いなほ随想

特集

四国遍路顛末記

大島二典(44理工)


第1集
(連載第1回)

[序文]
 

★今回、小平稲門会のホームページの管理人(編集責任者)松谷氏から「四国遍路の旅の経験談を『いなほ随想』へ載せては、いかがですか」とのお勧めを頂きました。

★人様に読んでいただけるような文章を書くことには慣れていませんが、 遍路体験をまとめていなかったので、丁度良い機会と思い挑戦することにしました。 内容的には随想には程遠く、個人的なメモ、日記程度ですので、軽く読み流していただければ幸いです。

動機編

★退職直後から、高校時代にやっていた登山を復活して2年間ほど盛んに山登りに精をだしました。最初は体力的にかなり苦戦をしましたが、木曾御嶽、八ヶ岳、などの登頂を行い まだまだいけると、体力的自信も深めてきました。

★しかし、人間一寸先は分からないものですね。一昨年(2007年)の夏、西穂高岳登山中に悪天候に見舞われ、西穂高岳から独標に向かう急斜面の俗にいう“馬の背”尾根で、強い風雨に遭遇し、足を滑らせました。

★運よく灌木につかまり事なきを得たのですが、本当に間一髪の危険な体験でした。 若いつもりで実力以上の登山をやってはいけないとわが身を深く戒めた次第です。 そんな事で、自分もそろそろ精神的なものも求めなくてはいけない時期なのか、と漠然と思うようになりました。

雨の西穂高岳山頂で泣きそうな顔で映っている小生

[準備編]

★そんな折、たまたま公民館で「遍路講座」が開催されることを知り受講しました。 詳細は省略しますが、準備状況と合わせ概略を綴らせていただきます。

(1)遍路の移動手段としては、バス、車、自転車、歩きなどがある。
   年間30万人ほどの人が遍路をしているそうだが、その大半がバスの団体遍路である。
    
歩き遍路は1〜2%程度の人で極めて少ない。
   また
、遍路道の全行程は1200Kmあり、歩き遍路で50日前後、バスで2週間程度かかる。

(2)遍路(巡礼)については、世界中に似たようなものがある。
   
例えば、・キリスト教の聖地巡礼・イスラム教のメッカ巡礼。
    日本でも四国の他に西国、坂東、秩父などの霊場に加え、琴平、伊勢、熊野などの神社巡りも盛んである。
   
但し、遍路コースがループ状になっていて出発点に戻っているのは四国だけという。

(3)講師自身の遍路への動機であるが、あまり確たるものは無かったとのこと。
    
会社時代は仕事一筋であったが、退職後さらに働くのは嫌だ。
    退職前後に同僚と話していて、退職後何をするのだ?の質問を受けて「遍路でもやるさ」と言ったのがきっかけで   遂に実行まできてしまった由。
   
   実際には、ハイキングがてら、楽しみながらまわるという程度の 気軽な気持ちであったという。
   小生も、もともと無神論者であり、この程度の動機付けで良いのかという点で 大いに共感し、勇気づけられたも    のである。
   
★友人にも遍路の実行に際し、その大義を見つけ出そうと労力を費やされている方がおられるが、ぜひ体力のあるうちに、軽い気持ちで挑戦されることをお勧めしたい。
(続く)


(連載第2回)

★四国の札所には、真言宗でなくとも、必ず大師堂がある。これと本堂の2ヶ所で 礼拝を正式作法でやると、ゆうに30分はかかる。初心者には略式礼拝が紹介されており、小生は文句なしにこれを採用した。略式礼拝の作法でも20分ぐらいは必要であった。


[略式礼拝作法]

1.山門で一礼。
2.手水場で手、口をきよめる。
3.鐘を撞く。

4.本堂;@灯明を上げる。A線香を上げる。 B納め札を納める(鰐口を1回ならしてから) Cお賽銭を上げる(10円、近くから静かに落とす)
  Dお経を読む;・開経偈;1回・般若心経;1回・御本尊真  言;3回・回向文;1回
5.大師堂;@〜C は繰り返し
D お経を読む;・般若心経;1回、・光明真言;1回・御宝号;3
6.納経所で納経帳に朱印をいただく。
7.山門で一礼


尚、お賽銭は、賽銭箱に投げいれた時に音を出して仏様にこれからお参りするこを気付かせるためのもので、必ず硬貨ですることとの事。

★納め札は、巡礼で使う名刺のようなもので、巡礼の回数によって色が違う。写真を添付しますが、小生の場合は白、遍路中に頂いた金色のものは50回以上の人で実際には既に59回の遍路をやっていました。

納め札

★100回を超えると錦札となる。錦札は非常に有りがたいもので、これ自体がお守りになるとか言われています。(おさめ札の色には白、緑、赤、銀、金、錦がある)

★納経はお参りをした証拠であるが、一回300円必要。信心と言いながらかなりの営利主義である。 写真は1番霊山寺と最後の88番大窪寺のものです。

1番札所 霊山寺の納経 88番札所 大窪寺の納経

装備について

★登山装備とあまり違わないが、以下の2点については大いに悩んだ。1点目は総重量;5Kg以下にするべきとの教えに対して、どうしても7Kg位になってしまう。 最後は傘をやめたり、着替え枚数を減らしたりしたが、やはり6Kg程度になってしまった。

★実際にはこれに、現地調達する納経帳とか白衣、輪袈裟とかあり更に重くなる。 遍路の道すがら、特に女性の方が10Kgを超える装備で来て重さに耐えかねて 送り返すという話に何回か出会った。

★短期間の登山などと違い、長期の為、荷物の重量が足だけでなく上半身も含めて じわじわと効いてくる。自分の体験からも装備の重量は極限まで減らす必要がある。

★2点目は靴の選択である。 靴の要件としては、軽量、防水、クッション性、足首の保護(ハイカットシューズ)などであるが、講師からは、特に重量は片足500g以下とのお勧めであった。

★小生が愛用している、登山用キャラバンシューズは800gぐらいである。これでグリーンロードなどを試しに歩いてみたが、重さもさることながら、 平地を歩くのは山歩きのように一歩一歩踏みしめて歩くのと違い、より足の蹴りを使う。

★すなわち足の指の所で靴が簡単に曲がらないと歩きにくい事に気がついた。キャラバンシューズは靴底が厚く、硬く曲がりにくい。以上より結局 ハイカットのトレッキングシューズで片足400g程度のものを選んだ。
結果的にはこの靴の選択もあまり正解ではなかったのだが、 何が起こったかは実行編でお話ししたい。


[身支度について]

★最後に身支度であるが、最低でも・白衣・菅笠・金剛杖・輪袈裟は揃えるべきである、との指導にしたがった。(写真添付参照下さい。又、実行編の添付写真の我が雄姿も合わせてご覧ください)

遍路装束一式

★これは、遍路の途中で必ず、道に迷ったりとか困ったことが起こる。四国の人々は巡礼者にはとても親切で、困っていると見れば、遠くから駆け寄って来て助けてくれる。最低の身支度は、誰からもひと目で巡礼者だと分かるためである。遍路旅の途中、四国の方々の親切は身に沁みて感じた。

★この他にも、手作り賽銭袋、お茶、ジュース、みかん、飴、団子等のご接待を受けたり、遍路者同士の交流にもこの装束が大変に役立ったようである。



[体力づくり]

★最低でも3か月程度の予備トレーニングをすることを勧められたが、体力的には自信があったので、通常のスポーツジム通い、新靴の足慣らしなど以外には格別な事はしなかった。結果的にはこれにも反省が付きまとった。


[実行計画]

★歩き遍路を目指すと言いながら、初めての体験であるので、全く想像がつかない。結局NHKテレビで紹介された初心者向けのものを参考 にした。これは約1か月で四国全体を回るもので、特に土佐の海岸沿いの長い国道などはバスを併用するものである。(続く)
(連載第3回)

[実行編]


◆平成20年3月31日〜4月1日

★徳島県(阿波:発心の道場:道徳や戒律に目覚め、悟りに向かって進みはじめる事。)


21:30新宿発の高速バスに勇躍乗り込んだ。いよいよ四国88か所を巡る遍路の旅の出発だ。ところが出発直後に乗客1人が乗り損ねていることが分かった。別のバスに便乗して追いかけてもらい。最初のサービスエリアで合流することになった。出だしから何か波乱含みの様相だ。


[霊山寺〜極楽寺〜金泉寺〜大日寺〜地蔵寺〜安楽寺]

★翌朝(4月1日)6:00徳島駅前に到着。遍路の起点である高徳線板東駅をめざす。1番札所の竺和山霊山寺は、天竺の霊山を和国(日本)に移すということから名付けられたもの。1番ということもあり、遍路者の中でも有名な札所のひとつ。


★お寺の前は、早朝にも関わらず遍路用品を山のように並べた売店がすでに開店しており、早速、最低限の装備品の白衣、菅笠、輪袈裟、金剛杖、納経帳などを揃えた。


★納経帳を開けてびっくりした。すでに霊山寺の納経が済まされており、販売価格に納経料300円が上乗せしてあるではないか。思わぬ商業主義に違和感を覚える。近年、遍路もスタンプラリーの様相を呈し、車で来てお祈りもそこそこに納経だけして行く人がいて、嘆かわしいという話を出発前に聞いていたが、お寺の側も大いに反省すべきではないかと感じた。何はともあれ、見よう見まねで参拝を済まして歩き始める。

★2番札所の極楽寺の前で写真を撮ろうとしたら、小型の三脚に付けたカメラが風に煽られて倒れ、壊れてしまった。カメラ再調達までの数日は、記念の写真が撮れない事態に陥った。これもかなり不運なスタートであった。

★しばらく歩くと、3番札所、金泉寺のあたりと記憶しているが、民家から1人の婦人が駆け寄ってきた。何事かと思って戸惑っていると、缶入りのお茶と賽銭袋を持ってきて、「お接待です」と言われる。初めてでどぎまぎしたが、お接待は受けるように教わっていたので、ありがたく頂いた。丁重にお礼を申し上げて納め札をお渡ししようとしたら、「どうぞ仏様に差し上げて下さい」と丁重に断られた。

★初日から色々なことがあったが、ともかく本日の宿である安楽寺とその宿坊を目指した。安楽寺は、天然温泉を備えた宿坊が有名で、昔の駅路寺である。宿に着いたら、まず遍路旅のお約束である洗濯、入浴を済まし、食事となった。

★食事に行って、またまた驚きの諸体験。個人遍路客は、10人程度で1部屋にまとめられ、100人を超えようという団体客の数の多さに圧倒された。

★食事前の作法として、坊さんのリードで次の言葉を全員で合唱する。「一滴の水にも天地の恵みがこもり、一粒の米にも万人の苦労がかけられています」を最初に、さらに5つの言葉を唱えた後、ありがたく食事をいただくことと相成った。もちろん、食後の作法もあり、「今ありがたき食を受く、心身をいたずらに浪費することなく世のため、人のため活動せん。ご馳走さま」と唱える。

★60年を超える人生でこのように唱えたことは、あっただろうか。小学校のとき、道徳か何かの授業で先生が言っていたかな?ともかく子供に戻って教えを受けているような感覚だった。ともあれ、食事そのものは値段の割(1泊2食付き6,500円)に味、品数、量ともに満足のいくものだった。

★本日の歩行距離は20km弱か。ともかく初日を大事なく終えることができた。明日に備えて早く寝ることにする。(続く)


(連載第4回)

◆平成20年4月2日


[十楽寺〜熊谷寺〜法輪寺〜切幡寺〜藤井寺]

★いよいよ遍路2日目となる。今日の予定は6番安楽寺を出発し、11番藤井寺までの約21Kmの行程である。実際に一日中歩くわけだから、30Kmぐらいは歩けると思うのだが、遍路講座の教えで、最初の4〜5日ぐらいは押さえ気味に行くべき。本当に疲れたと思ったら、一日休むぐらいの気持ちのゆとりを持つのが良いとの事だった。


★ところで、昨日頂いた賽銭袋を早速つかってみた。写真を参照願いたいが、小生が普段使っている小銭入れに比べて、2〜3倍の大きさがある。小銭入れとしては、異常に大きい。

大きな賽銭袋(左は普段使っている小銭入れ)

★しかし、賽銭用の10円玉はいつも20枚ぐらいは準備しておくとのすすめだったので、この袋の大きさが何とも使い勝手が良い。この後、この袋は全部の硬貨入れとなり、常時30〜40枚の硬貨が入っていくことになる。やはり遍路の事を良く知っている人達が手作りで準備してくれているのだと感謝。

★8番熊谷寺では、四国随一の規模を誇る雄大な仁王門(13.2m)を通り、本堂を打つ。(ちなみに四国遍路では、お参りすることを「打つ」というそうです)

★10番切幡寺は大師と機織り娘の伝説があり、この故事にちなんで切幡寺の名前がついたとの事。又、これまでの10のお寺の中では一番高地で標高が150mある。333段の急階段が結構きつい。今まで、ほとんど平坦な道であったので、この旅、初めてのアップダウン経験だ。

★添付の写真は使い捨てカメラを買って撮ったもので、切幡寺の333階段の上部にある女やくよけ坂(勿論、男やくよけ坂もあります)でこの階段を登ると厄除けになるとのこと。

女厄除け坂

★10番を打ち終わり、11番藤井寺に向かう。この間は約10kmあり長丁場だ。途中で、日本の三大暴れ川として有名な四国三郎(吉野川)を渡る。吉野川は四国随一の河川でさすがに雄大なものだ。

★歩き遍路地図に導かれて行くと、そこは大きな車道用の橋ではなく、台風などの増水時には水の中に潜ってしまう潜水橋であった。水や流木の抵抗を少なくすために、橋の欄干、手すり等は無く、幅も車1台が通れる程度であり途中で車とすれ違うのはちょっとした恐怖感を覚える。添付の写真は、その潜水橋の途中で撮ったものだが、幅が狭く、車も来たりするので、良いアングルでは撮れず実感としてはお分かり頂けないかも知れない。

欄干のない潜水橋

★今日の最終11番藤井寺の前で、和歌山から来たという方が、梅干しを配っていた。これも、お接待のひとつかと思い有りがたく頂いた。なんとも豪勢にポリパック一袋で梅干しが20粒ぐらいは入っていそうだ。

★今日は藤井寺の門前の宿に団体が入ったとかで泊まれず、500m程遍路コースから逆行する個人経営の遍路宿に泊まることとなり、大阪から来た方と相部屋となる。遍路途中で会った多くの人が、宿を取れずに2Kmほどコースを逆行する鴨島町の宿まで戻って行った。いくら歩き遍路と言っても、一度来た道を逆行するのは精神的に耐えがたいものがあるのではないかと同情する。

★さて、旅館について、昨日壊したカメラである。出発して2日目にもう家に電話するはめになるとは・・・。取扱説明書を読んでもらいいくつかの対応を試みたがNG。ニコンのサービス部門にも電話を掛けてみたが、どうも駄目らしい。しかたない諦めるか。

★デジカメのお手軽さに慣れきった小生にとって、フィルムカメラで撮り続ける気はしない。旅館の人と相談してみるが、近くにカメラ屋はないとのことで、どこかで町に戻ったらとのお勧め。添付写真の概念地図をご覧いただきたいが、この辺はかなり内陸に入ってしまっている。しかも明日は遍路一番の難所と言われる焼山寺で更に山中に踏み入るわけである。どこで戻れるか地図と首っ引きで調べる。どうも 17番井戸寺の後、徳島に戻るのが良さそうとの結論に達した。ということで一段落。

★さて、食事も終わり、相部屋の方と話していると、足に豆ができたそうだ。遍路旅初期の大敵がこの豆であり、ひどい場合はこれで遍路を中断する人もいるとのこと。これも講師からもさんざん聞かされていたが、2日目で既に困っている方に出会った。豆用のテーピングテープなど豆対策グッズをいかがかですかとすすめたら、きちっと持たれており、針で水を抜き消毒してテープを貼り対策をされていた。

★小生も心配になりじっと足を見ると、指の近くの足裏の皮がなにやらポヤポヤと薄く剥け始めている。又、指の側面が柔らかくふやけている感じでたよりない。幸い豆にはなっていないので、明日はテーピングをして出発しよう。全くの余談だが、豆ができた時は、その皮は決して剥がさず大事にして、丁寧に水を抜いて、消毒をしてテープでとめる事だそうだ。夏のオリンピックで快投したソフトボールの上野投手が同じようなことを言っていたな。


(連載第5回)

◆平成20年4月3日


[焼山寺]

★今日は、いよいよ四国遍路一番の難所と言われる12番焼山寺である。
添付写真の高低差略図をみていただきたい(見えないかも知れませんが)。標高40mからスタートして750mまで登り、いちど400mまで下り、又、720mまで登り、それから平地まで戻る。小さなアップダウンを加えると総標高差は1100mを超える。結構本格的な登山である。


★下りの傾斜もきつく、疲れた遍路者が足を滑らせ谷に落下することがあることより「遍路ころがし」と呼ばれている。色々きついとの評判を聞いていたので、遍路開始から昨日までは好きなお酒も控えて万全のスタートである。

★朝7時にスタート。昨日打った藤井寺の横を抜け本格的な山道に入る。しばらく行くと昨日相部屋だった方に追いつく。遍路は断じて速さを競うものではない。しかし、まだこの時点では、悟りが開けていないというか、良し追いついたぞ的気分が充ち溢れていた。途中、一本杉(標高750m最高地点)でおにぎりを頬張る。先に来ていたご夫婦のカップルから漬物を頂く。

★かなり頑張って歩いてきたので、休憩を取ろうと思ったが、4月初旬の標高750mは寒い、汗をかいた身体は5分もしたら寒くて歩かざるを得ない。

★歩き出すと、どんどん下る。3時間ほど必死で上って来たのを、何故こんなに下らなくてはいけないのだ??とか悟りとは全く別次元の思いで歩き、最後の上りを登って何とか焼山寺に到着。礼拝などを済ませると出発から6時間が経過していた。小生などはまだまだ元気な方であろうが、それでも、きつさを見込んで、今日の宿は焼山寺の宿坊にしようとしていた。

★しかし、この宿坊は数年前に閉鎖されたとのこと。近い宿でも、更に1時間半ほど歩かなくてはいけない。結局、野宿でもしない限りこのコースは不可避である。スタートから4,5日は負荷をかけ過ぎない事の教えも3日目頃には必ずこの難所に遭遇するわけで、教えが虚しい。


★何はともあれ、本日の宿「なべいわ荘」に到着。ここは住友産業の保養所で遍路コース全体の中でもきれいな宿である。管直人氏が遍路をやってここに泊まったとのこと。色紙なども残されており四国では有名な話らしい。

★ところで、12番の宿坊閉鎖もあり近くに宿がないということで、本日も多くの方が次の宿を求めて更に歩行距離を延ばしていった。このような状況でもこの宿は基本的に相部屋をしないとのことで小生は12畳ほどの部屋に一人でゆうゆうと泊まった。遍路をやる方は最低この地点までの宿の予約は出発前にしておいた方が無難だ。

★心配していた足の豆も平気だったし、ここが終わればもう途中での挫折はないだろう。夕食では、昨日まで自戒していたお酒を美味しく頂いた。(実はこれが甘い判断だったのだが)

(連載第6回)

◆平成20年4月4日


大日寺〜常楽寺〜国分寺〜観音寺〜井戸寺

★今日は、カメラ調達のために17番井戸寺から徳島市泊ということにした。トタール25Km程度の行程であるが、歩き始めて「オヤ」と思った。昨日まで絶好調と思っていたが、何やら左足のふくらはぎのあたりがピクピクする。力を入れ過ぎるとつるような感じがする。様子を見ながら歩くが、余り改善されない。

途中の休憩時に、かねて用意の湿布薬とサポーター代わりのゴム入り包帯でふくらはぎを固める。ともかく左足にあまり力を入れない事。今日は昨日ほどの厳しい上りもないので何とかなるだろうと祈り?ながら歩く。憂鬱な気分だ。

そんな事で、今日のお寺はあまり良く覚えていない。最後の17番 井戸寺の名前は、その地域の水が悪いのを憂いて、大師が錫杖で地を突き清水が出てきたことに由来することで有名であるというようなことが手帳に書いてある。

17番を打ち終わり、JR徳島線 府中(こう)駅から徳島市へ向かう。駅に着き、カメラ屋の場所を聞いた。知っている人がいない。何人かに聞き、駅ビルの地下にカメラのキタムラがあると教わり、行って驚いた。天下の徳島駅だ。東京のヨドバシカメラとかビックカメラとか大店舗を想像していたら、本当にカワイイ店だった。

ともかく、カメラを入手すべく、店員さんと話していたら、CANONのIXY 20IS これが新製品で手ぶれ補正機能とか、人の顔を認知しての追跡機能だとかありいいと勧められる。機種数もあまりないし、思考能力もあまりなく、即これに決めた。ついでに、カメラの初期設定と電池の充電を頼み、待ち時間で壊れたカメラなどの不要物を自宅へ送り返すこととした。添付写真:小生の試し撮りがこの旅の実質的第1号写真である。


★宿に入りホテルの食堂で食事を取った。久し振りに都会の香りである。徳島の地酒を十分楽しんだ。遍路中にこんな事を頼んで良いのかと一瞬頭をよぎったが、マッサージを頼んだ。残念ながらマーッサージ師はいないが、ホテルの2階だか3階に機械式マッサージ機があるとの事。

★早速行ってみる。家庭で使っているマッサージチェアーに比べると、完全に横たわってやるもので大がかりである。よく見ると、ふくらはぎあたりにもマッサージができそうである。一回300円程度だったと記憶しているが、マッサージ師を頼むよりうんと安い。これは良いと一時間半ほどたっぷりやってもらった。

★さてさて長い一日だったが今日も無事に終わった。


(連載第7回)

◆平成20年4月5日

[徳島駅〜恩山寺〜立江寺]

★本日は、18番恩山寺を目指す。実際には17番井戸寺に戻ってそこから歩き出すべきだろうが、徳島市に戻った遅れを取り戻すべく直接18番に向かう事とした。(だいたい、この遅れを取り戻すという考えが、全く歩き遍路にはそぐわないのだが・・・)

★恩山寺に向かうべく、徳島駅前で小松島市営バスを待っていると、遍路姿の女性2人と会った。山口から来て、徳島の区切り打ちをしているとの事だ。一人の方が足の踵を痛めたそうだ。歩き遍路をしている方々は、バスに乗ったりすることに何やら後ろめたさを感じるのか、さかんに足を痛めてバスに乗るのだという事を説明していた。

18番札所 恩山寺本堂

★遍路はやりたいようにやればいいし、小生もふくらはぎがやや痛い事や、カメラを壊して回り道をしているのでバスを使っていること等を言って、さかんに慰めた。この女性達とは恩山寺で別れ、次の19番立江寺へ向かった。歩きだして間もなく、バスに抜かれたが、良く見ると、先ほどの女性軍が車中より、軽やかに手を振っているではないか。励まされているのだろうが、車の速さには嫉妬を覚える。

★立江寺への途中、道路際の見事な満開の桜に出会う(下の写真参照)。出発前は準備に追われ、東京では桜を見られなかった。四国の桜はもう終わっていると思っていたので、これはラッキー。よく考えたら、この日は 小平稲門会の花見の日だ。遍路に行くと言って花見の誘いを振り切って来たのだが、同じ日に見事な桜を見られたのも何かの因縁だろうか。



[立江寺周辺で]

★19番立江寺は、お京の黒髪や立江のお地蔵さんなどが有名である。参拝を済ませて一休みしていると、高齢のご婦人が寄って来て、「お接待です」と言い、みかんと賽銭袋をくれようとする。前に頂いた賽銭袋を見せて、もう頂いていますので結構ですと固辞したが、私は用があってもう家に帰らなければならないが、これを誰かが貰ってくれないと帰れないと、押しつけられた。結局、有りがたく頂戴することとなった。

19番札所 立江寺本堂

★参道の信号で次の宿のある鶴林寺下の生名(いくな)への道筋を地図で調べていると、年配の遍路者が声を掛けてきて、「腹が減っては歩けないよ」と言いながら門前で売っていた名物の大福を差し出してきた。有りがたく頂きながら、しばらくご一緒した。足回りを見ると軽登山靴をはかれていた。重いとか、靴底が固いとかありませんか?との質問に、「僕はそんなに速く歩かない。一歩一歩、足を前に投げだすようにしてゆっくりと歩き、無理をせずに行けるとこまでで泊まるようにしているから平気だ。」と言われた。一つの見識であると思う。

★歩くスピードが違うので、お互いに気を使う。10分ほどご一緒して、お礼を言って先に行かせてもらうことした。

★立江寺から生名までは アップダウンのあまり無い道を約10Kmだらだらと歩く。昼飯時だが、食堂がなかなか見つからない。しばらく歩くと、新規開店した小さなうどん屋があり飛び込んだ。

食事をしながら店の人と近所のお客とおぼしき人と話す。東京から来たのをえらく珍しがられた事。うどんの他にどら焼きがついている。いぶかしく思っていると「お接待」とのこと。今日は色々と頂き物をする日だ。又、ノートを出してきて記帳を頼まれる。そして、プロ卓球選手「四元奈生美」が3月の下旬から四国の遍路をしているとの話。

★昨日 4月4日に立江寺に行ったようだ。今、この辺はその話題で持ち切りだとのこと。これは帰京後に調べたことだが、NHKの「街道てくてく旅四国遍路〜88か所を行く〜」と題し、四元奈生美が、地元の人と卓球などの交流をしながら、春に徳島県、高知県を, 秋に愛媛県と香川県の札所を回るという企画だった。テレビでも度々 放送したのでご存じの方も多いと思う。この後 この手の話を何回も聞くこととなる。

[生名(宿)周辺で]

★朝一番でバスを利用したので、今日は予定より大幅に早く、宿には 13:40に到着。ところが、15:00までは受け付けない。玄関も開いていない。荷物も預けられない。人を配置していないのだ。こんな所まで人手不足か。次の鶴林寺の宿坊まで行こうかと考えなおし、電話をしてみる。ところが、ここも何年か前より宿坊を閉鎖しているとの事。

★遍路地図は2007年2月の改訂版なのだが、既に閉鎖された焼山寺&鶴林寺の両宿坊が未だに登録されている。遍路ではこの地図情報が命なのだから、しっかり改訂をやって貰いたいものだ。

★諦めて宿の前で休息を取っていると、20歳台とおぼしき遍路者が休憩がてら横に座って話しかけてきた。話を聞くと高松より来ているとの事。まだ宿が開くまで1時間半あるけど、鶴林寺の宿坊はやっていないよねとの話をしたら、自分は野宿でやっているので、今から鶴林寺への山道を登って行けるところまでいって、お寺のお堂あたりで野宿させてもらうつもりだとのこと。寝袋を含めて20Kg強の荷を背負っている。高校時代の山岳部並みである。若さの強さとある意味での無謀さが羨ましくもある。

★宿もやっと開いてチェックインする。夕食後は散歩がてら、地元勝浦町の桜祭りを見に行った。写真にあるように、提灯の灯りだけを頼りに勝浦川沿いの夜桜を鑑賞するものだ。こじんまりとしたお祭りだが、地元の人たちであろう、かなりの人出があった。

★今日の歩行距離は約15kmと短かった。ゆっくりとした故であろうが、今日は、色々な人に出会った。それぞれの出会いは短く取るに足りないものだが、知らない土地を一人で歩いていると非常に印象に残る。こんなことが遍路の楽しみの一つなのかも知れない。尚、心配していた、ふくらはぎは湿布&サポーター or 昨日のマッサージ or 今日の歩行距離が少なかったせいか、かなりの改善をみた。

★明日は朝食を取らずに5:30の早立の予定である。長い一日であったが、寝ることとしよう。


(連載第8回)

◆平成20年4月6日

[鶴林寺へ]

★今日は阿波の第二の難所と言われている20番鶴林寺から21番太龍寺を打つ。ここは初めに500m上り20番に到着後、平地に戻り、又、21番へ520m上るという厳しい場所。できれば、今日は更に22番平等寺を目指そう。

★ということで、今朝は旅館に朝、昼2食分のおにぎりを準備してもらい、朝の薄明かりが射すのを待ち、5:40の出発となった。朝、支度の途中でおにぎりが2人分出ているのを見たが、それがもう無くなっている。小生より早立ちした人がいるようだ。30分程、薄暗い中、急坂を必死に上っていると、先に出発した人に追いついた。昨晩は気がつかなかったが、11番藤井寺の宿で一緒だった方だ。



★鹿児島から来られて、徳島一県で帰られるそうだ。鶴林寺までご一緒した。記念に山門前でお互いの写真の撮り合いをした。ちなみに、一人で歩き遍路をしていると自分の写真を撮るチャンスはあまり無い。又、団体客とは違い、一人歩き遍路者に写真を撮って下さいと頼むのは憚られる雰囲気がある。と言うことで、帰京後、小生の写っている写真を数えて見たら、合計12枚のみで、貴重な1枚である。

20番札所 鶴林寺の石段 鶴林寺山門前で


★納経所が開く。7:00までに礼拝を済ませ、宿で準備してくれたおにぎりを食べる。朝一番の納経でお坊さんも暇とみえて話しかけてきた。平等寺まで行けますか?と尋ねると、まだ7時だから行けるだろうとの事。頑張ってみるか。

★20番からの下り道は、石段が凸凹に荒れていて歩きにくい(写真参照)。せっかく登ったものを、一気に標高500mから40mへ下る。この後、又、520mまで登らなければならないのだから、恨めしい話だ。ともかく、下りきった那賀川の支流沿いにある休憩所で、次の上りに備えて、靴下も脱ぎ、足を投げ出し、15分ほどの休憩をとった。清流には、名前は良く知らないが、小魚が一杯泳いでいた。

[太龍寺〜平等寺へ]

★10時半ごろに太龍寺に到着。ここは、西の高野山といわれ、若き大師の修行場として有名である。高所で修業していた事より、空海の空の字もここでの修行にちなんでつけられたと聞いた。

21番札所 太龍寺山門 太龍寺本堂

★高い所にあるのが売り物のせいか、山門にたどり着いてからも本堂までは、まだまだ階段を上る(写真参照)。とても綺麗で壮大なお寺だ。今回の遍路の中では印象に残るお寺の一つである。納経所横の満開の木蓮がとても綺麗だった。

★納経も終わり、休憩がてら本日の宿を確保すべく、平等寺前の遍路宿に電話する。満員ですと体よく断られる。これは困った。遍路地図によると、この辺に宿は無い。しばらく地図を眺める。JR牟岐線の「あらたの駅」が平等寺から1.5Kmほどの所にある。しょうがない あらたの駅から日和佐駅までJRで行くとするか。

★日和佐には遍路宿が沢山あり、ここはすぐに取れた。
ここまでは、まだ 元気だったのだが、最後の平等寺を加えたことは、ちょっと荷が重すぎたようである。もうアップダウンはないと決めていたのだが、標高200mほどの大根峠というのがあり、疲れた体には、これが意外と厳しい。ここまで来るのは焼山寺よりずっときつい。

★平等寺に着いたときは、もうフラフラであった。納経をすませ、しばらくへたり込んでいた。考えていても仕方が無い。駅までの1.5kmが本当にしんどい。こんなに疲れたのは、今回の遍路で初めてである。JRで日和佐まで行き倒れこむように宿に着いた。

22番札所 平等寺山門前で 平等寺本堂

★今日の宿は、古い遍路宿のようだ。泊り客は小生一人だった。急な依頼にもかかわらず、盛りだくさんの料理を準備してくれたり、洗濯物をしてくれたり、とても親切な宿であった。

(連載第9回)

◆平成20年4月7日


[薬王寺]

★一晩寝て疲れも癒えて、今朝は朝一番で、23番薬王寺を打つ。薬王寺への途中、満開の桜の中に浮かぶ日和佐城に出会う。又、薬王寺も高台にあるためこれも桜の花に浮かんでいるようで大変に風情のあるものだった。


★この寺の山号は医王山といい、医の王、薬の王と言う事らしく、四国一の厄除け寺として有名である。添付写真のように女厄坂、男厄坂、還暦の厄坂が、又、海に近い寺で、魚籠を持った姿の魚藍観音像などがある。


★薬王寺を打ち終えて、日和佐駅で、土佐に向けて出発すべく、電車を待っていると、18番でお会いした踵を痛めた女性が下車してきた。具合を尋ねると大分良いとのことだが、ここまで来るのに随分と苦労された様子。いずれにしても薬王寺を打って即帰宅の途につかれるとの事。ご苦労さまでした。

いずれにしても、これで「阿波 発心の23の霊場」をめでたく打ち終えたわけである。


[阿波のまとめ]

★土佐に入る前に、阿波の全行程を振り返ってみる。阿波(徳島県)には、23の札所があり、1番から23番までの総距離が約150kmである。尚、徳島については歩き遍路を前提としていたが、結果的には 17番〜18番 と22番〜23番の間をバス、電車でスキップしたので歩行距離は37kmほど少ない。

★これを実質7日間弱で回ったわけであるが、全部歩くとすると、8〜9日間ぐらいの計画が無理のないところか。また、一つのお寺から次のお寺への平均距離は7km弱である。四国全体で見ると平均距離は13km程度あるので、阿波は短い距離の中に札所が詰まっているといえる。これまでにお会いした人は、ここ徳島だけで遍路をやめて帰られる人が多かった。 

★焼山寺などの難所があるので決して油断はできないが、阿波の一国巡りは遍路初心者向けと言えそうだ。又、ふくらはぎの痛みなど筋肉痛もおさまり、足の豆もできなかった。ここまで来るとこの辺の事情も安定してくるようだ。

[実行編:高知県]


◆平成20年4月7日

★高知県(土佐;修行の道場;心と体を使って悟りに向けて苦闘すること。)


★土佐全体は約410km(23番〜39番)の長い距離の間に16の札所しかない。平均距離で25km程度ある。徳島の3倍強の距離である。四国遍路には、一つの札所から次の札所へ行くのに、2泊3日かかる所が3か所。又、1泊2日かかる所が7か所(含まず 88⇒1番)ある。その内4か所が高知にある。(ちなみに徳島には1か所も無い。)

★高知県以降では、このように札所間の長い所はバス、電車を使うという、歩きと公共交通機関併用型の遍路計画である。


[日和佐〜室戸岬]

★いよいよ、日和佐から室戸岬までJR牟岐線、阿佐海岸鉄道、高知東部交通バスを乗り継いで、土佐への75km、約2時間の旅をする。バスは11時前に室戸岬に到着。まず岬にある「中岡新太郎像」へ参る。この後の食堂で聞いた話だが、室戸岬と足摺岬は向き合っており、足摺岬には「ジョン万次郎像」がありお互いに対面しているとの事。ついでに、この間にある桂浜には「坂本竜馬像」があり二人の中を取り持っているとの事であった。


[最御崎寺〜津照寺]

★土佐の最初の札所 24番最御崎寺(ほつみさきじ)を打つ。ここは重文(国宝?)である如意輪観音半跏像がある。又、近くに番外霊場の御蔵洞(みくろど)があり、大師がここでの修行中に空海の海を思いついたと言うことで有名である。

★納経を済ませた頃には、心配していた雨が本降りになってきた。雨支度を万全にして裏参道側に抜ける。お寺は標高165mのところにあるが、海岸線まで、つづら折りの車道を歩く。大量の雨水が車道を直角に横切って流れる。どうにも水を避けようがない。靴が水に完全に潜ってしまう。

★たった30分ほどの歩行だったが、靴の中までぐっしょり。風も強く、菅笠が飛ばされそうで、台風並みである。とても歩けたものではない。あたりを見回すと食堂らしきものがある。とりあえずそこに飛び込む。先客が一人いたが、しばらくそこで休ませてもらうと決めて、荷をおろし、靴下も脱ぎ、食事を注文する。魚は店のご主人が自分で小舟を出して捕ってくるそうだ。鯛などの一夜干しが売り物として出ていた。これは新鮮な魚が食べられそうだ。

★ところで天気の方は、テレビでちょうど天気予報をやっている。低気圧が足摺岬を抜け、これから室戸岬に向かうそうだ。ご主人によると後1〜2時間で落ち着くだろうとのこと。覚悟を決めて、先客と話しこむ。土佐の雨は地降りといって、地面に落ちた雨が強風に舞いあげられて下から降るように見える事より、こう呼ばれているそうだ。

★1時間半ほど様子を見ていたが、まだ降りは強い。しかし、今日の宿 金剛頂寺の宿坊へは あと3時間ほど歩かなくてはならない。タイムリミットだな。そろそろ小降りになるだろうと、意を決して外へ出る。まだまだ、とんでもなく風雨が強い。右手に金剛杖、左手で菅笠を押さえて必死の形相で歩く。

★結局、この後 1時間ほどこの風雨にさらされる事になる。付近の小川が濁流と化していた。撮ろうと思ったがそれどころではなかった。25番津照寺付近でやっと雨があがった。添付写真は雨がおさまって静かになってしまった川の様子である。色が濁っているのが豪雨の名残か。

25番札所 津照寺山門 厄除け坂



金剛頂寺

★26番金剛頂寺は海抜165m程度である。高知のお寺はあまり高い所には無いと言いながら、その多くは海抜0mから登るので結構しんどい。お寺への参道の途中で、雨に誘われ沢蟹がそこらじゅうに出てきた。


★靴の中がぐしょぐしょの不快な状況でやっと本堂に到着。礼拝もそこそこに宿坊に向かう。ともかく部屋に案内してもらい、即着替え、洗濯をする。靴を洗い、靴の中敷きを外し、宿で貰った新聞紙を詰め込む。又、ザックの荷をほどいてみた。しっかりとザックカバーをしていたつもりプラス個々の荷物をポリ袋でカバーしていたつもりだが、特にザックの下部がかなり濡れてしまっている。これが土佐の地降りかと改めて認識する。

★線香などが濡れてグニャグニャになってしまった。これもバラシテ新聞紙の上に丁寧に広げた。結局 洗濯物、靴、ザック内の濡れたものを部屋中に広げ、エアコンを目一杯かけた。とりあえず出来る事をやって入浴をすませ、食事を待つ。

★食堂へ行ってみて驚く。前回の宿坊と異なり、大型の洋式レストラン風のテーブルである。この中に、団体客と個人客がある程度の区分で混在している。お寺の説明だと、この食材も地元の方々のお接待で調達しているものがあるとの事。(5800円 1泊2食)

★豊富な食材を楽しむ。尚、ここでは、前回の宿坊のように、全員で、食前にお祈りをするということは無く、個々の人が今までに教わってきた各人の流儀でお祈りしていた。


★お寺の宿坊に泊まると、食事の後、夜のお勤めがある。団体客も多く、全部で100人を超える人出だ。このお勤めは、団体客の方々には、如何にも遍路をしているという意識が持てるので良いものだと思う。歩き遍路をして疲れている時などはちょっと億劫である。

★いずれにしても、お坊さんの話は結構面白いし、経本なども準備されていて全くストレスは無い。お話のなかで、四国88か所の中で、どのご本尊が一番多いかとの質問があった。これは簡単だ「薬師如来で23か所ある。ここ26番もご本尊は薬師如来である。」よく知っているとのお褒めのお言葉。


★種を明かせば、添付写真のご本尊真言とその該当札所番号をまとめてラミシートにしていつもウエストポーチに入れてある。これは礼拝するときに必ずご本尊真言を唱えるわけだからと出発前に整理してあったものだ。(ちなみに、四国88か所には16のご本尊があり、それぞれのお寺が、そのどれかのご本尊を祭っている。)

★お勤めが終わり部屋に帰ってみると、エアコンの効果抜群で、靴も含めて、ほとんどのものが乾いている。どうやら明日は無事に出発できそうだ。今日は 15km程度の歩行距離であったが、疲れきった。そうそうに寝ることにする。
(連載第10回)

◆平成20年4月8日


[神峯寺〜大日寺〜国分寺]

本日(8日)の27番神峯寺は、海岸線の標高0mから450mまでの急峻な坂道をほぼ一直線に登る事より「真っ縦」(まったて)と呼ばれる遍路泣かせの土佐の難所として有名である。たった450mの標高差であるが、一直線に登る為かなりきつい、やっとの思いで参道から山門に近づくと、満開の桜並木が迎えてくれた。


みちびき弘法大師や不動明王を横目に礼拝をすませる。帰り道、下りに入り、道端や山の草木に咲く花に目をやる余裕ができた。高知に入るとさすがに暖かくはなやかである。特に意外だったのは、終わっていると思った桜と、時期的にかなり早いと思われるつつじがともに満開であった。

徳島の山では感じなかったが、ここ高知では花が山頂近くまで迫り、満開の花を咲かせていることだ。(写真参照)これは後で聞いたことだが、四国の桜の開花は今年は遅かった。又、つつじは山つつじと呼ばれ開花時期は今頃だとの事だった。そろそろ昼食と思ったが、あたりは山道でむろん食堂は無い。下りきれば唐浜の駅があるなと狙いを付けて駅を目指す。


駅に着いてビックリ。誰もいない無人駅で、勿論、食堂や売店もない。駅にくれば何とかなるだろうと思ったのはえらい勘違いだ。次の28番大日寺までは電車移動の予定だが、この時間帯は電車も2時間に1本しかない。仕方がない、駅のベンチに座り、かねて準備の非常食のクラッカー、ピーナッツなどを齧る。そういえば、講師から特に長い国道沿いには食堂が無く困ることがよくあったとの話を聞いていたのを思い出した。


時間潰しの間に、反対に行く電車が着いて、女性遍路客3〜4人がガヤガヤと降りて来て何やら賑やかである。そうこうしているうちにタクシーが来て全員それに乗ってどうやら神峯寺を目指したようだ。そういえば、ここも近年は自動車道路が整備され山頂近くまで車で行けるようになったとのことだった。

重文の大日如来座像や大師作と言われる爪彫薬師で有名な、28番大日寺と29番国分寺を打って、宿に向かう。



「旅館にて」

本日の旅館は、最初から食事は準備できませんという条件である。午後3時半頃には到着したが、旅館の玄関は開けっ放しで、誰もいない。おおらかというか、何とも不用心。本日は20km強も歩いてきて、そこそこの疲労感、荷物をおろし、玄関先に座り込んでいると、ほどなく、女将さんらしき人が帰ってきた。買い物をしてきたそうだ。

古い宿で部屋数はかなりあるが、客は小生一人のようである。洗濯、風呂を済ませ、食事処を聞くと、近くに居酒屋があるというので早速行ってみた。久し振りにクジラの刺身を楽しむ。ここらではクジラは結構あるそうだ。近くの旅館に泊まっていると話したら、そこはご主人がなくなり女将さん一人でやっているとのこと。それで食事などの準備もできないだろう。

この旅館の前にもう一軒電話をしていたのだが、そこは電話にも出なかった事を話すと、既に廃業しているとの事だ。特に、高知に入り、歩き遍路客が減った。お寺の宿坊はホル並みの設備を備えて、団体客を大量に受け入れているのに対して、昔ながらの遍路宿の衰退ぶりが非常に目に着く。

そうこうしているうちにお客が一人入ってきた。どうやらお馴染みさんらしい。調理場を挟んだカウンター越しにプロ野球の話になった。小生は親子2代の巨人ファンである。その客も巨人ファンで話しが合った。話が遠いと言って席を小生の横に移してきて、何故、巨人は生え抜きの中軸打者が育たないのか?ピッチャーの補強に失敗しているだとかの話か、次期監督の話になった。

堀内、原(この時期巨人は出だしで躓いていた)とだめだと、生え抜きで後は誰がいるのだ?江川は?ダーティなイメージが強くて駄目だろう。中畑は?監督の器では無いだろ。じゃー誰だ?誰もいないか?。川相なんかが監督としては良かったのではないか?でも中日に追い出してしまったなとかとか・・・全く罪のない話で盛り上がった。

今日は、遍路に出て初めて宿の外で食事をした。新鮮であった。(続く)



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