ニモク散策の会

 (2013年版)
            

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[第17回 散策の会] (飯能「能仁寺・天覧山」を巡る2013.11.9)

★11月9日、会員15名は西武池袋線の飯能駅に集合。秋色が漂いながら曇天の中、提案者である井垣さんを先頭に出発しました。先ずバスに乗車、落ち着いた歴史を感じさせる雰囲気の街を通り、「天覧山下」バス停で下車し散策を開始。広大な飯能中央公園で、全国唯一の銅像である「鉄腕アトムの像」などを楽しみながら能仁寺に向かいました。

鉄腕アトム像を見る アトム像

★「能仁寺」は、広大な境内を持ち、各種の墓地や記念碑等があり、本堂も堂々たるものです。この寺の住職夫人は飯能・日高稲門会の役員で、親切な案内と解説をしてくださいました。ここは曹洞宗の寺で、文亀元年(1501)当地の豪族・中山家勝が、名僧・斧屋文達を招聘して創建したものです。天正元年(1573)には中山家範が本格的な寺とし、その後宝永2年(1705)、館林藩家老の黒田直邦が寺を改築し、伽藍として完成させました。そして、中山家・黒田家の菩提寺となったものです。

★しかし、慶応4年(1868)戊辰戦争の地域戦ともいえる「飯能戦争」の舞台となり、寺は殆ど焼失してしまいました。鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸に戻って恭順しましたが、徳川家臣を中心とした佐幕の有志は「彰義隊」を結成し上野の山に籠もりました。しかし、その頭取であった澁澤成一郎らは、内部対立から上野を去り、「振武隊」として田無に結集しました。ただ、急襲される危険のため箱根ヶ崎(現瑞穂町)に移りましたが、新政府軍の上野総攻撃を聞いて江戸に向かい、途中で新政府軍の勝利を聞いたため引き返して田無に入り、続いて飯能の町に入って能仁寺に陣営を構築しました。しかし、官軍の攻撃で数時間のうちに勝敗が決してしまいました。ただ、澁澤成一郎はなおも密かに江戸に戻り、榎本武揚の艦隊に合流し、函館まで転戦したといわれます。なお、現在の本堂は昭和11年に再建されたものです。

能仁寺本堂 本堂入口 本堂内陣

★続いて「能仁寺裏庭園」です。これは本堂の裏手にある桃山末期の作といわれる庭園で、天覧山の織り成す風景を借景として取り入れた風格あるものです。石組みや樹木の配置は素晴らしいもの。市指定名勝であり、日本名庭百選のひとつにもなっています。

★住職夫人は、普段は拝観のできない本堂の毘廬舎那佛(びるしゃなぶつ)や、各所の建築物や閻魔王等各種の仏像を隅々まで拝観させてくださり、さらに茶菓の接待にもあずかり、本当に恐縮しました。

能仁寺裏庭園を拝見 庭園 庭園
東屋 鐘楼 大黒堂
能仁寺住職夫人の接待を受ける 本堂前で記念撮影

★更に、墓地には「五十嵐 力」の比翼塚がありました。早大文学部長等を歴任して、文学界で活躍し、昭和22年に死去。若菜夫人は飯能の寺院に篭もり、夫人の亡夫への「追慕の碑」は、深い感動を与えてくれます。「血潮高鳴る乙女となりて われ行かん 迎え給えよ この手をとりて」。

五十嵐力先生の墓所の前で 比翼塚

★この墓地の裏手から「天覧山」に登りました。標高195メートルで、山というよりも丘の風情があります。もとは愛宕山といわれていましたが、羅漢山を経て天覧山となりました。これは、明治16年に、山麓で行われた近衛兵演習を、明治天皇が山頂から統監したことによるといわれます。途中に小規模な岩場がありますが、鎖も完備し、登るのは予想よりも比較的簡単でした。山頂には行幸記念碑があります。標高のわりには山頂からの展望は良く、奥武蔵・奥多摩等の山々を望むことができ、四季それぞれに楽しむことができます。ここで記念写真を撮りました。

★岩場の手前には「十六羅漢石仏」がありました。五代将軍綱吉の病気平癒のお礼に、生母桂昌院が奉納したものといわれます。各種の表情や形態が大変楽しいものでした。

十六羅漢石仏 岩場を登る 山頂の標識
山頂からの眺め 山頂標識の前で

★ここから、下山して能仁寺の堂々たる山門に至り、鏡恒夫作の仁王像に感動しました。更にバス停天覧山下まで戻る手前に「若山牧水の歌碑」がありました。牧水は宮崎の人ですが、祖父が埼玉の出身のため、埼玉県内には5基の歌碑があります。

能仁寺仁王門

★ここから下って行きますとすぐそばが「飯能河原」です。名栗川の河原ですが、大変広大なもので、大小の石の散在する風景は独特のものです。木の橋も面白いものでした。ここは遠足の生徒たちの格好の休憩所になっているようでした。

★懇親会は、河原のたもとにある「櫟(くぬぎ)庵」で実施しました。ここは大変風光明媚な場所にあり、店の内外の風情も最高です。普段は置いていない地酒「天覧山」もとり寄せてくれてあり、自慢の「天せいろ」や各種の酒のつまみ、新潟の銘酒「吉乃川」等で大いに楽しみ、本当に盛り上がりました。

名栗川の木橋を渡る 対岸の櫟庵 櫟庵
蕎麦前 蕎麦がき 盛り蕎麦

★今回の散策は、井垣さんの提案により、初めて都内から離れた埼玉県で実施しましたが、井垣さんと、飯能・日高稲門会役員である能仁寺住職夫人の案内・解説により、大変楽しく、また目新しいものになりました。今後も、時には地域を拡大して実施してみたいと思います。 (報告: 滝沢公夫  写真:荒木彌榮子・山本浩) 

[参加者]荒木彌榮子・井垣昭・伊藤徹・梶川允・栗原政博・佐藤俊雄・鈴木昭助・滝沢公夫・野村吉宏・馬場正彦・堀田耕也・堀田夫人・村上征徳・山本浩・横田康平




[第16回 散策の会] (世田谷・豪徳寺界隈を巡る 2013.9.28)

9月28日、会員13名は、東急世田谷線 宮ノ坂駅に集合しました。この線は、昔は玉電といわれて1両だけの電車でしたが、現在はカラフルな2両編成の電車です。滅多に乗る機会がありませんので、物珍しかったです。また、始発駅を除いて改札口がありません。

玉電こと東急世田谷線(山下ー宮の坂付近で)
wikipediaより転借

★厳しい残暑も終わり、絶好な秋の風情が漂うなか、ゆったりと散策を開始しました。先ず向かったのは、駅から5分ばかりの「豪徳寺」です。入り口に素晴らしい石門があり、更に山門の突き当りと裏側に立派な本堂があります。この付近一帯は、もと源義家の末裔である吉良氏の居館で、天正18年(1590)の秀吉小田原征伐までは世田谷城の主要部だったようです。寺は文明12年(1480)城主吉良政忠により開基され。当初の臨済宗から天正12年(1584)曹洞宗に転じました。吉良氏没落後は、井伊氏世田谷領になり、寛永10年(1633)には、井伊氏二代目藩主直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避けられたところから、井伊氏の菩提寺として整備しました。

豪徳寺の石門 同山門 突き当りが本堂 本殿
三重塔 山門脇の都史跡の石碑 井伊家の墓所
井伊直弼の墓 井伊家墓所の地図

★現在も、境内の猫堂には多数の招き猫が飾られ、大変盛観です。平成18年に新築された三重塔も立派なものですが、四面にある蛙股の中には、十二支のほかに猫も彫刻されており、全国的にもほかに例がなく貴重なものです。また、奥まったところにある「井伊家墓所」は広大で、国の史跡に指定されています。更に、井伊直弼の墓は都の史跡になっています。

蛙股干支に招き猫 蛙股の招き猫 絵馬も招き猫 多数の奉納招き猫

★次に向かったのは、すぐそばの「世田谷城址公園」です。世田谷城は、世田谷吉良氏の祖とされる吉良治家が、1366年鎌倉公方足利基氏より世田谷領を拝領し、1400年頃築城、1590年小田原落城まで続いた城といわれます。平城で、現在はわずかに小高い台地の中に谷等があり、緑の多い公園になっています。吉良氏は足利氏を祖とする高貴な家柄でしたが、次第に北条氏の支配下に組み入れられ、天正18年の小田原の役で北条氏が滅亡した時落城となったようです。その後家康が、城の木材・石材を江戸城の改修に利用したといわれます。なお、この地は昭和15年に公園として整備され、世田谷百景のひとつとなっています。

世田谷城址公園 案内図 入構してくる玉電(松陰神社電停で) 玉電をバックに

★ここから「烏山川緑道」に出ました。ここは小川を暗渠にした7キロばかりの遊歩道ですが、全体に歩きやすい、ほっとする道でした。途中国士舘大学の巨大な校舎の脇を通りました。

★30分ばかり歩くと「松陰神社」です。入り口に巨大な鳥居があり、社格の高さが偲ばれます。この地には、もと長州藩主の別邸がありました。吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)、高杉晋作・伊藤博文などの松陰の門人によって、小塚原回向院にあった松陰の墓が当地に改葬されました。そして、明治15年(1882)門下の人々によって松陰を祀る神社として創建されたとのことです。社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものですが、堂々たるものでした。左側に隣接して松陰の墓と勤皇の志士多数の墓がありますが、胸を打たれる雰囲気でした。各所に散在する燈篭も歴史を感じさせます。また、社殿の右側に隣接して松下村塾の模造建物がありますが、萩市の本物に良く似ていて感慨深いものでした。

松陰神社の鳥居 社殿へ向かう 社殿 吉田松陰像
吉田松陰と志士の墓 同墓 寄進された石灯篭 同灯篭
松下村塾レプリカ 同内部 同内部
松陰神社で

★ここから20分ばかり歩きますと、毎年12月と1月の15日・16日に開催される「ボロ市」で有名なボロ市通りに出ます。この通りに「世田谷代官屋敷」があります。ここは彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷で、都指定史跡となっています。歴史を感じさせる建物や白洲跡、更に多種の植物が植えられた庭園等、見るべきものは比較的多かったです。大場氏は吉良氏の有力家臣で、吉良氏没落後も世田谷に土着。寛永10年彦根藩世田谷領が成立すると代官に起用され、明治4年まで継続したといわれます。母屋と表門は国指定重要文化財に指定されています。

大場家武者隠しのある門 大場家 大場家

★この屋敷の敷地内に、「世田谷区立郷土資料館」があります。ここは昭和39年に開館しましたが、23区内では最初の登録博物館です。陳列品は極めて豊富で、世田谷区内の文化財や、吉良氏・井伊氏関係の資料が充実していました。

世田谷区立郷土資料館 展示室 展示物
展示物 展示物 展示物

★これで今回の散策は終わり、世田谷線上町駅で解散しました。その後、希望者で土間土間 三軒茶屋店にて懇親会を実施しましたが、大いに楽しいひとときを過ごし、大変盛り上がりました。

懇親会 懇親会

★今回の散策は、豪徳寺の井伊直弼の墓に比較的近い松陰神社に勤皇の志士の墓があるなど、大変な因縁が感じられ、歴史探訪の道として楽しいものでした。いつもの通り、山本さんの解説と佐藤俊雄さんの資料は冴えたものでした。今後も楽しい散策を企画したいと思います。 (報告:滝沢公夫 写真:山本浩・荒木彌榮子・国友邦康)

[参加者] 荒木彌榮子・伊藤徹・小川浩史・国友康邦・佐藤俊雄・佐藤良三・滝沢公夫・中村泰三・野村吉宏・堀田耕也・堀田夫人・山本 浩・横田康平


[第15回 散策の会] (本郷界隈を巡る 2013.5.18)

5月18日、会員17名は丸の内線本郷三丁目駅に集合。絶好の初夏日和の中ゆったりと散策を開始しました。先ず本郷三丁目の交差点にある「かねやす」ですが、「本郷も かねやすまでは江戸の内」というパネルが表示されていました。ここは、現在小間物店ですが、江戸時代は歯科医兼歯磨き粉販売店でした。1730年の明暦大火をきっかけに、江戸城からここまでは幕府により茅葺屋根が禁止されたため、ここが境目という意味合いから生まれた川柳であるといわれます。

★続いて「金魚坂」です。ここは300年余りの歴史を持つ金魚の養殖・卸業者ですが、極めて多種類の金魚を扱っているのに驚きました。喫茶店・食堂等も併営し、この辺では珍しい休息の場になっているようでした。

★それから「菊坂」を下りました。このあたりは古来菊畑が広がり、栽培する人が多く住んでいたところから名づけられたようです。現在は庶民的な商店が密集していました。

★次に「樋口一葉旧居跡」です。ここは菊坂に平行した菊坂下道から、極めて狭い路地を入ったところにあります。一葉がここに転居してきたのは明治23年、18歳のときでした。父親が前年に死亡し、一葉は母と妹を抱えて、戸主としての責任を負っていました。この地には2年余り居住しましたが、旧居跡には現在小さい住宅が密集しており、当時のものとしては手押しポンプの井戸があるのみです。勿論その当時はつるべ井戸であったと思われます。なんとも侘しい感じの場所です。一葉は、このあと吉原近くの竜泉寺町に転居して雑貨店を開業しましたが、間もなく閉店しています。

★続いて、菊坂に面した「旧伊勢屋質店」です。一葉は、生活に窮して頻繁に利用したようです。1860年に開業し、昭和57年に廃業していますが、土蔵は当時のままです。

★ここからしばらく歩いて、白山通り沿いの「一葉終焉地」です。ここは現在ビル用地となっており、ビルの前に記念碑と解説札があるのみで、全く昔のものは残っていません。明治27年、一葉は竜泉寺町からここに移住し、「たけくらべ」「にごりえ」等の名作を発表しました。一葉の作家生活の中では、最も充実していた時期といえましょう。しかし、明治29年、肺結核のため24歳で死去しました。ここは区の史跡になっています。

★ここから菊坂の途中まで戻り、左に入りますと「本郷菊富士ホテル跡」があります。明治30年の創業ですが、昭和20年の空襲で焼失していまいました。多くの文学者・学者・芸術家等が止宿し、数々のエピソードを残したといわれます。主な者に、石川淳・宇野浩二・宇野千代・尾崎士郎・坂口安吾・谷崎潤一郎・正宗白鳥・竹久夢二・三木清等がいます。

竹久夢二 夢二の作品 夢二の作品
谷崎潤一郎 宇野千代
(写真はwikipediaから転借)

★また、近くに「赤心館跡」がありますが、ここは金田一京助の下宿先であり、石川啄木が同居したといわれます。更に、この辺一帯は振袖火事の火元といわれる本妙寺の境内でしたが、現在寺は巣鴨付近に移転しています。

★近くに「旅館 鳳明館」があります。明治30年頃の建築で、戦災にも遭わず大変歴史の感じられる旅館です。有名人が宿泊してきたといわれます。現在は、修学旅行の生徒も利用しているようです。ここは国の有形文化財に指定されています。

★ここから「落第横丁」といわれる小路に入りますと、「滝の家」という蕎麦屋があり、店頭に志村会員原作・主演の芝居のポスターが掲示してあり、志村さんとここの主人とはいろいろ縁があることが分かり、とても驚きました。

★落第横丁を抜けると本郷通りに出て、正面が東大正門です。更に右折して言問通りをしばらく行きますと「弥生式土器発掘ゆかりの地」です。明治17年、根津の谷に面した貝塚から縄文式とは異なる赤焼きの壷が発見され、向ヶ丘遺跡といわれましたが、都市化の中で所在地がはっきりしなくなりました。その後、昭和49年に、弥生二丁目で向ヶ丘遺跡と類似する土器が発見され、弥生二丁目遺跡とされたのがこの場所です。しかし、単に記念碑があるのみです。

★続いて、すぐそばの「弥生美術館・竹久夢二美術館」に行きました。可愛らしいしゃれた美術館で、ともに弁護士・鹿野琢見によって設立されたもので、弥生は1984年、竹久は1990年の開設といわれます。所蔵品は、弥生が挿絵家の高畠華宵を中心に27,000点、竹久が3,300点といわれます。しかし、時間の都合で見学は中止し、とても残念でした。

★美術館を出たところが「暗闇坂」です。もともと昼間でも暗い鬱蒼たる樹木で覆われていたようですが、現在はこのような地ではありません。なお、同名の坂が都内に何箇所もあるようです。

★しばらく行くと「無縁坂」です。坂の途中にある無縁寺(現在は講安寺)が名称の由来とされています。なお、「さだ まさし」の歌謡曲にも取り上げられています。

★いよいよ最終目的地の「旧岩崎邸庭園」です。旧岩崎邸は、明治29年コンドルの設計により、三菱創設者・岩崎家本邸として建設されました。洋館・和館・ビリヤード場の三棟が現存しています。繊細なデザインと巧緻を極めた建築と調度は本当に驚くばかりです。広大な庭園も和洋併置式であり、大名庭園も踏襲しています。全体が国指定重要文化財で、ゆったりと観てまわりましたが大変感動的でした。

★これで今回の散策は終了し、解散となりました。その後、希望者のみで懇親会を実施しました。上野仲通りの「半兵ヱ」ですが、料理とサービスはやや粗末ながら、昭和ロマンに満ちた独特の店舗で、盛り上がりました。

★今回の散策は、明治からの文化財が中心となりましたが、樋口一葉にかかわる場所や、東大に近い地域のため文学者・学者にかかわる旧跡、更に美術館等、本郷一帯の広い地区を制覇し、ややきつい行程でしたが、皆元気に楽しく散策しました。いつも通り山本さんの解説は冴え、佐藤俊雄さんのユニークな資料も好評でした。今後も楽しい散策を企画したいと思います。 (報告:滝沢公夫  写真: 荒木彌榮子・国友康邦・山本浩)

[参加者] 荒木彌榮子・伊藤 徹・小川浩史・梶川允・梶川夫人・国友康邦・栗原政博・小林秀雄夫人・志村智雄・鈴木昭助・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・堀田耕也・堀田夫人・山本浩・横田康平


[第14回 散策の会] (芝界隈を巡る 2013.3.16.)

★3月16日、会員14名は都営大門駅に集合。春めいた絶好の日和の中、ゆったりと散策を開始しました。まず向かったのは、「芝大神宮」です。駅からすぐのところに素晴らしい鳥居が望め、階段の上には立派な社殿がありました。見るからに社格の高さが偲ばれます。

芝大神宮社殿 芝大神宮前で佐藤俊雄さんから説明を聞く

★折柄結婚式が行われており、素晴らしい新郎・新婦を拝見しました。ここは、平安時代の寛弘2年(1005)、伊勢神宮の分霊を祀り創建された古社で、伊勢神宮と同じく天照大神と豊受大神を祀っています。毎年9月に行われる長期間の「だらだら祭り」が有名で、更に、鳶「め組」の喧嘩は歌舞伎の舞台にも取り上げられています。


★次に行ったのは、都内屈指の大寺院「増上寺」ですが、上野寛永寺と並んで徳川家の菩提寺で、浄土宗七大本山の一つとなっています。東京タワーをバックに した広大な境内には、巨大な建築物が林立し、本当に大寺院の風格があります。丁度枝垂れ桜が満開で、一同記念撮影を行いました。

本堂(大殿)
満開の枝垂れ桜を背に 本堂と東京タワー

★ここは天正18年(1590)に創建され、勇壮な大伽藍を有しましたが、戦災で殆どが焼失。現在の本堂(大殿)は昭和49年に再建されたものです。それにしても巨大な建築物です。境内の入り口には重要文化財・三解脱門がありますが、特定の時期しか入場できません。

三解脱門 三解脱門
霊廟門 霊廟門

★裏手には徳川家墓所がありますが、歴代将軍は、家康と家光が日光に、慶喜は谷中に、その他は増上寺と寛永寺と振り分けられて祀られています。近くには、歴史の感じられる重要文化財・二天門もありました。 また、すぐ近くには塔頭・青松寺があり、山門の仁王像と本殿の素晴らしさに感動しました。

佐藤俊雄さんの説明を聞く 周囲の高層ビルを見上げる

★続いて、「愛宕神社」へ行きました。ここは都内で最も低い標高の山、26メートルの愛宕山の山頂にあり、京都の愛宕神社が総本社になっています。主祭神は火産霊命で、防火・防災に霊験ある神社として知られています。

愛宕神社 社殿

★この神社は、1603年(慶長8年)、徳川家康の命により創建されたといいます。急峻な86段の石段を登って、本殿の前に出たときの感動はたまりません。講談で名高い「出世の石段」を、騎馬で登り降りして家光に梅の枝を献上した曲垣平九郎の故事で知られる梅の木が、本殿の前にあります。毎年9月には、出世の石段祭が施行されます。

碑将軍梅 桜田門の変の
愛宕神社の急な石段を登る 86段

★最後に、すぐそばの「NHK放送博物館」です。大正14年のラジオ放送開始から、現在までの放送全般の歩みを、豊富な放送資料や貴重な機材・パネル等で展示してあり、大変楽しくまた勉強になりました。現在の進歩したテレビ放送までの足跡が、とても分かりやすく解説されていて、ここで1時間ばかり見学を楽しみ、博物館前で記念写真を撮りました。

NHK放送博物館 博物館前で記念撮影
初代東京放送局長・後藤新平 展示物・愛宕神社石段の絵
展示物・時報に使った時計 展示物・「ひょっこりひょうたん島」の人形

★これで今回の散策は終了し、解散となりました。その後希望者のみで、程近い「土間土間 虎ノ門店」にて懇親会を開催しましたが、豪華絢爛コースの酒と料理で大いに盛り上がりました。

散策後の懇親会(「土間土間虎ノ門店」で)

★今回の散策は、比較的コンパクトながら内容は大変充実していたと思います。女子会からの参加者もあって本当に良かったです。また、今回の案内をすべて引き受けてくださった佐藤俊雄さんの解説も素晴らしいものでした。今後も楽しい散策を企画したいと思います。(報告:滝沢公夫 写真:荒木彌榮子・国友康邦・山本浩・滝沢公夫)

[参加者] 荒木彌榮子・伊藤徹・梶川允・国友康邦・佐藤俊雄・佐藤良三・志村智雄 鈴木昭助・滝沢公夫・竹井典子(女子会)・野村吉宏・堀田耕也・堀田夫人・山本 浩


[第13回 散策の会] (柴又七福神を巡る 2013.1.12.)

★1月12日、ニモク散策の会会員17名は京成高砂駅に集合。寒いながら絶好な冬日和に恵まれ、今年の運気向上を願って散策を開始しました。

★最初にお参りしたのは、高砂駅近くの「観蔵寺」です。大変に簡素な寺で、出だしとしては一寸がっかりさせられました。ここは寿老人が祀られており、真言宗豊山派の寺です。文明元年(1469)空性坊が創建したものといわれます。その後国府台合戦で焼失荒廃しましたが、承応2年(1653)隆刑法印が再興しました。本尊は観世音です。                                      

観蔵寺からスタート

★次の寺までは徒歩ですとかなりあるため、高砂駅から北総鉄道新柴又駅まで電車に乗りました。駅のすぐそばに「医王寺」があります。ここには、七福神の中で唯一日本特有の恵比寿神が祀られていて、真言宗豊山派の寺です。ここの豪壮な山門が印象的でした。応永14年(1407)観賢法印の創建で、もと下総国分寺下の薬王寺と呼ばれていました。その後、国府台合戦で焼失しましたが、寛永年間(1624-44)金蓮院の僧により再興、医王寺と改めました。本尊は薬師如来ですが、秘仏です。

医王寺の豪壮な山門

★次はすぐそばの「宝生院」です。真言宗智山派の寺で、大黒天が祀られています。寛永元年(1624)常陸国大聖寺末寺として京橋で創建。谷中、池之端を経て、関東大震災のため昭和2年に当地に移転したものといわれます。大黒天が本尊で、黒い身体に赤い口が印象的でした。江戸時代から多くの信仰を集めていたといいます。

宝生院 鎌倉期の出世大黒天

★それから、分かりづらい道をしばらく歩き、「万福寺」です。ここは当地唯一の曹洞宗の寺で、福禄寿が祀られています。この地から多くの人骨が発見されたため、地元の要望で宍戸家の菩提佛を祀り、昭和3年に創建されたといいます。本尊は毘沙門天です。

万福寺

★万福寺からしばらく歩き「真勝院」です。真言宗豊山派の寺で、弁財天が祀られています。門から本堂までかなり距離があり、堂々としていますが、ここは大同元年(806)の創建といわれる古刹です。国府台合戦による焼失や、江戸時代の再三にわたる焼失・再建を経て、明治5年に住持快秀が本堂を再建。ただし、現在の本堂は昭和47年の再建といわれます。門内には、万治3年(1660)建立された「五智如来」があり、区の文化財に指定されています。これは、真言宗の最高の仏である大日如来を中心に、大日如来の智恵を五つに分けた阿しゅく如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来の順にならんでおり、本当に壮観でした。また、保存樹の銀杏も素晴らしいものでした。

真勝院 五智如来石像

★真勝院から、京成電車の線路に沿ってかなり歩くと「良観寺」です。ここは真言宗豊山派の寺で、宝袋尊が祀られています。通常の「布袋」ではなく、「宝袋」と書くのに特色があります。創建年代は不明ですが、本尊像や板碑の銘から、室町末期から江戸初期にかけて、念仏堂として建立されたようです。本尊は聖観世音で、境内には水子地蔵が沢山祀られています。広大ですが、やや閑散としていました。

良観寺 宝袋尊像

★いよいよ柴又帝釈天(題経寺)です。映画「男はつらいよ」で著名な店等が建ち並ぶ門前町を人ごみに押されながら進みますと、やがて巨大なニ天門が現れます。ここは日蓮宗の寺で、帝釈堂には毘沙門天(多聞天)が祀られています。

二天門 帝釈堂

★この寺は、寛永6年(1629)中山法華経寺(市川市)の日忠の創建によりまずが、実際には弟子の日榮によるとされています。また、中興の祖は日敬であり、天明の大飢饉(1783)の際、本尊を背負って江戸の町を歩き、効験があったため帝釈天が著名となり、門前町も形成されていったといいます。境内には各種の建物が密集し、見所が大変多いです。なお、本尊は大曼荼羅となっています。

★「ニ天門」は、明治29年の建立で、入母屋造り、瓦葺の楼門。左右に平安時代の増長天と広目天を配します。そして、境内の正面に「帝釈堂」があります。堂々たるもので、内殿は大正4年、拝殿は昭和4年の完成です。内殿に帝釈天の板本尊を安置し、左右に持国天と多聞天(毘沙門天)があります。

★次に「彫刻ギャラリー」ですが、帝釈堂内殿の外部が素晴らしい装飾彫刻で覆われているもので、本当に感動的でした。特に法華経説話の浮き彫りは、大正11年から昭和9年にかけて10人の彫刻師により作成されたもので、大変著名なものです。また、庭園も、広大で趣のあるもので素晴らしかったです。

法華経説話の浮き彫り 大客殿庭園

★それから「祖師堂」ですが、帝釈堂の右側にあり、日蓮宗の本来の本堂です。また、釈迦堂(開山堂)は江戸時代末期に建立された寺内最古の建築で、奈良時代の釈迦如来像と、開山日栄、中興日敬の木像が安置されています。ただ、何れも時間的に既に閉鎖されていて見られませんでした。

帝釈堂前で

★「矢切の渡し」は、江戸川堤防から眺めました。対岸には下総の国府があった国府台が望め、素晴らしい景色で、国府台合戦の頃や伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台が偲ばれました。ただ、「寅さん記念館」は時間の都合で行けなかったのが残念でした。

矢切の渡し 矢切の渡し(参考:2010.1.17.松谷富彦撮影)

★そして、門前の情緒のある商店街で、それぞれ土産物を買い求めたり、楽しいひとときを過ごしました。特に「寅さん」映画の舞台になった「高木屋団子店」の草団子に人気が集まりました。

参道の高木屋団子店 参道の賑わい

★これで本日の散策は終了し、柴又駅で解散となりました。その後、希望者のみが、高田馬場の石庫門で懇親会を実施しましたが、いろいろ本日の感想等を話し合って、大変盛り上がりました。

懇親会(石倉門で)

★今回の散策は、「寅さん」で人気の高い場所を取り上げましたが、帝釈天の参道の賑わいに驚き、また帝釈天の規模・内容の素晴らしさに感動しました。時間的制約から、「寅さん」関係の施設を体験できませんでしたが、いつか機会を持てればと思います。いつもの通り、山本さんの名解説や佐藤さんのユニークな資料は冴えていました。今後も楽しい散策を企画したいと思います。
                                                               (報告:滝沢公夫 写真:国友康邦、山本浩)

京成柴又駅前の「寅さん」像

[参加者] 伊藤順蔵・伊藤徹・小川浩史・小平道彦・梶川允・国友康邦・栗原政博・小林久子・佐藤俊雄・鈴木昭助・滝沢公夫・土井洪二・野村吉宏・馬場正彦・堀田耕也・山本 浩・横田康平

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