を出てコンビニで朝食をすませる。今日は30km近い長丁場である。善楽寺への途中、国分川に流れ入る小川で、鯉の大群を見た。四国に来て魚は良く見たが、この様な浅瀬で鯉が群れをなしているのは初めて見た。

★30番善楽寺を打ち、31番竹林寺を目指して、高知市の文殊通り辺りで地図を確かめていると、軽トラックに乗った女性がわざわざ車から降りて来て、道が分からないのか?と尋ねてきた。実際には地図の方向を確かめていたのだが、素直にそうだと答えると、懇切丁寧に教えてくれた。

★竹林寺へ行く遍路道の途中に「日本の植物学の父」と言われた牧野富太郎の記念館と牧野植物園があり、この植物園の中を横切って行く事になる。園内はボランティアの方か、沢山の人が花の手入れをしている。又、園内歩道の傍らにも、種々の花が咲き乱れていた。なお、竹林寺も池泉鑑賞庭園が県内3大名園として有名である。

★31番を打ち終えて、下り道に入ると蕗が群生している。よく見ると、蕗の薹を誰も取らないと見えて、すっかり花を開かせ、既に散ってしまっている。小生が酒のつまみに大好きな一品。もったいない。宿について聞いてみると、こんな苦いものは誰も食べない、家畜の飼料にもならないとか言われた。食文化の違いとは恐ろしいものだ。

★しばらく歩くと国道沿いに休憩所がある。一休みしながら写真を撮った。高知に入ると休憩所の数もぐっと減るし、大きな休憩所も少なくなる。ここは結構大きく、野宿者も使えそうな、高知では珍しい休憩所と見た。その後も種々の花とか、亀の甲羅干しとか、鴨の群れとかに出会い変化のある道筋を楽しんだ。

★禅師峰寺を打ち、33番手前の今日の宿を目指す。ここにたどり着くのには、2つの道筋があり、一つは浦戸大橋というのを通る歩く道と、他は種崎渡船場からフェリーを使うものだ。このフェリーは遍路案内書のなかでも紹介されていて有名だ、フェリーを使って見る。

★注意深く 地図を見て、渡船場に着く予定だったが、曲がるべき道を見そこなった。行けども行けども着かず、とうとう浦戸湾の堤防にぶつかってしまった。道を聞こうと思っても人もいない。ともかく堤防沿いに戻れば、渡船場のはずだ。気を取り直して歩く。しばらく歩くと釣り人がいたので聞くと、後15分も歩けばつくとの事。2kmほど余計に歩いてしまったか。

★フェリーを待っている間に雨が降り出した。ともかく宿に飛び込む。宿の今日の客は、小生を含めて2名だ。夕食をご一緒する。大阪からこられて、車で高知県を回っているとの事。3日ほどで回ってしまうそうだ。

★今日は平坦な道であったが歩行距離が長く疲れた。この辺まで来ると、豆とか局部的な筋肉痛とかは無いが、どうも足の裏が痛くなってきた。歩けないほどの痛みでないが、不愉快。山道などと違い、舗装道路はどうも足裏に優しくないようだ。

★天気予報によると明日の天気は荒れ模様。嫌だな、荒れた天気は室戸で懲りたからな。天気回復を祈り、早々に寝ることとしよう。

(連載第12回)
◆平成20年4月10日

[雪蹊寺〜種間寺〜清滝寺〜青龍寺〜岩本寺]

★夜中じゅう雨音が聞こえていた。朝起きてみると、本降りである。どうしようかと思案しながら、車遍路の方と一緒に朝食をとる。天気予報によると今日も天気は荒れ模様。嫌だな、荒れた天気は室戸で懲りたからな。雨が強いがどうするのかと聞かれる? 出発するか、留まるか、迷っていますと答えたら、一緒に乗せていきますよ」とのご親切なお言葉。

★全行程歩き遍路を目指している人達は、歩く事に強いこだわりを持っており、こういう時は、お気持ちのみをありがたく頂戴して、丁重にお断りするそうだ。小生はもともと、歩きとバス&電車の併用型遍路であるので、その辺のこだわりはない。これも「お接待」のひとつとかと有りがたく受けさせてもらった。

★もともとの今日の計画は 35番清滝寺までであったが、車は速い、速い、10時にはもう清滝寺まで来てしまった。雨も小降りになってきたので、36番青龍寺の取っ付きのスカイライン入口で降ろして貰う。この方は大阪から来ており、3回目の遍路だと言っていた。明後日には帰るそうだ。

★青龍寺の参道を目指していると、明徳義塾高校の看板が目に入る。待てよ、高校野球でも有名だが、横綱の朝青龍は確か明徳義塾高校の相撲部だったよな。青龍というのはこのお寺にちなんだものかとピンときた。帰ってから調べてみると、それだけではない。彼のフルネームは朝青龍明徳(あきのり)と言って名前のほうも高校にちなんだものだった。悪役であまり好きになれないキャラクターだが、日本に対する思い入れもあるのだなとちょっと見直した気分。

★青龍寺を打ち終わっても未だに昼時で早い。今日は、電車を使って、岩本寺を打ち、取敢えず、中村駅周辺まで行くこととする。道すがら撮った道端の花々の写真を添付しますのでご覧ください。

シバザクラ スイセン
シバザクラ ツルニチニチソウ
ミツバツツジ シャガ

★宿は中村駅前の民宿を取った。ここは数年前、たった部員12名で甲子園に出場「24の瞳」と言われファンを沸かせた中村高校が有名だ。駅前と言うことで、客は10名程いたが、遍路客は小生を入れて3名。他に学生のボート部?の一団がいた。海のそば、この時期と言うことで、鰹もあり、他の魚介類も豊富で夕食はvery good であった。

(連載第13回)
◆平成20年4月11日

[金剛福寺〜延光寺]

ここ中村駅から38番金剛福寺までは、まだ35kmほどある。ここはもともと高知西南交通バスを使う予定である。バスは一日 9便で1〜2時間に一本しかない。バスでも2時間近くかかるロングドライブである。出発してしばらくは四国一の清流である四万十川沿いに走る。

余談だが、小生 30年近く前に九州の久留米で4年ほど過ごした。その時に、釣り好きに連れられて、四国の肱川(ひじがわ)まで2〜3回来た事がある。これがあの有名な四万十川の支流と教えられていた。これを宿の主人に自慢げに話すと、四万十川の支流に肱川というのは無いと愛想も無い。一週間ほど後にわかったのだが、愛媛県の43番明石寺の近くでこの川に出会った。別府からのフェリーも佐多岬あたりに着いていたような気がする。ちょっと方向違いであったようだ。全く無責任な教え方をされ、良く30年間も信じてきたものだ。

38番金剛福寺は観音浄土に一番近い寺として有名。昼食後、足摺岬に向かう。室戸岬で教えられたジョン万次郎の像に参る。ジョン万次郎の名前は知っていたが、坂本竜馬、中岡慎太郎と肩を並べるほど有名だとは認識していなかった。


ジョン万次郎について簡単に調べてみると、「江戸時代に遭難して米国の捕鯨船に助けられ、米国に渡る。遭難後約10年で帰国。幕府に逮捕されるのを避けるために、最初は沖縄の現在の糸満市に上陸。その後、島津藩において、アメリカで学んだ高度な造船術などを教える。日本の鎖国を解く上で果たした役割は非常に大きかった。又、彼の故郷は四国の土佐清水市」だとの事。なるほど重要な人物なのだ。

足摺岬からバスで引き返す。眼病にご利益のあるといわれる「目洗い井戸」で有名な39番延光寺を打つ。


シバザクラ

これで高知県の札所を打ち終わったわけであるが、公共交通機関利用に加えて、車に乗せて貰ったりしたので、全体で約400kmある行程のうち歩いたのは 5日弱で100km強である。後になって、振り返って見ると、この間の写真は残っているが、特に高知県の後半の記憶は本当に薄い。やはり、ゆっくりと歩いていると、色々な触れ合いがあり、人間の心?(少なくとも記憶)に残るものだと改めて認識した。講師より「遍路は旅に有り」という言葉を聞かされていたが、納得できる。


この2日間の旅がシンプルであったので、遍路標識と遍路道について書いてみたい。

遍路標識と遍路道

1. 遍路標識には 、下記のような物がある (区分が少しダブルが)

@  へんろみち保存協会の道しるべ
A  建設省の建てた「四国の道」標識
B  江戸、明治期など昔からの標識
C  遍路者が遍路の道すがら掛けたお札など(山道に多い)
D  矢印のみの標識
E  手書き標識

小生は、大体@のへんろみち保存協会の標識に沿って歩いた。これは歩き専用の道と車との併用道路が入り混じっている訳であるが、この併用道路にAの建設省「四国の道」標識が微妙に絡み合う。

両者が分離、統合を重ねながら進行する。両者の標識が全く同じポイントにあれば間違えないのだが、 勿論、違う場所に建っている。それでしばしば間違えた道を行くことになる。 (又、合流するので、大きな問題ではないが)

「四国の道」標識は、車との併用道路のみにあるのかと思ったが、そうでもない。歩き道専用道路にも あるので、その建設区分をはっきりとは知らない。

 B項の古いものについては、江戸時代に「四国遍路道指南」を出した、真念が 迷いやすい場所に石の道標を建てた物が有名であるが、現在は30基ほどしか残っていなく 意識していないと、なかなか出合えない。真念が出した指南書により、四国遍路がよりやりやすくなって遍路が一般に広く広がったとの事である。江戸後期から明治に建てられたであろう標識には多数出会った。

C項のものは、お遍路さんが、厳しい遍路道の木の枝などに、自分が用意してきた「同行二人」 とか書いたお札を下げてあるものである。こんなものが下がっていれば、間違いなく遍路道を歩いているのだと安心して良い。又、似たもので「遍路道」と書かれている札も下げられているが、これは、へんろみち保存協会の物であるようだ。

D矢印のみの標識;これも、へんろみち保存協会の道しるべのようだ。数としてはこれが一番多いかもしれない。  長く歩いて、標識がなく不安になったときに、ひょっと現れる矢印に何回もホットさせられたものである。

E手書き標識も良く見た。これは地域の方たちが善意で付けて下さったのだろうか?良くは知らない。
良く見て歩いていれば、分かりにくい分岐点などには必ず標識がある。もし30分歩いて標識がなければ、道を間違ったと判断して、勇気を持って引き返す事と教わった。風雨が強い時は、見逃しがちであるので、要注意である。

逆打ちと言ってコースを逆に回る人がいるが、これは、基本的に標識が見えない。特に矢印のみの小さい標識は、発見するのが難しい。と言うことで、逆打ちは小生のような遍路初心者には無理であると感じる。(尚、逆打ちは順打ちの3回相当のご利益があると言われています。)

2.遍路道として、遍路地図には、下記のの三つの区分が示されている。

@歩行・車両双方の遍路道、
A歩行だけの遍路道、
B車両用の巡拝道

この中で小生が利用したのは、@、A項のものである。距離的に見ると、舗装道路が圧倒的に多いと感じた。実際には、全体1200kmのうち 未だ、その1/3 程度は遍路道として残っているそうだ。(無論@項を含むのだろうが)

車の通る舗装路は別として、実際に歩く遍路道は、

 ・厳しい山道、  ・変哲もない農村の畔道、  ・郊外の丘陵地帯の散歩道の様な道、・既に舗装はされているが民家近くの小道  等々・・・車が驀進するような道とは違い、 せいぜいすれ違う人がお互いの肩をぶつけない程度の道幅しかないような 昔ながらの素朴な道である。

一方では、歩き遍路道に沿うように、四国横断自動車道路が建設中であったり、荒れて非常に歩きにくい遍路道もあった。保存されている遍路道を世界遺産に登録しようという運動もあるようだが、 遍路道の保存、維持を真剣に考えないと(考えているのだろうが)難しいのではないかと感じる。



(連載第14回)
[実行編:愛媛県]


◆平成20年4月11日(土佐の続き)

★愛媛県(伊予;菩提の道場;煩悩を抱いたまま悟りを実感すること。)

★伊予全体は約360km(40番〜65番)の距離の間に26の札所がある。札所間の平均距離が14km程度で、高知より大分短くなる。

[観自在寺]

★これより、伊予に入る。ここ観自在寺は1番から最も離れているお寺で、裏関所と呼ばれている。山門の所で、珍しいご夫婦の2人連れ遍路の方に出会った。お互いの写真を撮り合う。

★講師からも「遍路旅は一人でやるのが良い。2人で行くと、歩く事だけでなく日々の生活のペースも絶対に合わず喧嘩になる」と聞いていたし、小生自身もここまで来てそれを実感できる。我が女房殿などは、「どうぞご勝手にお行き下さい。」で全く興味も示さない。

★その事をご夫婦遍路に尋ねてみると、やはりペースは合わないそうだ。ともかく無理をしない事。
公共交通機関などをふんだんに利用する事。そして奥様に譲る事かな?・・・・。それでも長期間一緒に旅を出来るというのは、仲が良いと言うか、かなりの悟りの境地である。立派なものだ。

★今日は、ここから宇和島バスを使い、宇和島駅前のビジネスホテル泊の予定だ。遍路宿の場合は大体3時台には到着して、洗濯、風呂などを済ませ、6時には夕食が始まり、9時には寝てしまい、朝は5時頃から活動を始めるというのが概略の行動だ。ビジネスホテルは何時になってもチェックインできるし、駅の近くだと食事の心配もない。到着が遅れそうなときは有効である。

★宿で紹介された飯屋は、前回と違ってやや高級感のある活魚料理で客層もちょっと気取っている。イケスには鯵やヒラメ、海老 等々が 泳いでいる。今までも、魚介類は十分に食べてきたが、今日は、少々雰囲気の違う刺身類をふんだんに食べた。

◆平成20年4月12日

[龍光寺〜仏木寺〜明石寺]

★今日は朝6時の早立ちで、25kmを超える長丁場である。朝チェックアウトの時に、4200円(素泊まり)のところ、千円札が4枚しかなく小銭を捜していたら「4000円で良いわよ」とのお言葉。これもお接待かな?と有り難くオマケして頂いた。宇和島駅前のコンビニで朝食をすませる。そこには闘牛の町に相応しく闘牛の像が建っていた。

★龍光寺、仏木寺を打ち、明石寺に向かう。仏木寺から3kmほどで、車道と歩き遍路道の分岐点に遍路標識が建っている。地図を見ると、歩き遍路道は山道で、車道の距離は長いが、ゆったりとしたクネクネ道。どちらを取ろうか?  傍に「キツイノハ最初の20分だけ」との看板がある。歩き遍路道を行ってみるか。

★歩き出すと、急勾配もさることながら、道が荒れていて如何にも足場が悪い。鎖などもついているが、とても歩きにくい。荒れた道は確かに20分ぐらいで終わるのだが、その後も歯長峠までだらだらとした登りが延々と続く。ここは難所とは言われていないが、結構歩きでがある。

★「キツイノハ最初の20分だけ」ではなかった。騙された気分。歯長峠を下りきると、川を横断した。地図を見ると、これがあの肱川(ひじがわ)であった。又、遍路標識&遍路道で紹介した、松山自動車道の建設はこの遍路道に沿うように行われていた。

★明石寺近くまで来て道に迷う。遍路地図は良く出来ているとは思うが、細かい所では判断しがたい事が何回もあった。グランドで高校生の野球観戦中のおじさんに聞く。宇和高校の横を通って行きなさいとの事だ。

★明石寺は源頼朝ゆかりの修験道場ということで、山号を源光山という。ここ43番明石寺から44番大宝寺までは70km近い道のりで2泊3日のロングコースだ。途中有名な内子座などがある。残念ながら小生は、この後、JR予讃線の卯之町からJRとバスを使い44番大宝寺に近い久万高原町まで行く。

★今晩の宿は明治以来の由緒ある旅館だそうだ。部屋も入口の引き戸を引くと敲きがあり、更に襖が有り、2重構造で何やら重々しい。客は3人で1人の方はここが気に入り連泊しているとのこと。この方は2回目の遍路だそうだが、一回目は足の豆などで、途中で挫折したそうだ。今回はトレーニングも含め準備万端整えて、全歩き遍路をやっているとのことだ。

★食事には女将さんが来て、色々な話をしてくれた。2〜3月にかけては高校生のラグビー合宿があり一杯の客があったそうだ。又、この旅館は明治期の建築で、猿の腰掛をふんだんに使い、欄間などにあしらった部屋が有名だとの事。後で見せて頂いたが立派なものであった。遍路客を歓迎と言って受け入れている宿としては珍しいのではないか?

◆平成20年4月13日

[大宝寺〜岩屋寺〜浄瑠璃寺〜八坂寺]

★朝7時にスタートし、44番大宝寺を目指す。途中 久万川で未だ満開の桜と鯉のぼりに出会う。小生のイメージだと桜が終わって鯉のぼりだが、珍しい組み合わせだ。

★大宝寺は鬱蒼とした木々の中にあり、ここから次の岩屋寺への道もしばらく深い森の中を歩く。途中で峠御堂トンネル(写真は遍路道紹介で添付したものを下に再掲)を通る。途中で後ろから車が何台か来たが、ともかく軽自動車でもトラック並みの騒音である。歩道も狭く、トラックが来れば菅笠も舞い上げられるし、本当に要注意だ。

★しばらく行くと椿の花に出会った。この旅では、椿は大体散っていたが、ここは高度が高いためか、未だ満開である。約9kmの道のりを、道端の花々を楽しみながら歩く。

★45番岩屋寺は礫岩峰で山全体を不動明王として祭っている。お寺の周りでも、小高い山が林立しており、山肌の至る所に洞窟(穴)がある。本堂まで来るのに厳しい石段(200〜300段位はありそうだった?)を登って来たので、礼拝を済ませてともかく一休みだ。

休んでいると雨が降り出して来た。雨支度をして下る。お寺下の休憩所で昼飯がてら雨の様子を見ることにした。休んでいると、高齢のご婦人が2人で入って来た。バス遍路をしているが、膝が悪いので、下で待っているとの事。納経などは、添乗員に納経帳を預けて他の人の分と一緒にやってもらうとの事。まあ遍路の仕方は人それぞれだから文句はない。

★一人で遍路旅をやっていると納経の時に、礼拝は済ませましたか?とかの質問を受け、礼拝無しに納経を受ける事に対して暗に釘をさすようなお言葉をもらうことがある。いずれにしても、すごい遍路だと思う。

★岩屋寺から久万に戻り、バスで塩ケ森まで行く。ここから46番浄瑠璃寺への山道で、丘の斜面にある広大なミカン畑を見た。かなりの急斜面で、収穫も大変だろう。上の方のミカンは収穫されずに腐ってしまっている。もったいない。又、道路際にはイチゴが野生化して花が咲き乱れていた。(この話は続きがある。今日の宿での出来事でお話したい。又添付写真は夏ミカン畑のもので、腐ったミカン畑は撮りそこなった。)行く道々には、菜の花、レンゲなど花一杯である。

★浄瑠璃寺を打ち、47番八坂寺を打つ。ここは代々八坂家の人が住職を勤めている事で有名だそうだ。納経の時に励ましの言葉をかけられる。

★さて今夜の宿だが、一軒目は電話に出ず、2軒目に当たった所だ。泊り客は小生一人のようである。夕食になって驚いた。お酒を頼んでおいたら、四国の地酒「芳水」を一升瓶ごと渡され飲みたいだけ飲め。又、食卓には 35cm程の鯛が丸ごと塩焼きで出ている。四国は鯛の養殖も盛んとは聞いているが、それにしても豪勢なものだ。無論、他の料理も普通に付いているので、食べきれない。

★食事には、ご主人が同席してきて、結局3時間近い飲み会となった。延々とお付き合い頂いた。その話は、酒の上での話だし、多少の脚色もあるかもしれないので、話し半分で聞いて頂きたい。ともかく面白かった。

・前述の腐ったミカン畑は、持ち主のご主人が亡くなり、奥さんだけでやっている。結局面倒が見切れなくなっているとの事。又、ミカン畑の斜面には、イチゴを良く植えるそうで、それが道まで飛び出して来ているのだろうとの事。

・八坂寺&八坂家の事を褒めていたが、その後に、どこそこの番外のお寺の住職は素人でお経は般若心経しかできないとか、どこそこのお寺は貪欲で、納経で墨書きが終わりご朱印を押すばかりになったところで、5時の鐘がボーンとなった。ご朱印を置いて、パタリと納経帳をたたみ、明日お出で下さいと言って納経帳を返した とかとか・・・。

・この辺にも遍路宿が沢山あったが、残っているのは少ない。客が減っていることもあるが、他に伝染病がある。遍路宿で家族のお風呂を、お客のお風呂と共同にして、お客の後に入っていたところは、伝染病などにかかって亡くなってしまった人が多い。この宿は、幸いにも、客と家族の風呂が別々だったので良かったとの事。(伝染病が多いと言う事で、少し昔の話かもしれませんね?)ちなみに、小生が本日一軒目にトライした宿は近代的リゾート風であったが、排水などの環境問題があって廃業したとの事で別の理由のようだ。

・蕗の薹の話をしてみると、その通りだ。この辺では誰も食べないとの事。東京では貴重品だと言うと、奥さんを大声で呼んで、宿帳を持ってこい。小生の名前の横に蕗の薹と書いておけ。来年になったら送ってやる。絶好調である。今年、蕗の薹の季節になった。残念ながら音信は無い。

★今回の遍路旅で、こんなに飲んだのも、こんなに長時間話したのも、初めてだ。ともかくぐっすりと眠ろう。

(連載第15回)
◆平成20年4月14日

[西林寺〜浄土寺〜繁多寺〜石手寺〜太山寺〜円明寺]

★朝一番、西林寺を目指して歩き始める。間もなく登校途中の生徒達に出会う。丁寧な「おはようございます」の挨拶。ここ四国では、お遍路さんに会ったら、挨拶するようにと躾けられているようで、度々、このような元気の出る挨拶をもらった。都会では考えにくいことだ。

★西林寺の山門前には、内川という小川が流れていて、この小橋を渡る。持っている金剛杖の扱い方には、いくつかの作法があるが、その中のひとつに、「橋の上では金剛杖をつかない」というのがある。これは、「大師が橋の下(実際には 番外 十夜ケ橋  永徳寺の橋)に野宿をしたという逸話よりきている。休まれている大師の眠りを妨げないように心遣いをする。」ということのようである。


西林寺は大師堂が工事中で、本堂で両方の礼拝をやるようにとの表示。礼拝は、本堂の作法と大師堂での作法の両方でやるのかな?とか、お賽銭は2回分いるのかな?とかつまらぬ事が頭をよぎる。


★浄土寺は本堂&空也上人立像(ともに重文)が有名である。境内のしだれ桜が見事に咲いている。花見をしながら、傍らのベンチでしばしの休憩をとる。


★繁多寺を経由して、石手寺にきた。ここの門前には、有名な「右衛門三郎」の像がある。彼は伊予の長者であったが、托鉢に来た大師に乱暴無礼をして、8人の子供を亡くした。罪を詫びる為に、大師を追い、四国の寺院を20回まわったが会えず。最終的に逆打ちをして、21回目にやっと大師に会え、罪を解かれた。


★この事から、右衛門三郎は遍路の元祖と言われている。又、おさめ札も自分が回っている事を大師に知らせるために名前を書いた木札をお堂にうち付けた。おさめ札の始まりと言われている。逆打ちのご利益が大きいというのもここから来ているのかも知れない。

★石手寺境内は、広く、門前には店屋が立ち並びとても賑やか。平和の折鶴などあり、平和活動、ボランティア活動など幅広い活動をしているようである。

★石手寺を出ると、すぐそこは道後温泉である。温泉での一泊も捨てがたいな。しかし、まだお昼前である。時間がもったいないと思いなおし、横眼で睨みながら、次の太山寺を目指し、歩き出す。

★52番太山寺の本堂は鎌倉時代の建築で四国屈指の木造建築として有名(国宝)である。太山寺への途中、藤沢から来たという女性と一緒になった。裏山側から登るが道がよく分からないということで同行する。山頂近くで一休みする。話を聞くと、もう数回の遍路をやられているとの事。

★荷物を軽くするために最大限の注意を払っているという。ちなみに持たれているザックは特注で500gだそうだ。小生のザックを帰宅後に量ってみたら900gあった。又、写真を撮ってくれと頼んだら、写真が欲しいですか?とちょっと馬鹿にされた感じ。(一人歩き遍路の方の一般的メンタルはこんなものかと思う。)


★四国は、海岸線からすぐに山の斜面が立ち上がっており、その間に民家があるところが多い。気流を利用するトンビにはピッタリの地形なのか、遍路道、民家の近くなど、そこいらじゅうでトンビを見た。しかし、コンパクトデジカメのシャッターでは、鳥の写真はあまり撮れなかった。貴重な一枚(左上の写真)。

★本日はこの後、53番円明寺を経て宿に入る。



(連載第16回)
◆平成20年4月15日

[延命寺〜南光坊〜泰山寺〜栄福寺〜仙遊寺〜国分寺]

★今日は8時間程の長時間歩行の予定。延命寺を経由して、今治駅近くの街中にある南光坊へ来る。ここは珍しく名前に寺が付かない。88か所中、名前に寺のつかない所が3か所あるようだ。


★休憩所で休んでいると、遍路の方が声を掛けてきた。話を聞くともう50回以上の遍路をやられているとの事。愛知の方で他の霊場も回られているようだ。準備編で掲載の金色おさめ札はこの方に頂いた。こういう方は毎年3月の声を聞くと、身体も心も疼いて遍路に旅立つようで毎年の行事として習慣化しているようだ。

★56番泰山寺、57番栄福寺を打つ。途中の側溝にタニシがうようよといる。本当に懐かしい思い。小学校の頃に、近くの小川でよくタニシを取ったものだ。近頃は姿も見かけない。


★58番仙遊寺に来る。本日のコースは、ここ以外は平坦な道である。ここだけは、標高255mあり、特にお寺に着いてからの階段が結構厳しい。登り道の途中には、花々が咲き乱れていた。

シャクナゲ ミツマタ

★仙遊寺にあった仏足跡は、お釈迦様の足跡を印したもので、仏像が出来る前はこれを礼拝していたそうで、色々なところで出会った。又、講師より、ここの宿坊は眺望良し、料理良し、と聞いていた。時間が合えば是非泊まりたい所だ。


遍路をやっているうちに、遍路は時間的な制約を付けたり、いつまでに帰るとかいう目標を立てずに、泊まりたい所に泊まり、ゆったりとやるべきと思うようになってきた。とか言いながら、時間も早く、即 次を目指す事とする。

仙遊寺を出てしばらくして、道沿いの茶屋に入る。甘酒を飲みながら、店のおばさんの眉つばものの話を聞く。下ネタで恐縮だが、「蝮とバスガイドさんの話」である。
★「観光客を案内中のバスが、道端で休憩を取った。尿意を催した、ガイドさんは、人目につかない草むらに入りこみ、用を足した。その時、蝮に股間を噛みつかれた。場所が場所だけに、人に言えず、我慢して、営業所まで戻って、急いで医者にかけつけたが、手おくれで亡くなった。この辺のバスガイド仲間では有名な話で、草むらに分け入って用を足すなが合言葉になっているとか???」

★確かに、講師からは「特に、秋口には蝮が多い。決して金剛杖で草むらをつつかないように。又、小用を足すときは広い側に向かってやるように。蝮は飛びかかってくる。」と言われていた。まさに「藪蛇」の話そのものである。

今日の最後、国分寺へ向かって、歩く。国分寺まで、後2〜3kmかと思うあたりで、腿、ふくらはぎの筋肉が硬直してきた。足の裏もジンジンと痛い。このままでは、どうにも歩けない。道端の石の上に座り込む。靴、靴下を脱ぎ、足を投げ出す。

今日は強行軍だと言いながら、このくらいの距離はもう何回かは歩いている。天気が良く、暑かったことが影響したのだろうか。休憩所がない所でダウンしたのは、この旅で初めてである。

今までの旅を振り返り、靴を評価してみる。小生が履いてきたトレッキングシューズは、軽登山靴に比べて

 @靴内での足の保持が悪い。特に、下りでの保持が悪い為に靴紐を絞ることになる。この状態だと、足先が痛くなり、長くは歩けない。  頻繁に紐の調節が必要になる。
 A防水と言いながら、半防水靴で、激しい雨の時は、ほとんど役に立たなかった。
 B舗装道路がこれほど、足裏にキツイとは思わなかった。最後まで悩まされた。特に、クッション性を、もう少し考慮すべきであった。(舗装路での、軽登山靴のクッション性がは良く分からない)

遍路指導書も靴には、いくらお金をかけても良いと言っている。皆様も是非ご留意下さい。足を揉みながら、30分程休憩しただろうか。足はおさまってきたが、一度 長時間休むと、身体がだるく、再スタートするのに決心がいる。

身体に鞭打ちながら、国分寺を打ち、今日は JRで伊予西条まで行く。


[宿で]

宿で、長野から来たという50歳前後とおぼしき遍路中のお坊さんに会った。結構重い荷物を持ち、全歩き遍路をしているとのこと。いくつかのいい話をして頂いた。

・小生が、歩き&乗り物の半々の遍路です。と言ったら、遍路はその人、その人がやりたいようにやれば良い。他人がとやかく言う問題ではない。
・88番から1番に戻らなくてはいけないと教えている人がいるが、これは戻る必要は無い。坊主の私が言っているのだから間違いはない。・高野山へのお礼参りはした方が良い。
・礼拝の時に般若心経を唱えるが、どのようにやっても良いと聞いてきたが、団体客の先達さんたちは節をつけてロウロウ唱えていますね?に対してお経の類には以下の3つがあり、節をつけて唱えるのはご詠歌だ。
・聲明(しょうみょう)はサンスクリット語の真言が入っているもの。
・真言が入っていないものをお経という。
・お経に節をつけたものをご詠歌という。
との事だった。


[注]サンスクリット語は、現在のインドでは公用語のひとつとなっているが古典言語であるので、日常語としては、ほとんど使われていないようだ。日本では、古くは梵語(ぼんご)と呼ばれ、空海の時代に仏教、仏典とともに伝わってきたようである。又、真言は漢訳されずにサンスクリット音のまま直接読誦されるものである。

今日は本当にヘトヘト(こんなのは2回目かな?)即 寝ることとする。


(連載第17回)

◆平成20年4月16日



[横峰寺〜香園寺〜宝寿寺〜吉祥寺〜前神寺]

★本日は伊予西条から横峰寺までをバス移動とする。60番横峰寺は、標高745mあり、遍路コースの難所として有名である。しかし登山口から、お寺の前までの細い林道を数台のマイクロバスがシャトル輸送しており、多くの人がこれを利用していた。狭い道の為、マイクロバスの位置を無線で常に連絡し合い、すれ違いのポイントで待機する。慣れたものである。


★横峰寺を打ち、マイクロバスで登山口まで戻り、香園寺を目指す。61番香園寺は写真にあるようにお寺らしくない、たたずまいである。ご本尊は大日如来であるが、安産、子育てに霊験有る「子安大師」も良く知られており、お姿を 2枚(2種類)頂戴した。(写真参照)通常、このお姿はご本尊を描いたものを1枚だけ頂く。2枚頂いたのはここだけである。

★61番から62番宝寿寺に来る。団体客で満員である。団体でお寺が賑わう事自体は良いことだと思うが、一人遍路をやっていると、時として、腹が立つ。

・礼拝時、先逹さんの誘導で皆さんが大挙して、お堂の前を占拠し、般若心経などの大合唱。灯明、線香も上げられない。我々は隅の方で小さくなっている。まあ、これは良しとしようか。

・困るのは、納経である。団体礼拝の間に、添乗員さんがリュックに詰めた50冊ほどの納経帳をドサッと出して、納経をする。この時はバス2台、2人の添乗員で100冊ほどあった。気の利いた添乗員さんはお先にどうぞとか言ってくれるが、時間など無い時であろうが、無視されることも多い。

・だいたい、礼拝と納経を平行してやることがルール違反のような気がする。又、100人の方が全員で列を作って、一人ずつ納経をして行くのならば、こちらも待たざるを得ないとは思うが・・・。添乗員さんの個人の資質だけに期待するというのも難しい事と思うので、お寺の方で、何かルールを考えてもらえると良いと思った。

★63番吉祥寺はご本尊が毘沙門天であるが、88か所の中で、毘沙門天を祭ってあるのは、ここ吉祥寺だけである。88か所で祭ってあるご本尊は全部で16種類あるが、一つのお寺だけで祭ってあるご本尊が6つある(9番涅槃釈迦如来、11番文殊菩薩、14番弥勒菩薩、55番大通智勝如来、70番馬頭観世音菩薩、プラス63番)。ちなみに一番多いのは薬師如来で23のお寺が祭っている。

★64番前神寺に向かう。62番あたりから小雨が降り出し、雨支度である。前神寺を打って、大変なことに気がついた。大げさだが、命の次に大事な遍路地図を失くしてしまった。そういえば、雨でザックカバーをした。地図をザックのサイドポケットに入れたつもりだったが、ザックとザックカバーの間に挟まっただけで、滑り落ちてしまったのだろう。取敢えず 宿の電話番号は分かっている。うろ覚えの記憶をたどり何とか宿に着く。

★宿に着くと、ここは典型的な遍路宿で、まず雨で濡れた靴の中敷きを取り、新聞紙を詰め込んでくれた。遍路地図は無いかと尋ねると、残念ながら無いとの返事。しかし、心配してくれて、夕食時に、2人しかいない遍路客に、地図を持っているか聞いてくれた。地図をお借りし、近くのコンビニでコピーを取らせて貰う。おかげで明日からも無事に旅が出来そうである。


★ところで、この様な古い遍路宿の共通点であるが、

・風呂は共同(家庭の風呂より少し大きいが、小型で、客が順番に入る。) バスタオルは勿論無く、タオルは自分の物を使うことも多い。
・トイレは和式。水洗で無い事も多い。無論ウオッシュレット等は無い。 道中のトイレ事情も含めてトイレには苦戦した。
・部屋は和室で、入口は襖1枚で、鍵は掛からないか、ごく簡単な鍵。
・相部屋のこともある。
・客が少ない。
・古い、小さい。

など、あまり快適ではないが、安くて親切。そして寺の近くや遍路道沿いにあるので便利。ただ、押し並べて経営者は年寄りで、宿そのものを建て替えるとか経営方法を新しくするとかいう体力は無いように見えた。お寺が宿坊を近代的、且つ 大規模なものにして大量に団体客を受け入れているのとは対照的である。遍路道を世界遺産にとかいう話もあるが、合わせて、古い遍路宿も是非、生き残って貰いたいものだ。



◆平成20年4月17日


[三角寺]

★今日は伊予最後の三角寺から讃岐へと入る(讃岐は後述)。三角寺の途中、タンポポの綿帽子の大群に出会う。まだ花盛りのタンポポには沢山出会ったが、この様に大量に綿帽子になったものは初めて会った。

★三角寺は、安産祈願の安産子安の観音が有名で、ここの「しゃもじ」を使って夫婦で食事を取ると子宝に恵まれるというご利益があるとの事。三角寺を打ち終わり、ともかくこれで伊予の約360km 26の札所を、約6日の旅で打ち終わった訳である。途中、43番〜44番をはじめとする1泊2日もしくは2泊3日のロングコースをJRやバスでスキップした。歩行距離は130km前後と思うが、高知より札所間が短く、お寺の数も多い為、旅の記憶は鮮明に残った。


★ここで、紛失した遍路地図が、いかに重要かを知っていただくために、遍路地図について説明したい。

「遍路地図について」

★歩き遍路に欠かせないのが、へんろみち保存協会編の地図「四国遍路ひとり歩き同行二人」である。  これは歩き遍路専用に作られたもので、道路&道案内だけではなく、以下の情報が満載である。

1.勿論 地図としての道案内⇒これには歩き遍路道、歩行・車両の併用道路、車両専用道路とわけて表示されている。

2.札所の位置、番号。 番外札所などの位置

3.宿屋の位置。 住所、電話番号 など⇒歩き遍路にはこれが必須情報で地図をなくすとどうしようもない。

4.食堂の位置

5.コンビニなど売店の位置

6.遍路小屋、休憩所位置

7.ローカルなバスやフェリーの時刻表情報

など普通の地図にない情報が満載である。 又、同じく へんろみち保存協会編の「四国遍路ひとり歩き同行二人」の解説編 も非常に有効な書物である。 これは準備に必要な、装備、心がまえ、巡礼作法などに加えて 歩行距離情報、各札所の説明などしてあるので、遍路に行く方は、是非ご覧になると良いと思う。

地図表紙、地図の中身のサンプル、解説書表紙の写真です。


(連載第18回)

◆平成20年4月17日(伊予の続き)

[実行編]

★香川県(讃岐;涅槃の道場;完全な悟りに至ること。):讃岐全体は170km弱(65番〜88番)の距離の間に23の札所がある。札所間平均距離が7km弱と短く、徳島と良く似た配置である。

[雲辺寺〜大興寺]

★三角寺からJRで予讃線の豊浜駅まで来た。雲辺寺へは、ここから歩くことにしているが、遍路コースから大きく外れている。遍路地図は遍路道のみを非常に狭い範囲で表しているので、コース外から遍路コースに戻るのは大変である。人に尋ねながら3kmほど歩いただろうか。やっと遍路道に戻る。このように、一度遍路コースから外れる計画をお持ちの方は、遍路地図外の位置と遍路地図の関連を良く事前調査されておくことをお勧めしたい。

★雲辺寺は、四国札所の中で最高標高(910m)の難所である。途中、雨に煙る中、急斜面に咲く桜などの花々が美しい。ここではもう新緑が入り混じっている。

★雲辺寺では、まず「お迎え大師」があり、その後、杉林を進むと、「五百羅漢」と言われる壮大な羅漢像群が迎えてくれる。杉木立の中、小雨の中に煙る羅漢像群はとても幻想的である。このような雰囲気はこの旅では、初めて味わった。

★雲辺寺を打ち、ロープウエィで登山口まで戻り、大興寺を目指す。道は車が十分すれ違えるほどの林道?で、緩やかな下り道が続く。しばらく行くと、「有害鳥獣駆除のお知らせ」の看板が立っている。よく見るとイノシシ駆除とのことだ。四国には熊はいないと聞いていたが、猪は多いと見える。関東近県で登山をしていると、奥多摩あたりでも、「熊に注意」の看板を良く見かける。ケモノにとっても全国的に食糧不足なのかも知れない。

★民家が近付いてきた。道端にトカゲが這う。写真を撮ろうと思ったら、土筆の中に逃げ込んだ。保護色で人の目を誤魔化せると思っているのかジッとしている。コラコラ見えているぞ。この辺まで来ると、道も平坦になってきて、道端に咲く花々を楽しみながら歩ける。

★67番大興寺を打ち、寺近くの宿に入る。ロープウエィを使ったとは言いながら、山道を25km近く歩いたので結構な疲労感である。本日の雲辺寺で、四国遍路の難所と言われるところは大体打ち終わった。四国の難所を振り返ってみたい。


[難所の事]

★ものの本などには、下記の7か所(20,21番を2ヶ所として)が良く難所として紹介されており、「遍路ころがし」などと呼ばれている。小生、@、A、B、Eは歩き、C、D はバス&ロープウエィを使った。そのため公平な評価はできないが、私見としては、@ 12番焼山寺が一番の難所と言えるのではないか。又、標高は遍路地図のお寺の高さを用いているので、山頂などの数値と違うので了解ください。

@ 12番焼山寺;標高700m、一度登って、大きく下り、再度登るという大きなアップダウンを繰り返す為、遍路随一の難所と言われる。又、ケーブルとかバスの代替輸送が無い、及び途中に宿が無いので厳しい。

A 20番鶴林寺;標高500m、 21番太龍寺;標高520m。 ここは、20番と21番と連続しているので、1セットで考えた方が良い。ここも一度500m上り、一旦、下ってから再度 520mまで登るので厳しい。全行程を連続して全て歩けば12番と同レベルか。但し、太龍寺からの下りにロープウェイがあるので、体力に合わせて、これを選べる。       

B 27番神峯寺;標高430m 全くの海抜0mからのスタートで一直線に登るため標高以上に厳しく感じる。又、麓に来るまでに、長い国道を歩いた後に登るならばやはり、厳しい難所と言える。山頂近くまで自動車道が出来ている。及び麓に荷物預かり所があり、それなりの選択肢はある。

C 60番横峰寺;標高745m ここも標高が高く難所であるが、バスの代替輸送がある。

D 66番雲辺寺;標高910m 遍路中 最高標高の難所。65番(標高480m)から一度標高100mまで降りて又、登る。65から66番の距離も長く(約18km)全部歩くとかなりハードと思う。しかしロープウェイがある事、及び 66番の前後に宿があるので、選択肢は広い。

E 81番白峯寺;標高280m。白峯寺付近の宿(一軒しかない)が取れれば、それほどきつくは無い。これが取れないと、80番から82番根来寺(標高365m)を超えて平地まで歩かなければならず、歩行距離が長い。

  

(連載第19回)

◆平成20年4月18日

[神恵院〜観音寺〜本山寺〜弥谷寺〜曼荼羅寺〜出釈迦寺]

★神恵院と観音寺は、同じ敷地内に隣接している一山、二寺の珍しい配置で、四国88か所の中でもここだけである。山門の表示も、右の柱に、六十八、六十九番霊場。左の柱には、七宝山 神恵院 観音寺 と書いてある。(写真参照。見えないかも知れませんが)



★ここから70番本山寺への途中で、サギの大群に会う。財田川と国道を挟んだ対岸で距離があったので、写真は鮮明でないが、白く見えるのは皆なサギで、何百羽といるのではないだろうか。又、その近くの川原で菜の花が群生していた。この旅で菜の花もたびたび見たが、この様に見事に咲いているのは初めてだ。

★70番本山寺は、国宝の本堂、重文の仁王門、四国札所では4か所しかない五重塔など見どころが多く、境内も広大で立派なお寺である。ここから、71番弥谷寺へは、JRと三豊市のコミュニティバスを使う。コミュニティバスは全線100円で安くて便利だが、本数が極めて少ない。利用される方は時刻表に要注意。



★弥谷寺のそばには、天然いやだに温泉ふれあいパークと言うのがあり、本来、ここでの宿泊を目指していた。やはり一軒しかなく、人気の宿泊所で、予約が取れなかった。ここ弥谷寺は大師の少年時代の勉学の場として「獅子の岩屋」が有名である。


★弥谷寺を打ち、竹林の中、山道を抜け、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺を打つ。本日の宿は72番の門前である。

★宿に着いて、洗濯をする。宿のおばさんが洗濯機はその先にあるよ、洗剤もあるからとの事。行ってみると、どうも洗剤が見つからない。液体漂白剤があったので、同じことだろうと思い、漂白剤をかけて洗濯をする。終わってみてビックリ・・・。シャツの色がマダラ状に落ち、迷彩服のようになっている。帰京後、我が奥方に聞いてみると、漂白剤は水を満たした後に入れるそうだ。馬鹿にされる。又、小生の使った洗濯機より10mぐらい先に泊まり客専用の洗濯室があった。大失敗の巻である。

★ここは古くからの遍路宿で規模も大きい。遍路地図も売っていた。早速購入する。夕食時食堂に行くと、珍しく客が8人ほどいた。夕食の食卓も豊富であったが、更に、部屋の隅にはカレーライスが準備してあって食べ放題との事。小生はとてもカレーまで届かない。若い遍路客は、盛り盛りと食べていた。

又、隣に座った人から「琴平はどうするの?」との質問を受ける。何だそれは?と思って良く聞くと、明日の善通寺からとても近いそうだ。遍路地図は遍路コースを一直線で他の事はあまり丁寧に表していない(良く見れば本の末尾の方にあったのだが気が付かない)琴平が近いということを初めて認識した。行ったことがないので行ってみるか。


(連載第20回)

◆平成20年4月19日


[甲山寺〜善通寺〜金倉寺〜金刀比羅宮] 

(ことひらは、金刀比羅、金毘羅、琴平とお宮、ホテルなど、駅、町名などで漢字表記が異なる。遍路地図の表記に従う。)


★朝、出発の準備をしていると、隣の部屋で、宿のお婆さんが布団を片づけている。ちょっと話をする。昔は良かったと思い出話をする。百人単位の客を受け入れていたとの事。部屋の構造や規模からみると、中学時代の修学旅行のように、和室に布団をビッシリと敷いて詰め込むのだろうな。良き時代だったのだ。橋が出来てだめだというようなことをブツブツと言っている。何の事かはっきりとは分からなかった。これはこの後の琴平ではっきりとする。

★宿から、甲山寺、善通寺へは穏やかな道が続く、道端に花が咲き誇っている。

★善通寺は弘法大師の父の豪族 佐伯善通から土地の寄進を受け、佐伯氏一族の氏寺として建立されたという。寺号は佐伯善通からとって善通寺としたとの事であり、大師ゆかりのお寺である。お寺の境内も御影堂、観智院とふたつに分かれており、五重塔などがあり見事なものである。屋台のお店が並んでいたり、町並みも綺麗で大きく、まさに一大門前町をなしている。

★この後、金倉寺を打ち、琴平へ向かう。

★駅に着いて、即、駅前の観光案内所へ飛び込む。宿を頼むが、丁度、こんぴら歌舞伎にぶつかっていて、なかなか取れない。数軒当たった後にやっと取れた。「お客さん運がいいですよ」と言われる。こんぴら歌舞伎の時は、宿はなかなか取れないそうだ。

★ともかく一段落して、近くのうどん屋に入る。讃岐うどんを食べながら、店のご主人と話す。札所と比べるとすごい人出ですねと言うと、今日はこんぴら歌舞伎があるのでそこそこ賑わっているが、昔はこんなものではなかった。瀬戸大橋が出来てから、客は皆、近畿で団体を組みバスを仕立ててやって来て素通りしてそのまま帰ってしまう。泊り客は激減したとのこと。

★瀬戸大橋が出来れば、経済も活性化して何もかも上手くいくはずだったが、とんでもないことだなど色々とグチッていた。そう言えば、今朝 宿のお婆さんが、橋がどうのこうのと言っていたのはこの事だな、と納得した。

★昼食を済ませ、まず宿に荷物を預ける。金刀比羅宮は、本殿まで785段の階段があり、更に奥の院までは、約500段の階段がある。写真にあるように、良く整備された石段であるが、登りでがある。ザッと計算しても300mぐらいは登ることになるのではないか? お年寄りなどには、商売で籠が用意されているが、籠を担ぐ方も大変であろう。

★金刀比羅宮を参って、下りてくると、多くの人で賑わっている。観光案内所で聞いた、こんぴら歌舞伎だな。行ってみると、入場待ちのお客の列で一杯。幟を見ると、市川海老蔵など一流どころが来ていてなかなかのもの。後で聞いたのだが、追っかけもいて、県外からも多くのお客がくるそうだ。

★歌舞伎小屋の前に来てみる。開場寸前で、大変な人出。テレビなどで度々紹介されているので、皆様良くご存じと思うが、これが有名な四国こんぴら大歌舞伎「金丸座」だ。現存する歌舞伎芝居小屋としては最古のものだそうだ。

★町並みを一巡見学するが、まだ宿のチェックイン時間には早い。よく見るとマッサージの看板。これは具合が良い。すぐに飛びこむ。全身と足裏のマッサージをたっぷりと90分ほどやって貰いホテルに向かう。今日の宿は、この旅で初めてで、且つ たった一回の本格的観光旅館だ。風呂、食事、地酒 等々を楽しむ。琴平へ来て良かった。ゆっくりと休むこととしよう。 




(連載第21回)

◆平成20年4月20日


[道隆寺〜郷照寺〜高照院〜国分寺] 

★琴平を出て、77番道隆寺、78番郷照寺を打つ。郷照寺から高照院への道はJR予讃線に沿っている。坂出の町で商店街のアーケード通りを歩いていると、後ろから何やら声が聞こえる。耳を澄まして聴くと、「頑張りなせえよ〜」というようなお言葉を4〜5回繰り返している。振り返るとお年寄りの男性が自転車に乗りながら、励ましの言葉を掛けてくれている。有り難いことだ。

★ここ坂出は確か、小学校時代に塩田の町とか習ったな?帰宅後に調べてみるとピンポンであるが、今は埋め立てられて工業地帯になっているそうだ。そのせいかどうかは分からないが、商店街のお店の多くが、シャッターを降ろしたままの、いわゆるシャッター街となっていた。

★昼食時なので近くのうどん屋に入る。讃岐うどんには色々なメニューがあるのだが、ここではかま揚げうどんを頼んだ(「あつあつ」とかも言うのかな?)すると「かま揚げ10分」とか調理場より威勢の良い声が聞こえた。茹で上がり時間を客に聞こえるように言うのだ。


79番高照院から80番国分寺の途中、JR予讃線加茂駅近くで、香川では珍しい休憩所に出合った。。徳島ではお接待&休憩所には頻繁に出会ったが、その後は激減する。(徳島はほとんど歩いたので目に着きやすかったのかもしれないが?)お接待の甘夏なども置いてあり、気づかいの行き届いた休憩所である。

80番国分寺では、ミニ88か所巡りというのが境内にあった。これはそれぞれの札所の88のご本尊の石像が建てられており、これを一周すれば、安直に88か所巡りの疑似体験というか、ご利益が得られるということらしい。遍路講座で府内(おおよそ、今の東京23区内)88か所巡りと言うのを15寺程やったが、ここにも同じようなものがあった。

★今日の宿は国分寺のすぐそばである。宿に入ると、洗濯物を出しなさい。今やれば、すぐに乾くからやってあげるとの事。有り難くやって頂く。

夕食は、6人ほどの人。茨城から来たおじいさん(茨城ジイ)が、明日の道が良く分からないと言っている。これは国分寺に「迷子者が出たので、車道を行くように」とかの注意書きが出ていたので気にしている様子。宿の女将さんが、口頭で説明しているが、不安は拭い切れないようである。どなたかと同行されればという話になった。

20代かと思われるマラソンの土佐礼子に似た(土佐モドキ)お嬢さんがいた。話を聞くと、全歩き遍路で、ここまで 30日強しかかかっていない。全部回っても35〜36日ぐらいで終わってしまう。一日35kmぐらいは歩いている感じだ。いくら若くてもこれはすごい。

夕食後、明日のお昼におにぎりを頼もうとしたら、お昼時に通る峠に食堂があるから、そこで食べればいいとのお勧め。全員そうしたようである。


(連載第22回)

◆平成20年4月21日


[白峯寺〜根香寺〜一宮寺] 


★つぎの朝(21日)、出発準備をしていると、「茨城ジイが待っていますよ」と宿の女将さんが声を掛けてきた。後15分ぐらいかかるが、それでよければご一緒しますと返事した。玄関に行ってみると、土佐モドキと一緒に、既に出発したという。

★白峯寺の登り途中で国分寺の町を見下ろせる高台にでる。ここ香川はお椀を伏せたような山と溜池が本当に多い。又、川の水も土佐県側と比べると、濁った感じである。(瀬戸内気候で雨量が少ないから当然だろうが)

★しばらく車道を歩いていると、自転車遍路の方に会った。自転車は平地ではその威力を遺憾なく発揮するが、登り道はさすがにきつそうで休憩を取っていた。野宿ベースで、生活用品一式の20kgを超える荷物を持っている。

★彼は、2回目の遍路で、納経は一回目ではやったが、今回は、納経はやらず、ご朱印は頂かないそうだ。(これは納経料を払わないということだ。ちなみに一回目の納経では毛筆での墨書きとご朱印を頂くが、2回目からは同じ納経帳にご朱印だけを頂くのが普通のやり方である。何回も遍路をやっている人の納経帳はご朱印で真っ赤になっている。)歩き遍路道は車道を横切って行くので、しばらくお話したのち、別の道へと別れた。

★自転車遍路さんと別れて、遍路道に入りしばらく行くと、古井戸があり、傍に「マムシに注意」の看板。蝮の話は沢山聞いたが、看板を見るのは初めてだ。

★白峯寺を打って根香寺を目指す。途中の十九丁あたりで、何やらガヤガヤと人の声が聞こえてきた。「来た、来た、誰か来たぞ。」何事かと思えば、団体登山者が記念写真を撮るのに、シャッターを押す人がいなくて騒いでいたのだ。小生も記念に写真を撮って貰った。

★十九丁を過ぎ、宿で紹介された食堂に行って見ると未だ開いていない。時間が早すぎるのだ。今朝は早出をしてちょっと頑張りすぎたのだな。いずれにしても、開店時間を確認しなかったのは迂闊であった。仕方ないそのまま根香寺まで行く。

★根香寺で礼拝を済ませ、境内で一休みしていると、先に出た茨城ジイと土佐モドキに出会う。昼食はどうしたの?と聞くと、やはり食べていない。あまり腹のたしにはならないが、手持ちのクラッカーを出して、ご一緒にと誘う。根香寺から次の一宮寺への道も2経路あり、分岐が分かりにくい。はっきりするまで、茨城ジイ&土佐モドキとご一緒する。

★根香寺を出てすぐに、満開の桃の花?に出会う。見事なものである(写真参照)1時間半ほど歩いたころ、食堂を発見、3人で飛び込む。土佐モドキに全歩き遍路とは頑張るねと言ったら、実は途中で雨の時に一回だけ車に乗せて貰いましたとか恥ずかしそうに言っていた。

★食事を済ませ、出発となったが、歩くスピードが違うので、3人別々に行くこととする。土佐モドキは軽やかに「お先に」とか言って、スタスタと歩いて行く。まるで競歩のようだ。どう見ても時速7kmは出ている。何かスポーツでもやっているのだろう。あれなら全部を35日ぐらいで回れるのも納得だ。さて、小生も茨城ジイと別れを告げて歩きだす。

★しばらく歩いて、高松高専近くの、香東川では青サギ、白サギにお目にかかる。ここまで来れば、一宮寺へはもう3kmぐらいだ。と思って歩いていると、どうも道がおかしい。一度渡った香東川を渡りなおしてしまった。どこかで曲がり角を見逃してしまったようだ。今日は、山道を含めて25kmの歩行予定だったが、ここまで来て道を間違えるとけっこうこたえる。回り道をして2kmぐらいは余計に歩いたか。

★ヨレヨレになりながら、一宮寺を打ち、宿に入る。この辺はもう高松も近く、雰囲気も街中である。今日の宿は、天然温泉で、サウナ、ジャグジー、マッサージなど完備。部屋も別棟にあり、自炊設備を備えたビジネスホテル風の作りで今までの遍路宿とは違う。

★夕食までの間に、早速サウナ&マッサージをやって貰う。先生と見習のマッサージ師がいて、客は小生一人。話をすると、瀬戸大橋が出来て、高松もミニバブルで、人口が集中してきているとの事。見習いさんも香川の田舎から出てきたそうだ。ここでも田舎は過疎化が進んでいるそうだ。

★マッサージを終わり、地酒を飲みながら夕食を取っていると、茨城ジイが1時間半ほど遅れて入ってきた。頑張るなあ〜。お食事をご一緒する。

★ここの宿は気に入った。もう高松も近く、琴電がそばを走っていて便利である。明日は84番〜86番の予定だが、86番を打ったら、電車で、又、ここまで戻って来てもう一泊しよう。それなら荷物も宿に置いていけるしな。今日も疲れた。早く寝よう。

(連載第23回)


◆平成20年4月22日


[屋島寺〜八栗寺〜志度寺] 

★今日は、宿に荷物を置いて、空身で気楽に出発である。屋島寺に向かう。同寺は源平合戦 屋島、壇ノ浦の戦いで有名である。地形を見ると入り江になっている壇ノ浦を挟んで、西に屋島寺(標高284m)、東に八栗寺(標高 五剣山;366m。お寺;230m)が壇ノ浦を囲むように聳え、狭く開いた入り江の入口しか開いていない。堅固な要塞というのが良く分かる。

★源義経の奇襲と言えば、一の谷の戦いで裏山より平家を攻めた事が有名であるが、ここ屋島、壇ノ浦でも、海路阿波に上陸し、陸路屋島に迫り、背後から平家を急襲した事、及び、那須与一の扇の的の話が有名である。

★屋島寺で、礼拝を済ませ、本堂の前で一休みしていると、デジカメを自分の手で持って不自由そうに自画像を撮ろうとしている人がいる。お撮りしましょうか?というと、嬉しそうにカメラを渡された。歩き遍路の方々はどうも人に頼むのを躊躇しているようだ。小生の写真も撮ってもらった。

★屋島寺への登りは整備された南側からアプローチした。八栗寺へ行くのには、裏道の東側の海岸へ向かって一直線に降りる道をを選ぶ。この道についてお寺のお坊さんに聞いてみると、「表の道を通ったほうがいいですよ」とのお勧め。裏道は通れないのかと聞くと、いい道ではないとの事。行くならば気を付けて降りて下さいとのお言葉。

★行ってみると、さすがに急勾配。地図で見ると、わずか1kmの間に300m近い高さを下る。義経がこれを下って奇襲をかけたのかな?とか思いながら下る。

★屋島寺を出てすぐに、立派なホテルがある。表に回ってみると、既に廃業している。玄関横の八重桜が満開で見事であるが、何か物悲しい。すぐそばに、展望台があり、壇ノ浦を見下ろせる。対岸の山上が八栗寺だ。大きく下って、又 次の山頂まで登らなければいけないのが視覚的に理解できる。

★八栗寺へは、けっこう厳しい山道が6kmほど続く。歩き遍路道を行くが、民家の間とか狭いところをくねって行くために、分かりにくい。何度も地図を確かめる。八栗寺の登り道途中で、茨城ジイに出会う。空身の小生を見て、「空身はいいねえ〜」と羨ましがる。

★86番志度寺へ来た。途中に「平賀源内の墓」の看板がある。平賀源内はエレキテルの発明などで有名だが、この辺の人だとは知らなかった。調べてみると、彼は香川県志度町の生まれで近くには、平賀源内遺品館というのがあるようだ。

★志度寺を礼拝し、一休みしていると、土佐モドキがいる。途中で少し電車を使ったので追いついたようだ。「根香寺ではクラッカーを有難うございました。おかげで助かりました。」と丁重なお礼をされる。お礼を言われるほどの事ではないけれど。いずれにしても、茨城ジイと土佐モドキには縁があったな。

★今日の予定もこれで終わった。明日の晩はもう東京行きのバスに乗るのだ。早く帰って支度をしよう。

(連載第24回)


◆平成20年4月23日


[長尾寺〜大窪寺] 

★いよいよ最終日である。昨日ぐらいから、里心がつき、思いはこれでやっと帰れるモードになっている。今日は、本来、志度駅まで電車で戻ってそこから歩きだす予定であったが、歩く気持ちが大分薄れている。琴電で長尾寺前の長尾駅まで直接行く。


★長尾寺を経由して、いよいよ88番大窪寺である。山門の階段のところで、土産物屋のおじさんが、「写真を撮ってあげるよ。ここが八十八番結願所の石碑もあり山門も見えて一番いい場所だよ。」と大きな声を掛けてきた。写真を撮り終わると「お兄さん、帰りにはお土産を買っていってよ。」の念押し。(尚、88か所の札所を全て回り終わる事を「結願 けちがん」と言います。)


★境内に、弘法大師像がある。お大師様にもたくさんお会いしたが、これでお別れだなと思い、セルフタイマーを使い記念写真を撮る。礼拝を済まして、納経所に行く。聞きかじりの知識で、お坊さんに「金剛杖と菅笠をお寺にお返しするのですか?」と聞くと、「何か持って帰れない特別の理由がありますか?遍路をやっている事を知られたくない方達はお返ししていきますが、理由がないのなら、大事に持ち帰られたほうが良いですよ」との事。お言葉に従う。

★ここまでは、荷物が重くなることを嫌って、土産物は一切買っていなかった。皆さん似たような事を考えるのだろう。ここには土産物屋が一杯ある。

★ここから高松駅までは、さぬき市のコミュニティバスとJRで一気に行ってしまう予定。バス停でバスを待っていると、女性の2人連れが、高松へ行くのは、ここで良いですかと聞いてきた。小生も高松に行くことを告げ、ご一緒する。話を聞くと、1週間ほどで香川だけを回ってきたとの事。乗り物併用で小生と同じやり方であった。荷物が重くて、来てすぐに自宅に送り返したそうだ。どれくらい持ってきたかを聞くと、13kg程度持ってきたようである。

★高松から東京に帰るようだが、高松〜東京間の交通機関はまだ決まってないようだ。小生が、昨日バスの予約をした時には、まだ空席があったようだったので、連絡先を教えてあげる。金剛杖と菅笠はお寺にお返ししたそうだ。更に聞くと、お返しするのに3000円かかるという。どこまでも商魂はたくましい。

★高松に着く、まだ日は高い。サウナにでも行くかとサウナ風呂を捜す。ところがあまり無いようだ。尋ねながらやっと見つける。銭湯に毛が生えたような小さなお風呂屋さんであった。ひと汗流して、居酒屋に飛び込む。一人で飲んでいると、2時間もあれば結構出来上がってしまう。まだ時間があるので、仕方ない普段あまりやらないが、パチンコでもやるか。今時のパチンコは、速い、速い。1時間ほどやったが無論戦果は無い。バス発着所に向かう。

(連載第25回)


◆平成20年4月24日


[東京] 

★朝、新宿駅西口に着く。西武新宿駅に向かって歩いていると、昨日の女性も何やら同じ方向に歩いている。もしかして西武線ですか?と聞くとピンポン。東村山から来たそうだ。世の中狭いものだ。午前8時過ぎに無事帰宅し、ともかく遍路旅は無事に完了した。


[まとめ]

★これでめでたく四国88か所を巡り終えたわけであるが、全体を簡単にまとめてみたい。

(1)歩行距離、歩行時間遍路の全行程は「1200km」(注;遍路資料によると実際には一周で 1132.2km)と言われているが、この中で、小生が歩いたのは、

・歩行距離で評価すると、約450km程度で全体の40%程度である。

・歩行時間で評価すると、山道を中心に歩き、平地で交通機関を使ったので、60%程度は歩いていると思う。

(2).実施月日、所要日数;2008.3.31〜4.24   合計25日

(3).費用(100円台の数値はまるめた)

 ・総費用;約 380、000円 

・納経代、賽銭      ; 28、000円 ( 7.4%)

・宿泊代(含む酒)    ;150、000円 (40.0%) 

・外食(朝、昼、夜)   ; 42、000円 (11.0%)

・交通費         ; 57、000円 (15.0%)

・遍路用品、靴など    ; 32、000円 ( 8.4%)

・土産          ; 17、000円 ( 4.5%)

・その他(カメラ他)   ; 40、000円 (10.5%)

・マッサージ、サウナ他  ; 14、000円 ( 3.7%)

やはり、宿泊代と食事代で全体の半分以上を占めている。全部を歩き遍路でやると、この変動費分が大きく増加していく。(他の項目はほとんど固定費と見て良い)又、カメラを壊したので再購入の費用(28000円)が含まれている。

(4).その他

@ 遍路の推奨時期としては、3月中旬〜5月中旬、及び 9月中旬〜11月中旬が推奨されている。秋の遍路経験は無いが、春は花が咲き乱れており目を楽しませてくれる。個人的には春の遍路がとても気に入った。又、気温が20度を超えると荷物を背負いながらの歩行は暑い、この点からは、4月末ぐらいには終わったほうがよいと思う。

A もともと、信仰心とか使命感があってやった事では無い。そのせいか、格別な達成感とかは感じない。ともかくこれでなんとか終わったという思いだけである。その中で、印象に残った事は、咲き乱れる花々、動物たち、景色などを楽しんだのは言うまでも無い。

・最も印象に残っているのは、日々出会った人々である。その接触は瞬間的で、話したことも本当に取るに足らない事ばかりである。それでも、それが旅の変化となって、鮮やかに思い出される。又、意外と印象に残らないのが、歩いた事。日々それなりにきつい思いをして歩いているのだが、それが定形的な日常で普通の事となっている。豪雨にあったとか、足が痙攣しそうになったとか特別な事以外の記憶は希薄である。


・同じような意味でお寺での礼拝も日常定形動作であり、印象に残らないものである。本文中でも記述したが、「遍路は旅にあり」は本当に的を射た言葉である。高知県については、歩いた距離も短く、印象が希薄であった事に悔いが残る。又、お大師様に呼んでいただき、是非訪れてみたいものである。

B 小生、現役時代は生粋の会社人間であった。退職後は、先輩ズラして会社に顔を出すことだけはやめようと思い、退職時に、退職者に必要な3Kというのを作って、退職の挨拶とした。それは以下の3項である。

・健康;第2の人生を楽しめるだけの体力があること。

・金 ;贅沢をしようとは思わないが、趣味を楽しめる程度のそこそこの生活が出来る事。

   ・家族、近隣との絆;会社の生活から、家族、地域での生活を目指す。

  これをまねて、遍路の講座・体験、先人からの教え、などを聞いて遍路の4Kというものを作ってみた。

・健康;遍路に行けるだけの体力があること。

・金 ;遍路はそれなりのお金が必要である。この支払能力があること。

・休暇;遍路はまとまった時間が必要。これを確保できること。

・弘法大師が呼んでくれる事;これが大事なことだという。自分なりに解釈すると、上記3項が整っても、自分自身の怪我とか事故、家族・親戚などの出来事や反対。その他突発的な外的要因で行けなくなってしまうということは起こりがちである。この様な事もなく、いわば幸運に恵まれて初めて遍路が成立する。これを、お大師様が呼んでくれると表現しているのではないかと思う。

C後日談であるが、帰宅直後は信じられないことだが、あれほど歩いたのに、体重は1kgほど増えていた。食事の量が多かったせいであろう。一方、体脂肪率は3ポイントほど下がっていた。その後、1〜2週間は疲れて&気が抜けてダラダラしていたのだが、その間で、体重が1.5kgほど落ちた。おそらく、筋肉量が増え、基礎代謝が上がったものと思う。

(あとがき)

★HP管理人の松谷氏にすすめられて、あまり明確な意識も持たずにスタートした。当初はどれくらい覚えているか、どれくらい書けるか自信はなかった。当時のメモ、計画表、写真、地図を眺めながら書き出して見ると、まるで昨日の出来事のように記憶がよみがえってくるのには、自分自身でも驚いている。

★1月30日に初投稿して、本日3月22日に最終稿を書き終えた。この52日間は、再度 四国遍路をやり直しているという感覚で新鮮であった。又、文章にするという事で、うろ覚えの記憶や知識は調べなおした。これによって、自分の中の遍路体験が十分に整理されたようである。願わくば、遍路出発前にこの程度の整理が出来ていれば、より楽しい遍路であったのだろうと思う。

★投稿の後半には、書くスピードも上がり、字数も増えてきた。人様に読んでもらう為というより、自己満足の世界に浸っているようであった。もし、この後書きまで、自己満足の世界にお付き合い頂き、拙文を読んで下さった方がおいででしたら、御礼を申し上げたい。仕事以外でこれだけの量の文章を書いたのは初めてであり、貴重な体験であった。個人的にも良い記念、記録になったと感謝している。

★松谷氏には、途中で何度も励ましの言葉を頂き、なんとか書き終える事ができた。改めて御礼を申し上げて、四国遍路顛末記の筆をおきたい。(09.3.22.)



[管理人から一言]

★大島さん、[四国遍路顛末記]の執筆・連載のゴールイン、おめでとうございます。そして、お疲れさまでした。大島さんからメールで送られてくる数日分の原稿と画像が届くと、パソコントラブルと格闘しながら入力作業を続けた50余日でしたが、人柄が滲み出た平易、率直、自然体の文章とスナップ写真を通して、楽しく同行2人の旅を追体験させてもらいました。

★狙い通り、いや予想以上に早く、連載開始から10日後には「四国遍路顛末記」のキーワードで「Google」など数多くの検索サイトに登載される“ギネスもの”の快挙も実現しました。癒しが求められる時代、四国遍路は年代を越えて多くの人々が関心を持つキーワード。これから大島さんの「四国遍路顛末記」へのアクセスが増え続けて行くのは、間違いありません。

お遍路が一列に行く虹の中  風天

句の作者、風天はフーテンの寅こと故渥美清氏の俳号。私の大好きな一句です。いつもこの句を思い描きながら、大島遍路の入力作業を続けさせていただきました。

★会員の皆さま、ぜひご通覧下さい。  (松谷)

♪BGM:[田舎道]composed & arranged by Ripple♪


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