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[西東京稲門会・散策の会(2013年12月例会)高輪から芝へ] 報告&写真:小島恕雄 |
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★12月17日午後1時40分に品川駅をスタート、駅前の柘榴坂の緩やかな坂を登りきると左手にカトリック高輪教会があり、その一角に「江戸の大殉教」の碑が建っている。三代将軍・家光は外国人宣教師を含む50余人のキリシタンを、迫害政策により江戸市内を引き回したうえ、札の辻において火刑に処した。その殉教者たちを顕彰する碑である。
★道はここで右へ曲がり高輪台の上を北東へ進む。二本榎通りである。新高輪プリンスホテル、衆議院議員宿舎を過ぎると、高輪警察署の手前に高野山東京別院がある。境内に四国霊場八十八ヶ所の本尊と寺名を刻んだ石碑が建っている。
★高輪警察前の十字路を右折すると桂坂の下りである。この坂は尾根道のようになっていて、道の左右は急な崖になっている。坂の途中で右折すると洞坂である。やや登ったあとは急峻な下り坂となる。車の通れない細い道で、奈落に降りてゆくような雰囲気がある。 ★坂を下りきると東禅寺がある。臨済宗妙心寺派に属し、飫肥藩伊東家、仙台藩伊達家、岡山藩池田家の菩提寺である。幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれ、初代英国公使ラザフォード・オールコックが着任した。水戸藩士や松本藩士に襲われるという事件も起きている。寺域は当時より狭くなったが、都心とは思えない静寂さの中に本堂や三重塔が建ち、厳かな雰囲気を漂わせている。お坊さんの研修会があったのか(あるいは忘年会?)大勢のお坊さんが出てきた。
★二本榎通りに戻りしばらく歩くと東海大学高輪キャンパスである。その向かい、都営高輪1丁目アパートのあるあたりが細川家の下屋敷があったところで、吉良邸討ち入りを果たした大石内蔵助ら17人の赤穂浪士が預けられ、切腹をした場所である。東京都指定旧跡「大石良雄外十六人忠烈の跡」として保存されている。 ★伊皿子交差点を右折すると広い伊皿子坂で、坂の途中に「幸福の科学」のギリシャ建築風の東京正心館がある。 ★坂を下りきり右折すると泉岳寺である。浅野内匠頭を初め赤穂浪士48人(討ち入りをした47人と討ち入り前に自害した萱野重実の48人)の墓があり、12月14日の義士祭から3日しか経っていないので参拝する人も多く、たくさんの花や線香が供えられていた。
★ジャスト5時に忘年会場「地魚屋」に到着。既に日はとっぷりと暮れ、ネオン瞬く夜の東京に変わっていた。 [参加者]石井(英)、石井(唯)、江澤、梶原(2)、金児、金子、小島(2)、竹下、林(2)、比留間(2)、安村、中村以上16名 |
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[西東京稲門会・散策の会(2013年9月例会)幸手宿から中田宿へ] 報告&写真:小島恕雄 |
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★9月24日、実施がはっきりしない空模様でもないのに、池袋駅に集まったのは竹下さんと私の二人だけ。久しぶりの二人旅となった。
★日光街道からそれて権現堂堤へ向かった。正福寺からおよそ30分ほどで堤の南端に着いた。この堤は利根川が氾濫した時に江戸を洪水から守るために作られたもので、長さが1.5kmほどである。今は土手の上には遊歩道があり、道の両側は桜並木になっている。春の桜のシーズンには大勢の花見客で賑わうという。この日は「曼珠沙華まつり」の最中で、土手の斜面に植えられた曼珠沙華が見事であった。花見の客も多く、そぞろ歩く人、大きな望遠レンズを構えて写真を撮る人たちで賑わっていた。
★行幸橋を渡り、国道4号から左へそれて旧日光街道を歩く。国道4号とはほぼ並行している。ここからはのどかな農村風景が続き、ただひたすら歩く。朝のうちは寒いくらいであったが、気温がぐんぐん上がり、太陽がじりじりと照り付けて暑い。 ★東北新幹線のガードを潜り、栗橋宿に入った。旧道は国道4号の下のトンネルを右へ左へと行き来している。ここで国道4号に沿って進むべきところを、間違えて125号の方へ進んでしまった。気が付いたときは国道4号からかなり遠いところまで来てしまって、暑さで疲れていたせいもあり、引き返す元気もなく、そのまま栗橋駅に向かった。栗橋関所跡を見学し、利根川橋を渡って中田宿まで行く予定であったが、これは次回のお楽しみということになった。
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[西東京稲門会・散策の会(2013年7月例会)浜離宮公園とビアホール] 報告:小島恕雄 写真:石井唯夫 |
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[西東京稲門会・散策の会(2013年6月例会)八国山~北山公園菖蒲苑巡り] 報告:金子正男(西東京稲門会) 写真:松谷富彦(小平稲門会) |
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[西東京稲門会・散策の会(2013年5月例会)皇居東御苑&周辺巡り] 報告:小島恕雄(西東京稲門会) 写真:松谷富彦(小平稲門会)・ 小島恕雄(*) |
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★5月28日、天気は薄曇り、風も心地よい絶好の散策日和であった。翌29日には関東地方でも梅雨入りが発表されたので 実に絶妙のタイミングであった。 ★西武池袋線と地下鉄有楽町線は相互乗り入れ・直通運転を行っているので、保谷駅で直通電車に乗車し、桜田門で下車するというルートを選びました。乗り換えがないので確かに楽でしたが、急行電車の待ち合わせなどが3回もあって結構時間がかかった。 ★地下鉄の改札を出て、「皇居方面」という案内表示に従って地上に出ると桜田門の目の前である。桜田門は6月28日まで 改装工事中で通行できなかったので、祝田橋を渡って皇居外苑に入った。現役時代にこの付近で仕事をメンバーも多いが、久しぶりに来てみると丸の内側の景色が様変わりしているのに驚いたようである。しかし二重橋付近の風景は昔と変わらず、観光バスで訪れた観光客が次々に記念写真を撮っていた。変わったことは外国人の観光客が多いことで、特にアジア系の外国人が増えたようである。
★大手門から皇居東御苑に入った。大手門を入るとすぐ右手に三の丸尚蔵館があり、「旧高松宮家と伝来の品々」展が開催されていた。石垣の間を進むと同心番所、百人番所があり、さらに巨大な石垣を見ることができる。幕府が諸大名に命じて築かせた江戸城の石垣で、幕府の権威を誇示しているようである。しかし年月の経過とともに石垣にも損傷が生じ、何か所も新しい石に交換されている。中雀門跡を抜け、坂を登れば江戸城本丸である。
★青々とした大芝生が広がっている。広大な空間に見えるが、当時は武士の屋敷や大奥が立ち並ぶ官庁街であったところである。大芝生を取り囲むように野草園、茶畑、バラ園、ツバキ園などがあり、忠臣蔵の発端となった松の廊下跡もある。
★一番奥には天守台がある。天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失したあとは再建されず、石垣だけが築きなおされた。ここに登ってみると神田方面から品川方面にかけて一望することができる。家康が入城したころは日比谷あたりまで海が広がっていたというが、そう思ってみると当時の風景が目に浮かぶようである。
★天守台のすぐ下に、八枚の壁面に淡い色彩の絵が描かれ、テッセンの花弁をかたどった屋根が乗った、ちょっと風変わりな建物がある。これは桃華楽堂といい、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を祝って建設された音楽堂である。桃華楽堂の先の汐見坂という急な坂を下ると二の丸である。雑木林の間を抜けると二の丸庭園がある。サツキが満開である。 ★池にはハスやアサザの花が咲き、最近東京では見られなくなったギンヤンマやシオカラトンボが飛び回っている。また菖蒲や紫陽花が咲き始めていた。ここでも季節は初夏から梅雨に移ろうとしていた。
★大手門から出て東京駅へ向かった。丁度昼休みの時間なので多くのビジネスマンたちが食事や休憩のためにビルから出てきていた。 ★東京駅は昨年丸の内駅舎の復元・改修工事が終わり、新たな観光名所として賑わっている。辰野金吾が明治時代の栄光を象徴する建造物として設計した洋風建築は、3つの王冠のような屋根を持ち、赤レンガと石の白の鮮やかなコントラストが印象的である。ドーム内から八角形の天井を見上げると十二支のレリーフが飾られている。
★丸の内南口のすぐ前に旧東京中央郵便局の一部を保存して再生して「JPタワー」がある。保存された旧庁舎は「KITTE」という6階建ての商業施設である。入口を入ると5階まで吹き抜けとなった明るい空間が強烈な印象を与える。アトリウムは三角形をしていて、それを囲むようにファッション、雑貨、レストランなど全国から集まった98の名店が並んでいる。靴下専門店、ハンカチ専門店、日本手拭専門店、木製工芸品専門店など他所にはないような個性的な店が並んでいて、見て歩くだけでも楽しい。4階には当時の郵便局長室が再現されていて、その窓からは改装なった東京駅が手に取るように見ることができる。
★解散後、私は「菜な」という店で京都のおばんざい料理を頂いた。大変おいしく、しかもお値段も手ごろであった。 |
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★4月23日、麗らかな春の日の午後、東伏見駅南口に林先生ご夫妻や杉中さんご夫妻など久しぶりに参加された方を含めて14名が集合した。そのうち6人が女性で大変華やかで賑やかであった。 ★東伏見駅から3分ほどのところに氷川神社がある。社殿の左横に高さ22m、幹回り3.3mのクロマツの大木が立っているが、これが西東京市の木50選の12番である。
★早大の校舎やサッカーグランドの横を通り、石神井川を渡って坂を登ったところに下野谷遺跡公園がある。約5000年前の縄文時代の遺跡が出土したところで、広い原っぱの一隅に竪穴式住居が復元されている。すぐ下に水場となる石神井川があって、明るいひらけた台地になっているので、縄文人たちにとっては絶好の土地であったに違いない。
★遺跡公園を出て坂を下ると東伏見小学校がある。林先生のお二人の御子息や我が家の二人の息子たちが通った学校である。その南の通用門の横に市の木50選の14番、メタセコイヤが立っている。真下から見上げるとメタセコイヤの特徴的な樹形が見えないが、少し離れてみると立派なメタセコイヤである。新芽が芽吹いたばかりでその若緑が美しい。 ★小学校のすぐそばに東伏見稲荷神社がある。その神社の横に小さな東伏見公園があるが、ここに13番のケヤキがある。樹高25m、幹回り2.9mの大木で大きく枝を広げている。
★東伏見稲荷神社の社殿の裏にアカマツなどの林があり、その中に赤い鳥居が並んだ参詣路がある。社殿左奥にあるアカマツは樹高25m、幹回り2.5mもあり、他のアカマツより抜きんでて高い。これが市の木50選の16番である。 ★調布保谷線の青梅街道の東伏見交差点から保谷庁舎までの区間が4月21日に開通した。この新しい道路は東伏見稲荷神社の東側でトンネルに入り、西武新宿線を潜り抜けた後新青梅街道の手前で地上に出てくる。トンネルの上の部分は4月1日に開園したばかりの都立東伏見公園(先の東伏見公園とは異なる)の一部となっている。都立東伏見公園は以前「千駄山広場」と呼ばれていた場所を整備したもので、今後もっと拡張する予定になっている。
★公園全体に芝が張られ、多くの樹木が植栽され、ベンチや四阿なども設置された。ここに市の木50選の15番・キンモクセイがあるので探したが、それらしい木を確認することはできなかった。(後日「千駄山住宅」バス停近くの入口から入ってすぐの所に立つ大きなキンモクセイを確認した) ★公園を出て西武新宿線を跨線橋で越えると富士街道、新青梅街道と交差する。ここからは片側2車線の自動車道の両側に歩行者用と自転車用に分けられた歩道が付いた広い道がまっすぐ北に向かって伸びている。道の両側には野菜畑や果樹園が広がり、所々には新しい家もあり、非常に明るいひらけた景色である。まだバスは走っていないが、すでに停留所が何か所かできている。こもれびホールの手前で保谷新道と斜めに交差し、200mほど行ったところで新道は終わり、その先は工事中である。 ★この後保谷駅まで歩く予定であったが、予定を変更してこもれびホール一階のカフェ・ハナミズキでしばらく歓談して解散した。 [参加者]石井(英)、江澤、金児、小島(2)、杉中(2)、竹下、林(2)、野本 |
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★3月25日と27日は冷たい雨の降る寒々として日であったが、間に挟まれた26日だけは風は冷たいものの快晴に恵まれた。メンバーの中に晴れ男(または晴れ女)がいるらしい。 ★例年より10日以上も早い桜の開花で、図らずも絶好の花見日和となった。車窓から眺める花も素晴らしい。特にモノレールでは眼下に桜の並木を眺めることができて格別である。また遠く西に目をやれば青空の中に真っ白な富士山が厳かに聳えている。『富士と桜』、まさに日本を象徴する風景である。 ★10時に京王線・長沼駅をスタート。長沼小学校の横を通り、北野街道を横断すると田園が広がり、もうそこは長沼公園の入り口のひとつ「長沼口」である。ウグイスが美しい声で我々を歓迎してくれた。
★紫色の小さな花を見つけて、ある人が「これはオドリコソウだ」と言うと、別の人が「いや、それはホトケノザだ」と言う。そこへよく似た紫色の小さな花を持ってくる人がいて、よくよく見比べてみるが、「オドリコソウ」と「ホトケノザ」で意見が分かれて結論は出なかった。植物に詳しい松谷氏がいないのが残念であった。 ★道はすぐに登りとなる。「霧降の道」と呼ばれる谷筋の道である。芽吹いたばかりの若葉の淡い緑が美しい。その中に辛夷の白い花、山桜の淡いピンクの花、椿の赤い花などが点在して、まさに春爛漫の風情である。野鳥たちも賑やかに囀り交わしている。
★ゆっくり歩いて30分ほど登ると尾根道に出た。「野猿の尾根道」である。東へ100mほど行くと展望園地がある。丘陵の北側に広がる八王子、府中などの街並みが手に取るように見える。銀色に輝く西武ドームの屋根も見えている。多摩市や町田市のある南側は尾根道の際まで畑や人家が迫ってきている。遠くには丹沢の山々や大山がはっきりと見えている。 ★ボランティアで公園の掃除などをしている人がいろいろ説明してくれたので、公園入口で摘んできた花を見てもらったら、最初に見つけた花が「ヒメオドリコソウ」で、後で見つけた方が「ホトケノザ」だそうである。名前の由来なども説明してもらって全員納得することができた。
★尾根道を西へ1kmほど行くと「野猿峠口」である。ここからは草地の広い谷・殿ヶ谷を見下ろすことができる。スキーのゲレンデのような斜面の所々にソメイヨシノが咲いている。この斜面を見下ろしながら弁当を食べて一息入れた。
★殿ヶ谷の道を下って「長沼口」に戻ってきた。さらに数100mほど東へ行くと駐車場があり、その先に長泉寺尾根の登り口がある。かなり急な山道を5分ほど登ると、林の中の急な斜面にカタクリの淡い紫色の花が群生していた。
★長沼公園と平山城址公園を結ぶ野猿の尾根道は地主の意向で通り抜けることができず、いったん北野街道まで下りて登り返さなければならないということだったので、平山城址公園は次の機会に譲ることにして、平山城址公園駅から電車に乗って帰途についた。 ★高幡不動駅近くの店でビールやコーヒーを飲んで疲れを癒し、店を出たら「近くの高幡不動に寄って行こう」ということになった。仁王門から入り不動堂にお参りしてから、五重塔、大師堂、聖天堂、大日堂と一回りした。どの建物も比較的新しく立派である。境内は広く、案内図には他にも多くの建物、句碑、銅像などの見所が紹介されている。もう一度ゆっくりと来てみたい寺である。
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★散策当日の2月20日は、冷たい北風が吹き荒れた前日とは打って変わって、暖かい春の日差しに恵まれた散策日和となった。この陽気に誘われたのか、今回初参加の石井主計氏を含め15名が集まり、久しぶりに賑やかな例会となった。 ★西武新宿線・入曽駅で下車し、しばらく車の往来の多い道を歩いてから右折すると、そこは茶畑の中の道で、視界を遮る大きな建物もなく青空が広がっていた。やがて鉄塔がやたら多いなと思っていると東電の変電所にでた。そこから見えたこんもりとした森が堀兼神社の森であった。
★鳥居をくぐり階段を登ると本殿があった。質素な小さな社であるが歴史の古さを感じさせる厳かな雰囲気があった。本殿の左手の雑木林の中に「堀兼の井」があった。 いかでかと 思ふ心は 堀かねの 井よりも猶ぞ 深さまされる(伊勢) はるばると 思ひこそやれ 武蔵野の ほりかねの井に 野草あるてふ(紀貫之) 沁みてしる 人もありけん おのずから 堀兼の井の そこのこころを(西行) いまやわれ 浅き心を わすれみす いつ堀兼の 井筒なるらん(慈円) 井はほりかねの井。玉の井。走井は逢坂なるがをかしきなり。(清少納言「枕草子」) など和歌や文学作品に数多く登場することから、平安時代以前に掘られたものと考えられている。
★童謡「春の小川」を思い出しながら、暖かい日差しを浴びてのんびりと歩いてゆくと常泉寺観音堂に出た。観音堂の裏に七曲井がある。
★昼食後は県道50号線を北に進み、西武線を越えて行くと立派な狭山市役所の建物が見えてきた。市役所を過ぎると左手に武蔵野三十三観音霊場の十六番札所・慈眼寺があり、さらにその先右手には狭山八幡神社がある。ここは新田義貞が鎌倉に攻め上るときに必勝を祈願した神社で、義貞の馬をつないだ「駒つなぎの松」があるが、今は根っこが残っているだけである。
★間もなく国道16号線と出会い、入間川に沿うように左折すると「清水冠者源義高終焉の地」と大書した看板が立つ小さな神社に着いた。清水八幡宮である。木曽義仲の子・清水冠者源義高は6歳の時に人質として源頼朝のいる鎌倉に送られた。成人して頼朝の娘・大姫と結婚したが、父義仲が頼朝と不仲となり誅殺されると、義高も頼朝の嫌疑を受け、女装して奥州藤原氏を頼って逃げる途中、ここ入間川の八丁の渡しで頼朝の手勢によって殺害された。政子と大姫によってこの清水八幡宮が造営された。
★この辺りは自衛隊入間基地の近くなので、頻繁に離着陸する輸送機や戦闘機が頭上をかすめるように飛んでゆく。この爆音を一日中聞かされるのは大変だろう。
[参加者]鮎沢、石井(英)、石井(主)、梶原(2)、金子、金児、小島、 |
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★中央線の高架化工事が終わり、武蔵境駅周辺も大きく変貌しつつある。その武蔵境駅南口から5分ほど歩くと杵築大社である。本殿の右に恵比寿様を祀った社がある。1月も下旬になるので七福神めぐりをする人も少なく境内は静かであった。境内の一角に富士塚があり、全員で富士登山をして頂上の浅間神社にもお参りをした。
★杵築大社を後にして、建築工事中の日本獣医生命科学大学の前を行くと武蔵境通りに突き当り左折した。この道は現在工事が行われている調布保谷線の一部である。すでに歩道や自転車道が完成している部分もあるが、完成はしばらく後になりそうである。ちなみに西東京市内の東伏見神社から北町までの部分はこの三月に完成予定である。
★東京都水道局境浄水場の所からグリーンパーク遊歩道に入った。この道は戦前の中島飛行機の引き込み線の跡地を遊歩道としたものである。細い道だが歩きやすい絶好の散歩道である。今はカンツバキが咲いていたが、四季折々に様々な花が咲く。
★五日市街道に出てまもなく延命寺に着いた。ここには毘沙門天と寿老人が祭ってある。両方とも大きな石像で野外に立っている。
★延命寺から大法禅寺までは武蔵野市の静かな住宅街を縫って歩く。途中に成蹊大学があり、有名なケヤキ並木は葉をすべて落として立木の列であった。
★大法禅寺には福禄寿が祭ってある。ここも大きな石像であるが、それよりも目を引くのが門を入ってすぐ右手にある吉祥菩薩像である。
★大法禅寺から5分ほど歩いて五日市街道に出ると安養寺がある。青い毛糸の帽子をかぶり、白い涎掛けをした六地蔵が並ぶ参道の奥に山門がある。ここには布袋尊が大きな腹を揺すって笑って立っている。安養寺に隣接して五日市街道と吉祥寺通りの交差点の角に武蔵野八幡宮がある。いつもバスの車窓から眺めているが入るのは初めてである。繁華街にあるので表から見ると小さな神社に見えたが、入ってみると境内はかなり広く、本殿も立派である。大黒様は参道右手の小さな祠の中にひっそりと鎮座していた。
★武蔵野八幡宮のお参りを終わって出ようとしたら、鳥居のすぐ横に「神田御上水 井之頭瓣財天」と書かれた石塔があり、その横の小さな祠の中に弁天様が祭られていた。我々は井の頭公園の池の中の弁財天へ行くつもりでいたので、意表を突かれた感じであった。時間も丁度正午でお腹も空いてきたので、これで七福神めぐりを終わりにして昼食にしようとも考えたが、折角なので井の頭公園へ行くことにした。吉祥寺の繁華街を通り抜け、坂を下って井の頭公園に入るとそれまでの賑やかさが嘘のような静かさである。ボート場も冬の間は休みで、すべてのボートは繋がれていた。
★井の頭弁財天にお参りして、七福神めぐりが終わったのは12時20分。武蔵境駅を出発してから2時間50分、約10㎞の散歩であった。
[参加者] 鮎沢、梶原(2)、小島(2)、竹下、浜、臼井、中村 以上9名 |
♪BGM:Ripple[明日晴れるかな]arranged by Ripple♪ | ||||||
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