いなほ随想
国民総幸福(GNH)を掲げる国ブータン紀行
ご成婚パレードで青年国王のサインをゲットした私

山本浩(29政経)
文・写真

ブータン王国の地勢図(山本浩作成)

◆雷龍の国ブータン紀行は、1枚の年賀状から始まった

★雷龍の国ブータン、それは東真理子さんから頂いた今年(2011年)の年賀状から始まった。東さんは3年前、御主人の豊久さんにエベレスト街道トレッキングをガイドして頂いたご縁があってその後も色々情報を頂いていたが、今年はブータンを企画したいとのことである。実は家内がエベレストを見にネパールへ行った話を友人にした処、ネパールも良いけれどもブータンの方が遥かに素晴らしいと言われ、ずーっと気にかかっていたらしい。

★私もヒマラヤの小国ながら世界の注目を集め始めているこの国に興味はあったが、なんと言っても今年(2011年)のメインテーマは7月に予定している「チロル・ドロミテトレッキング」であり、年内に2度海外に出掛けることに抵抗があったが、折角のお誘いでもあり素気無くお断りするのもと思い、およその行程と概算見積もりをお願いすることにした。

★頂いた見積もりを見て不審に思ったのは8日間の行程なのに、遥かに遠いヨーロッパ旅行の10日分以上の金額になっている。 早速そのことを言って再見積もりのお願いをしてしまったが、これは私がブータン王国の観光事業に対する取り組み姿勢を知らなかったことよるもので、些か申し訳ないことをしてしまったと思っている。この内容については長くなるので後に譲るが、ブータンの知名度や今年のスケジュールの関係で我等グループの参加人員は少なく混成部隊になることは初めから予想していた。

◆秋に若きブータン国王が結婚するという話が伝わる

★夏も近まる頃になって、秋にブータン国王が結婚するという話が伝わってきた。ひょっとすると我等の訪問と同じ時期になるかもしれない。そうこうするうちに夏のチロル・ドロミテの旅も大満足の結果に終わり、いよいよブータンに本腰を入れねばならなくなってきた。

★ブータンはほぼ沖縄と同緯度、九州ほどもない面積で人口も70万に満たない小国である。しかもヒマラヤ山脈の南麓に沿った山国で平地は僅かに川の周辺に限られているといっても良いかもしれない。ブータンの国際空港はパロ1箇所のみ、というのは3000mの滑走路を作れる場所が此処しかないからだそうだ。

◆国王の結婚式の5日後、ブータンへ出発

★ブータン国王の結婚式(10月13日)からは少し遅れたが、我等は一行9名で10月18日出国、バンコクを目指した。日本からブータンへの直行便はなく、タイ、インド、バングラディシュ、ネパールの何処かからドウルクエアー(ロイヤルブータンエヤライン)でしか入国できない。折りしもバンコクではメコン川の氾濫で、国際空港は無事だったものの着陸前の上空から都市一面の冠水状況が見て取れた。

冠水したタイの首都バンコク ドウルクエアーのブータン国旗をあしらった尾翼

◆バンコク経由でブータンへ

★ドウルクエアーのバンコク発時刻が早いのでバンコクに一泊せざるを得なかったが、厄介だったのはスーツケースを受け取って一旦タイ入国、泊まるといっても翌朝3時起きの3時45分出発には参った。ドウルクエアーの使用機は114席のエアーバスA319で世界最小の国際線と言われた頃より改善されているが、それでもブータン直行ではなく、インドのバグドグラで給油してからパロに向かう。


★バグドグラはよほど大きな世界地図でないと出ていないような所だがダージリンに車で3時間程度と近いからか結構乗降客が多かった。

★バグドグラからパロは約25分と一飛びだが、嬉しかったのは水平飛行に移って直ぐ世界第3位の高峰カンチェンジュンガ(8586m)を眼の辺りに見ることが出来たことだ。直ぐ側にはジャヌー(7710m)と思しきスフインクスのような奇峰も見えている。

カンチェンジュンガ(8586m) ジャヌー(7710m)

◆新婚の国王夫妻が皇太后宮を訪問されると聞いて

★10時5分パロ川(パロチュ)の河川敷の空港に到着。ガイドのリンチェンさん、ドライバーのニマさんの出迎えを受け、カタという歓迎の白布を首に掛けてもらう。はじめはパロ市街観光後昼食の予定だったが、間もなく新婚の国王夫妻が先代(4代)国王の母ケサン・チョデン・ワンチュク皇太后の住むウゲン・ペルリ宮にお見えになるというので急遽予定を変更、パロ市街の西端にある宮殿へ急いだ。

パロ・チュ(川)と滑走路
ドウルクエアーのエアーバス パロ空港

★今日は国王夫妻がお見えになるというのでパロ市内は休日、市街の家々にはお祝いの旗ルンタ(風の馬の意)がはためき玄関には国王夫妻の真影が掲げられている。我等と同じくご夫妻の晴れ姿を一目見ようと宮殿に向かう人達の民族衣装は精一杯の晴れ着のようだ。

パロ市街の祝い旗ルンタ ウゲン・ペルリ宮前

◆お出迎えの群衆に混じって国王を待つ

★宮殿の正門前に着くと道の両側には慶祝の幟が立ち並び、ご夫妻をお迎えする人達がぎっしりで今や遅しと待ち受けている。警備の人から国王夫妻にはカメラを向けないように注意があり一寸残念だ。

★今回のロイヤルウエディングの主は2006年5代国王に即位されたジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク31歳、ジェツン・ペマ王妃21歳の若々しいカップルである。やがて100m位先で車を降りられたお二人が回りに笑顔を振りまきながらゆっくりとした足取りで左手から歩いてこられた。

★とその時、私の手前10mくらいの所で国王が立ち止まられたので何事かと思って首を伸ばしてみると、歓迎の列の中からお二人の写真と思われるものを国王に差し出している人がいる。国王は気軽にそれを取ってサインをして返し、又歩き出された。写真を撮ってはいけないといっていた警備の隊員たちにも格別の動きはない。

◆「コングラチュレーション」と挨拶したら立ち止まられ、サインをゲット!

★その時私に“ひょっとして”が閃き、お二人が目の前に差し掛かられる瞬間、「コングラチュレイション!」と手持ちのメモ帳を差し出した。なんと国王は何のためらいもなく私のメモ帳を受け取ってご自分のファーストネーム「J’gme」とサインしてくださったではないか。宮殿の正門の方に歩いて行かれるお二人の後姿を見送りながら、目くるめく思いでただ呆然とつツ立っている私であった。

5代国王夫妻 王様のサイン
ブータン王国のシンボル雷龍

★周りの仲間から「良かったね」「凄いね」と賞賛の言葉をかけられる。確かに芸能人やスポーツ選手からサインを貰ったのとは訳が違う。小なりとはいえ、国連にも加盟している一国の元首である国王陛下の、しかもロイヤルウエディング直後のサインである。私のブータン旅行の最大の焦点は思いもかけなかったこの出来事によってブータン入国の初日に極わまってしまったといっても過言ではない。

◆国王夫妻が国賓として日本へ

★その後、新婚のご夫妻はハネムーン旅行の先に日本を選ばれ、2011年11月15日〜19日国賓として来日され、先ず東北の被災地を訪問して子供達を励まされるなど新聞紙上に「素朴でつつましく、かくも好印象を残した国賓は余り記憶にない」と絶賛されている。


★東日本大震災の直後には100万ドルの義援金が日本に送られたほか、ブータン東部奥地の渓谷で日本蝶類学界調査隊によって80年振りに確認採集された「幻の大蝶」ブータンシボリアゲハ5匹の内2匹がワンチュク国王の側近を通じて調査隊に贈られるなど親日の度合いは真に深いものがある。

ブータンシボリアゲハ

★この遠因は何処にあるのか、日本とブータン交流の歴史を調べてみると、1913年未だ存在さえ知られていなかったブータンに足を踏み入れたのはチベット大蔵経を求めてヒマラヤ越えに挑んだ僧侶、多田等観だった、それから半世紀後お忍びで来日中のケサン・ワンチュク王妃に接触した中尾佐助が植物の起源と伝播の研究のためカリンポンから単身ブータン入国を実現し半年滞在している。

◆ブ−タンの農業指導に尽くした西岡京治さんの遺徳

★然しなんといっても大きかったのは1964年コロンボ計画(国際協力機構の最貧国支援計画)の専門家として農業指導の為、西岡京治・里子夫妻がパロに着任したことだろう。高収量を上げる野菜栽培指導や米の品種改良に尽力した西岡京治氏には1980年英国のサーに当たる最高の称号「ダショー」が与えられ(外国人としては初)1992年59歳にして現地で病死した際には国葬をもって弔意を示された。

西岡チョルテン

★尚、来日中のワンチュク国王夫妻歓迎の宮中晩餐会(11月16日)には西岡里子夫人も招かれており、西岡さんの死後纏められたブータンの植物や農業に関する書籍を国王に贈呈するべくブータン女性の民族衣装「キラ」を着て出席されたとのことである。ブータン王家と日本の皇室外交の親密さも忘れることは出来ない。

★駆け足でブータン小史を繙くと仏教文化の影響を受ける以前のブータンについては殆んど何も知られていないが、恐らく4000年以前頃から人の定住はあったらしくヒマラヤの北、チベットからは南蛮(ロモン)と呼ばれていた。

★6世紀から7世紀に架けてチベットを始めて統一したソンツエン・ガンポ王の影響はインド、ネパールにも及び、ブータンには彼が建てたとされる二つの寺パロのキチュ・ラカンとブムタンのジャンパ・ラカンがありこの時をもってブータンへの仏教伝来としている。

◆第二の仏陀と崇められるグル・リンポチェ

★8世紀にはインド人の高僧パドマサンババ(グル・リンポチェ)の活躍で本格的な仏教文化の普及が始まる。我等が半日かけて訪れたパロのタクツアン僧院やブムタンのクジェ・ラカンは彼の布教の軌跡を伝える聖地である。グル・リンポチェはブータンにあって第二の仏陀として崇められており、広く僧院や家庭でも祀られているが両脇に二人の女性(一人はインドの王女メンダワラ、もう一人はチベットの王女エシエ・ツオギエル)が侍っているのはグル・リンポチェの像や仏画に違いない。

パドマサンババ(グル・リンポチェ)

★9〜10世紀には本家のチベットでの仏教弾圧や動乱があり、チベット仏教が目覚しい発展を遂げるのは11世紀以降のことになる。各派が乱立して布教競争の時代が続いた後、14世紀末モンゴル勢力と組んで諸派との権力闘争に勝利したゲルク派が今日のダライ・ラマに繋がるわけだが、これ等と別天地を目指したのがドウク派のンガワン・ナムゲル(シャブドウン)である。

◆国家の礎を築いたンガワン・ナムゲル

★1616年ドウク派が地歩を築いていた西ブータンに亡命したンガワン・ナムゲルは、宗教的カリスマと政治力で各地に拠点となるゾン(寺院と地方行政の中核機能、古くは軍事的砦となる建物)を建設し、群雄割拠の状態のブータンを一つの国家としての枠組みに収めることに成功しただけでなく、再三にわたるチベット軍やモンゴル軍の侵攻を撃退した。

ンガワン・ナムゲル(シャブドウン)

★この難事業に成功したンガワン・ナムゲル(シャブドウンは代々の転生佛が受け継ぐ呼称だが、ンガワン・ナムゲルを指すことが多い)はドウク派を国教とし政教一致の国体を持つ「ドウク・ユル(雷龍の国)」の誕生を宣言した。ちなみにブータンという名称は元々インド人がチベットを指して呼んだ言葉に由来し、その後ヨーロッパ人がヒマラヤにある国を指す言葉として定着したもので、ブータン人は自身の国は「ドウク・ユル」といっている。彼が打ち立てた統治体制はユニークなもので、自らは精神的な国家元首となり政治的行政的な事柄はデシ(摂政)が担当し東西南にペンロプ(行政官)を置き、仏教教団はジェケンポ(大僧正)にゆだねられた。

◆イギリスに多額の年賦金を支払わせるしたたかさも

★ブータンは群雄割拠の時代、地方領主が屡インド平原の侵略を行っており、東インド会社がこの地方(ベンガル・ドウアール地帯)に食指を伸ばし始めた為に1864年にはイギリスとの全面戦争(ドウアール戦争)となった。結果としてブータンはこの地方を失ったがその見返りとしてイギリスは多額の年賦金を支払うことになり、これがインドが独立した現在も続いているとはなかなかのしたたかさである。

★この戦争で大いに実力を発揮したのはブータン東部のトンサ・ペンロプのジグメ・ナムゲルで、彼はグル・リンポチェに繋がる高僧ペマ・リンパ(古派、ニンマ派)の子孫という由緒ある家系に加えて素晴らしい能力でトンサ・ペンロプになり、僅かの間に他のペンロプ、豪族達を凌いでブータン最大の実力者となった。

◆初代国王に選出されたワンチュック家の祖ジグム・ナムゲル

★1870年から3年間、彼は第48代デシ(摂政)に就き実質上のブータン支配者となったが、その子ウゲン・ワンチュックもまた父親の後継者として遜色のない人物で、1907年に政府高官、仏教界及び民衆の代表の全員一致でドウク・ゲルポ(ブータンの王)の称号が与えられ、初代国王に選出された。戴冠式が行われた12月17日はブータンの建国記念日に制定されている。

初代国王ウゲン・ワンチュク
wikipediaから転借


★彼の息子が2代を継ぎ、更にその息子が3代国王となったが、このジグメ・ドルジェ・ワンチュックは近代ブータンの父といわれる王で、国民は初めて近代的教育を受けるようになりインドを初めとする各国の技術援助で自動車道路の建設、農業改良、水力発電などの共同事業、近代的行政システムの整備、国会、省庁、高等裁判所、通貨、銀行、郵便制度の設立等僅か20年でブータンは中世から20世紀に突入した。

3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクの肖像入り50ニュルタム紙幣

★一方、1959年のダライ・ラマのインド亡命、それに続く中印紛争の勃発で伝統的に強かったチベット世界への帰属意識を180度方向転換して南のインドに向かうこととした。そして1971年には国連加盟を果たすなど国際社会の中で独立国としての地位をアッピールする積極的外交政策でこの難局を乗り切っている。然しその1年後、開明君主3代国王はナイロビで急死。長男のジグメ・シンゲ・ワンチュックが弱冠16歳で4代国王となった。

◆「ブータンの発展・進歩の尺度は、国民総幸福」を宣言した4代国王

★1974年の4代国王戴冠の際、初めて国際メディアがブータンに入り、世界で最も若くてハンサムな国王が統治するお伽の王国として紹介したが、程なくして国王は「ブータンの発展及び進歩の指針尺度は国民総生産(GNP)ではなく国民総幸福(GNH)である」と声明した。

4代国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクの肖像入り100ニュルタム紙幣

★これは経済的発展を最大の課題としてきた先進諸国の方針に一石を投じたもので、人間は物質的な富だけでは幸福になれず満足感も充足感も抱けない、経済的発展や近代化が人々の生活の質や伝統的価値を犠牲にするものであってはならないという信念である。具体例として近隣諸国が犯した過ちを反面教師として国土に占める森林の割合が60%を下回らないことを定め、動植物の生態系を守り環境を保全することや国家歳入の40%を占める水力発電も村落の水没を招くダム建設は避け、川の流れの落差のみを利用するに留めている。

★全国民に浸透しているチベット仏教による精神文化、公式の場での民族衣装着用による伝統的織物技術などはブータン独自のアイデンティティを形成している。

◆成文憲法、政党、内閣制などを導入した父王から若き5代国王へ

★1990年代後半から4代国王は成文憲法の制定、地方分権の確立、政党政治、内閣制の導入など国王親政の政治形態からの脱却を目指した。2008年7月には国王の署名によって憲法が成立し、立憲君主政体への移行という国王主導による民主化を行っているがこの署名は4代国王の長男で5代国王(現国王)となったジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュックによるものであった。

★4代国王は未だ充分の若さでありながら2006年12月に譲位し、首都ティンプーの奥地にあるサムテリン宮とはいえ質素な小屋で読書と瞑想の日々を送られているという。院政という言葉がつい浮かびそうになる我等だが、前国王には全く無縁のことのようである。4代国王は大変な親日家で昭和天皇大喪の礼や立太子礼にも来日し民族衣装をまとった威厳のあるお姿が多くの感銘を与えている。

★ブータンが親日的であるのは体形顔付きが日本人と大差ないことへの親しみもさることながら、その名前を冠するチョルテン(仏塔)まで与えられたダショー西岡京治をはじめJICAなど多くの日本人の努力があったことだろう。更に両国が近世史において置かれた立場を見れば、列強の大国に囲まれて厳しい状況にありながら、それを跳ね除けて生き延び向上しようとする小国の生き様に共感するものがあったというのは、私の勝手な思い込みであろうか。

★駆け足の心算のブータン小史が長くなってしまったが旅の感想に移りたい。

◆新婚国王夫妻との感激の出会いを胸にドウク派の大寺院パロゾンへ

★パロは標高2300m前後の谷合の集落だが、仏教伝来の最初の聖地であり、古来チベットとインドをつなぐ交易路が直ぐ西を走り、その経済力と情報量を背景にパロペンロプ(行政官)は現王朝の祖トンサペンロプを凌ぐ勢いがあった。

★我等は感激の新婚国王ご夫妻お出迎えの後、レストランチャロ(友人の意)で昼食を済ませ、パロゾンの見学に行った。最寄の地点までの移動はコースターという20人乗り位のボックスカーでドライバーはニマさんが最後まで勤めてくれる。

★パロゾンは17世紀にブータン統一を果たしたンガワン・ナムゲルが軍事的政治的拠点として各地に整備した城塞の一つでドウク派の大寺院であると共にゾンカクと呼ばれる地方行政庁の役割も持っている。ゾンの基本構造は住居や執務室になる回廊式外壁が四方を囲み石畳の中庭に天守閣のような中央棟ウツエが聳えている。

パロ・ゾン パロ・ゾン入り口階段
パロ・ゾン中庭にて筆者夫妻

★ゾンはその性格上山の中腹にあることが多く、パロゾンも車を降りて歩き最後は階段の上りになる。私はバンコックからの睡眠不足と2300mの高度のせいか若干の高度障害を感じていてこの階段が辛く応える。ゾンや寺に入るにはドレスコードがあり、ゾンの前庭に立つラダル(四方を守る守護獣が描かれた幡)から先は正装でなければならず、ブータン人は男はカムニ(肩から掛ける白布)女性はラチュ(端に房がついた手織りの布)を着けて進む。

◆礼拝は五体投地礼で

★観光客も脱帽してサンダル、ミニスカートなどカジュアルな服装は避けねばならないし、寺院に入るときは靴を脱がねばならない。本尊の撮影は禁止、仏像は様々だが釈迦如来の他に仏教伝来の祖グル・リンポチェ(パドマサンババ)やブータン統一のンガワン・ナムゲル(シャブドウン)が多い。礼拝は五体投地礼(クムチャ)で仏像が多くある場合は時計回りに拝んでいくのが基本とされている。カソリックに似ているが僧侶から聖水(ブムチュ)を勧められたら手のひらに受け口に含むまねをして頭や身体に振り掛ける。

★愉快だったのは、お賽銭で5ニュルタム(1Nuは約2円)くらいとされているが、各仏像の前に賽銭皿が置いてありそこに紙幣を積んで(コインはあるらしいが殆んど流通している気配はない)お参りする。然し回数が多いので小額紙幣はすぐになくなってしまい困っていると、お釣りを賽銭皿から取ってくれば良いと教えられた。お賽銭のおつりを貰う経験は初めてだった。

★パロゾン見学の後一旦宿舎に入る、パロ西方郊外で黄金色の実りの田の中に建つ「ジャンカ・リゾート」メイン棟の周りにウッディなコテージが繋がって建っていた。

ジャンカ・リゾート

◆ブータン最古の寺院キチュ・ラカンを訪ねる

★一休みの後にキチュ・ラカンに出掛ける。この寺は7世紀にチベットを始めて統一したソンツエン・ガンポが魔女の力を封じる為、その身体の108のツボに当たる場所に建てた寺の一つで此処は左足の部分になるという。確認できるのは13世紀頃までらしいがいずれにしてもブータン最古の寺であり釈迦を中心に複数の十一面観音が安置されている。中庭に蜜柑の木があって、この寒冷地で実を付けるのは聖地のパワーの働きとブータン人は言っている。

★1968年建立の新堂には3代王妃ケサン・ワンチュクによるパドマ・サンババの巨像が安置されている。寺の裏に回ってみたら薪を積んだ竈があった、これは死者を火葬にする竈で骨灰は川に流すことになっているのでブータンにはお墓はないと知らされた。

キチュ・ラカンの僧侶 キチュ・ラカン
火葬の竈

★ブータンでの食事は例外なくバイキングで本来唐辛子の入った激辛の食事が多いのだが、キッチンスタッフが鍋ごとに辛さの度合いを教えてくれるので心配することはない。豆やジャガイモを使った料理が多いのはネパールに似ていた。ビールに「レッドパンダ」というのがあり、どんな種類のパンダかと思ったらレッサーパンダのことだった。

★部屋では電気は全く問題なし、飲み水は(ブータンの水は硬水で飲料不適)ペットボトルのミネラルウォーター、シャワーのお湯の不安定さが問題になることが多かった。

◆清流パロチュの岸を散歩の後、岩壁上のタクツアン僧院に向かう

★10月20日鳥の鳴き声に目覚め、宿舎の前を流れるパロチュの岸を散歩する。勢いよく流れる清流の気を浴びて歩くのは気持ちが良い。未だ刈り取りが済まない田んぼ道を母と子が行く。もう学校へ行くのか、ちゃんとゴを身にまとい教科書が入っているらしいリュックを担いでいる、おかあさんが持っているのは弁当か。ブータン人の識字率は2007年現在で54%、小学校の就学率は全児童の89%に達している。

★田んぼの中にエーット思うものを見つけた、これは間違いなく案山子だ、西岡さんの農業指導の象徴のような気がした。

通学の母子 西岡さんの置き土産の案山子

★今日訪れるタクツアン僧院はブータン人の信仰の最も熱烈な対象となっているパドマサンババが8世紀クルテ地方から虎の背に乗って西ブータンにやってきた聖地(タクツアン=虎の巣)を意味している。タクツアン僧院は標高3000m、垂直に切り立った屏風のような岩壁(片麻岩)に鎮座していて岩棚に舞い降りたごとき僧院にはとても近づく道があるとは思えない。

★我等は車でパロチュに沿って北上し何度か牛さんに道を遮られながら30分ほどでタクツアン僧院への上り口に到着した。此処には僧院を目指す人達の車や馬が沢山たむろしている。少し進んで林の木の間から遥か上の方に僧院を見ることが出来たが、これはなかなか大変だと気を引き締める。上り口の水車で経筒を回すマニ車(マニ・チュコル)に見送られ、上り始めると道端に布を敷いて仏像や仏具、仮面を並べて売っている人達がいたが本当に古いものはないらしい。

水車のマニ車 仏像、仏具、仮面売り

◆ガイドがネパールのレッサンピリリを歌うのに驚く

★1時間半で2850mのレストハウスに着きコーヒーブレイク。此処から更に亜高山帯の針葉樹林を縫って僧院が目線の高さに見える展望台に登る、ガイドのリンチェンさんがレッサンピリリを歌いだした、かってエベレスト街道を歩いた時シェルパに聞かされた懐かしい歌だ。民族構成で2/3がチベット系、1/3がネパール系というからネパールとの文化的交流もあるのだろう。

★少し以前までは観光客が入れるのはこの展望台までで、この先階段を300m程も下って滝壺から再び僧院へ登り返すこの道は許されていなかった。これは正に日本にあっては修験の道でとにかくきつい。上り始めてから3時間で何とか聖地タクツアン僧院の中心タクツアン・ヘルプに辿り着いた。

タクツアン僧院群 タクツアン・ヘルプ

★身なりを整えて脱帽、靴を脱ぐのは同様だが、此処では入り口でカメラを預けさせられた。僧院の中も階段の上り下りがあり迷路のように入り組んでいる。仏像仏画に取り巻かれた院内を通り抜けて外に出た時にはなんだかホッとしてしまった。帰りも下り一辺倒ではなく滝つぼに下って又上り返さねばならない、恥ずかしながら上り階段の途中で目眩に襲われ暫く座り込んでしまった。暑さと疲れ、高度障害の影響もあったかもしれない。

◆首都ティンプーへの途中、谷に転落した車の事故現場を通過

★展望台での昼食はさすがに食欲なし。水分だけは意識的に補給したので何とか持ち直し、この後の駐車場への下りは快調に僅か40分で問題なかった。我等の車はパロチュに沿って南下、このまま首都ティンプーに向かう。出発して直ぐ谷へ転落した車の現場を通り過ぎた。

滝壺へ 展望台(昼食)

★ブータンの道は山腹に作られていることが多く殆んどが未舗装の上にガードレールが全くなく、たまにお印程度にブロックがおいてあるくらいなので車の転落事故は珍しいことではないらしい。帰国までに更に2回転落事故を見ている。この事故では6人の大学生が亡くなったと聞いたがブータンには大学は1校しかなく、その場所は首都ではなく東部タシガンの南カンルンにある。ブータンの発展が西部に片寄ることを避けるための配慮であると聞いた。前途有為な青年達がはるばる西のパロに旅しての事故であるだけに痛ましい。

◆3150m〜3800mの5つの峠を越える東西横断道路

★ブータンの国土は東西に長く、パロから中央部のブラックマウンテンを越えてタシガンに達する590kmの東西横断道路が大動脈(国道1号線とも言う)である。しかもこの道路は3150m〜3800mの5つの峠を越えるというから大変な道である。

★パロ〜ティンプーは2008年にブータン唯一2車線(東西横断道路は1.5車線)のハイウェイが完成しており、ワンチュとの合流点チュゾムから北上する。

★ティンプーの入り口にワンチュとティンプーチュが合流する地点シムトカがあり、左へ行けばティンプー右へ行けば古都プナカだが東西交通と共にティンプーとプンツオリンを結ぶ南北交通の交点で、1629年ブータン建国の父ンガワン・ナムゲルはブータン統一に当たって最初にこの場所にゾンを築いた、それがシムトカゾンで西ブータンにおけるドウク派の拠点として重要な役割を果たした。

◆標高2400mのホテル・チョモラリへ入る

★ティンプー到着17時40分、標高約2400m、ホテル・チョモラリへ入る。チョモラリというのはブータンヒマラヤ西部7314mの高峰の名称でブータンの人々には大変人気があり、4090mのベースキャンプ往復6泊7日のトレッキングルートがある。


チョモラリ7314m

★ブータンのホテルに高層のものはなくエレベーター、エスカレーターの類は一切ない(あるのは総合病院のみ)、メンバーの部屋はみな2階なのに何故か私と同室の舩本さん(2人1室)だけが3階になった。又また情けない話だが2階から3階へ上がるこの1階分の階段がやたらきつかった。

★ティンプーは首都であり人口7万人、ブータン一の都会ではあるが街の南端のルンテン・ザンパ(予言の橋)から北へ伸びるメインストリートのノルジン・ラム(ラムは通り)は、結構な上り坂で所々に階段があって歩き辛い。
ルンテン・ザンパ橋


★この街には交通信号機もなく、ノルジン・ラムとチョルテン・ラムの交差点にはかっこいい交通整理のお巡りさんがいて、優雅に車を捌いていると聞いていたが、行ってみた時は残念ながら不在だった。

★翌21日6時半起床、朝食の後少し時間があったのでルンテン・ザンパ橋まで散歩、欄干越しにティンプーチュの流れを眺める、7時半は通勤通学の時間らしく橋を行きかう人が多い、橋の袂の広場は自動車置き場らしいが、未だ車は殆んどなく、恐らく数千羽はいたと思われる鳩が群れていた。

◆予定を変更してサンゲガンハイキングに出かける

★乾季の今にしては珍しく特に午後は天気が崩れそうというので、予定を変更して午前中にサンゲガンハイキングに出掛ける。サンゲガンというのはBBS(ブータン放送)の放送塔があるピーク2500mで、ティンプーの街が一望の下に見下ろせる。塔の周りには無数のダルシン(経文旗)が色とりどりにはためいていた。

★少し下ってティンプーチュと併行に高低差の余りないルートを往復2時間のトレッキング、歩き始めると程なくティンプー北部に位置するタシチョゾン(国王の居所でありドウク派仏教の総本山)が眼下に見て取れるようになる。道はトレッカーがすれ違える程度の幅で、針葉樹林帯、路肩の植物には薬草もあるらしくチラタというお腹の薬草も教えてもらったが、自分で見つける自信はない。犬が我等の後になり先になりしてついてくる、野良犬は町でもよく見かけるが、宗教的背景で生き物の迫害を嫌う国民性のためか犬のほうも悠々としているように見える。

サンゲガンからタシチョゾンを俯瞰 色とりどりノダルシン

★1時間ほどでチョコルツエ・ゴンパに着く、余り訪れる人も無いようで一部壁が崩れ、寂れた感じの僧院だったが風格のある堂守が殆んど自由に院内を見せてくれたのは大きなゴンパのやや硬い雰囲気とは違って大変ありがたかった。実は更にこの上3700m付近にはブータンに初めてドウク派を伝えたパジョ・ドウゴム・シクポが13世紀に開いたパジョディン・ゴンパがあり周辺はヤクの放牧地になっているが残念ながら訪れる時間はない。

チョコルツエ・ゴンパ堂守、 釈迦如来

◆珍獣ターキンをカメラに収める

★来た道をサンゲガンへ戻り、牛科の珍獣で高山に生息するターキン(ブータンの国獣)の放牧場を見に行ったが、心配していたように雨が降り出し、何とか近くにいたターキンの写真を撮って早々に退散、市内に帰りティンプー指折りのレストラン「ブータン・キッチン」へ行く。外国人向け本格的ブータン料理の店で各地の代表料理がある、特別印象に残った料理はなかったがビールにデンマークのカールスバーグがあったのには一寸驚いた。

ターキン

★さすがにこの店ではグループの外国人観光客にも出会ったが、観光収入が国費のかなりの部分を占めるにも拘らず無秩序な観光拡大をしようとしないのはやはり文化伝統を守りながらの発展を目指すGNH政策の一環と思われる。

◆観光客の無秩序な流入を絞るシステム

★ブータン入国にはビザの申請をして滞在中の宿泊所、日程、行程を全て届けねばならず、ブータン滞在1日について200USドル(現在は250ドルになったと聞いている)を支払わねばならない(パッケージツアー方式)。従ってテントを担いで安く旅をするバックパッカーは事実上不可能となる。国際便の使用機は3機のみという話もありホテルも潤沢にあるわけではないので、1年前からの手配は大袈裟な話ではない上に他国旅行に比しての割高感が期せずして観光客の無秩序な流入を絞る結果となっているようだ。

★雨の中を郵便局やみやげ物店に寄り一旦ホテルに帰って夕刻タシチョゾン見学に出掛ける。空は暗灰色に曇り山を見上げると雪、ティンプーの雨は高地の雪を呼んだらしい。タシチョゾンとは祝福された宗教の砦を意味し名付けたのはンガワン・ナムゲル、建物は釘を使わずミゾとホゾだけで木組みをするブータンの伝統的工法で建てられている。

◆タシチョゾンを見学する

★ゾンの構内に入るにあたって脱帽など服装を整えることは当然だが、小雨模様で大した影響はなかったにせよ傘をさすことも禁じられ、国王の居室部分にはカメラを向けないように注意される、国王の執務室は南東角の最上部、ジェケンポ(大僧正)の居室は北東の角にある。こうしてみると一昨日、国王から直にサインを頂いたなど夢のまた夢のことのように思い起こされる。内部は広々とした空間が広がり鮮やかな装飾と仏像、仏画で飾られていた。

タシチョゾン タシチョゾン壁画

★外へ出ると日は既に暮れて外灯のない道は暗かったが、建物の屋根を縁取るライトアップが鮮やかに建物を浮かばせていた。

タシチョゾンのライトアップ

★明けて10月22日、1955年ティンプーが首都になるまで現王政以前から300年にわたって首都であったプナカへ向かう。右手の山腹に殆んど完成しているティンプー大仏を眺め、正面のシムトカゾンから左折ワンチュに沿って急坂の道を北上する。ブータンの道は1km当たり17回のブラインドカーブがあると言われる程でドライブの心地は良いとは云えない。

ティンプー大仏

◆心を癒すブータン・ミュージックを聴きながらドチュ・ラへ

★同行の東さんがブータンミュージックのCDをかけてくれた。ダムニエン(7弦の楽器)等の民族楽器を使って演奏される音楽は柔らかに安らぎを与えてくれる心地よい音色で正にヒーリングミュージック、メンバーの一人が「私のお土産はこれに決めた」と言ったのも頷ける。

★リンゴ畑が点在する針葉樹林帯を抜けて40分ほどでホンツオの検問所(ビザ申請時に経路の許可も得ているので改めての検問はない)に着く。此処はチベット動乱時にブータンに帰化した住民が多く道端でリンゴや乾燥チーズを売っている。リンゴは小玉10個くらいで50Nu(約100円)紐に吊るしたチーズは1連で150Nu(約300円)だが、この乾燥チーズはやけに硬くて此の儘では食べられない。ブータン人は口に含んでもごもごやって柔らかくなるのを待って食べるというのでやってみたが1時間は優に掛かった。味も殆んどなくブータン人にとってはチューインガムのようなものらしい。

ホンツオのチェックポスト リンゴと乾燥チーズ売り

◆ブータン・チベット国境に連なるヒマラヤ連嶺の山岳展望を満喫

★ここを過ぎればもう高山帯、10分ほどで3150mのドチュ・ラ(ラは峠)に到着する。2004年、峠に完成した108基のチョルテン(仏塔)は4代国王妃ドルジェ・ワンモ・ワンチュックの発願によりドウアール戦争の勝利と戦死者の冥福を祈るためのもので、一帯は公園のように整備され、ブータン・チベット国境に連なるヒマラヤ連嶺の山岳展望を愉しめる絶好のビューポイントとなっている。然し聞くところによるとヒマラヤの景観を楽しめるチャンスは通常3回に1回とも云われ、我等のように往復2回とも楽しめたのは余程運が良いことらしい。

★峠からヒマラヤに向かって左端(西)にチョモラリ(7326m)、正面に1985年京大隊初登頂のマサガン(7194m)、右へテリカン(7304m)、ジェジェカンプーカン(7190m)、カンプーカン(7210m)、ソンゴプーカン(テーブルマウンテン)(7094m)、カングリ(7240m)、そしてブータン最高峰ガンカプンスム(7564m)、メルンギカン(7000m)と180度に繋がる大山脈の景観は正に言語に絶する圧倒的迫力を持って迫ってくる。

ヒマラヤ連峰 チョルテン越ヒマラヤ

★ドチュ・ラの東側斜面は石楠花が多く季節にはティンプー市民が花見に訪れる、峠を下り始めると樹林の間からヒマラヤが見え隠れするが1時間ほどでプナツアン・チュ河岸の棚田が見えてくるようになる。プナカへはロベサの三叉路を左へ向かうが、我等は右に折れて寄り道、古来ブータンの東西を大きく分けた要害ワンデュ・ポダンを訪れることにした。

◆崖の上に聳えるワンデュ・ポダン・ゾンから亜熱帯気候のプナカへ

★崖の上に聳えるワンデュ・ポダン・ゾン真下の橋の袂には、チェックポストが設けられ、ゾンの北側には軍の施設もあるという東西交通の要衝である。

ワンデュ・ポダン

★再びロベサから今度はプナカを目指す、プナカの標高は1250m、ティンプーより1000m以上低地にあり常夏の気配がある亜熱帯気候だ、そのためジェ・ケンポ(大僧正)以下ティンプーのタシチョゾンの僧侶達は厳しい冬の間は此処プナカ・ゾンで生活するらしい。プナカはプナツアン・チュに沿っているが市街はプナカ・ゾンより南のクルタンにある。我等はロベサとクルタンの中程にあるチミラカン・カフェテリアで昼食をとり、小高い丘の上に建つチミ・ラカンまで約30分、腹ごなしのウオーキングに出掛ける。この道の半分くらいは田んぼの畔道なのでバランスに気をつけねばならない。

★ロベサ周辺は西ブータンを代表する米所。稲の刈り取りは7割くらい済んでいたが、未だ刈り取りの真っ最中のところもある、機械はなく全て手作業、子供の頃よく見た日本の農村の原風景を思い出して懐かしい。日本では殆んど見なくなった牛たちも大事な作業の担い手のようだ、中に背中にこぶのある黒牛がいた、インド牛だそうだ。

農村風景 インド牛


◆子宝の寺チミ・ラカンに詣でる

★チミ・ラカンの手前から上りになるが、標高の差か殆んどきつさは感じない。境内のインド菩提樹の大木に子供が登って遊んでいる。ブータンはそんなに人口は多くない筈なのに元気に外で遊ぶ子供達をよく見かける。そして一様に澄んだ眼をしているのを見ると、この国の将来の明るさを思わせる。

元気に遊ぶ子供たち

★チミ・ラカンは15世紀末ドウク派の僧侶によって建立され民衆から愛されている瘋狂聖人ドウクパ・クンレゆかりの寺で子宝の寺として有名である。僧侶が子宝を望む女性にはポー(男根の形をした木の棒)で頭をなで、男性は弓矢と経と聞いていたが、面倒なのか私は両方一緒にしてなでられてしまった。

★境内の隅にはダルシン(経文旗)が何本も翻り、中央にはサンタブ(屋外の香炉で天然の香を大量に焚いて神への供物にする)が据えられている。使われる香は松や檜の葉だが、ブータンでは松は聖なるものとして扱われ日本の門松のように結界を作るものにしたり火葬の薪にもこだわって使われている

チミラカン サンタブ(香炉)
チミラカン・カフェテリア インド菩提樹

◆チミ・ラカンから北上プナカ・ゾンへ

★チミ・ラカンを後にして北上、プナカ・ゾンへ向かう。ブータンのゾンの殆んどが高所に築かれるのに、プナカ・ゾンはポ・チュ(父川)モ・チュ(母川)の合流点に1637年ブータンの創始者ンガワン・ナムゲルによって建設された。

ポ・チュとモ・チュ合流点(奥の建物がプナカ・ゾン) 巨船プナカ・ゾン

★この二つの川は氷河堆積物の差によって異なった色をしているが、ここで色は混ざりプナツアン・チュとなって流れ下っている。このような地形からプナカ・ゾンは何度も災害を受けたが近くは1994年に上流の氷河湖の決壊による洪水で被害を受けている。

プナカ・ゾン正面 プナカ・ゾン中庭

★浮ぶ巨大な船を思わせるプナカ・ゾンは、正式名称をプンタン・デチェン・ポダン・ゾン(至福の宮殿)と云い、初代国王の戴冠式、第1回国会の開催、そしてつい先日の10月13日ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク5代国王、ジェツン・ペマ王妃の結婚式が行われたのもゾン内部の寺院デムチョ・ラカンというブータンでも最高の格式を持つゾンである。

◆ブータン最高の格式を持つプナカ・ゾン

★カンチレバー型の橋梁構造で屋根のある伝統様式の橋を渡って南国の花ブーゲンビリアの脇を右へ向かうと、壁のような階段がそそり立っている。中庭を2つ抜けて3番目の中庭の正面に大講堂「キュンレイ」がある。中央に本尊釈迦牟尼仏、左にパドマサンババ(グル・リンポチェ)、右がンガワン・ナムゲル(シャブドウン)の像が並んでいる。そして周りを取り巻く壁面には釈迦の一生を綴る巨大な壁画が連なっていて、その見事さはブータン随一といわれている。

★キュンレイ右側の建物マチェン・シムチュ堂には、シャブドウンの遺体が眠っていて歴代国王、大僧正は、就任後最初にこのお堂にお参りして祈願するのが慣わしとなっている。

プナカ・ゾン橋梁を渡る カンチレバー構造橋梁
ブーゲンビリア マチェン・シムチュ堂

◆山腹の棚田の中に建つホテル・タムチェンリゾートに落ち着く

★眼一杯のスケジュールを消化、少し上がって山腹の棚田の中に建つホテル・ダムチェンリゾート1400mに落ち着く、傾斜地なので食堂などのメイン棟以外は斜面に点在し廊下や階段で繋がっている、今回は他のメンバーと違ってメイン棟とフラットな部屋だったので助かる。

★翌23日6時のモーニングコールで目覚め外を見ると一面の霧、淡い黄色にかすむ棚田の風景が美しく、外に出て様々な角度から写真を撮る。食堂の女性スタッフに何時もこんなに霧が出るのか聞いたら今朝のようなことは珍しいとのことだった。今日はティンプーを経由して一路パロまで戻らねばならない、幸い天気は良さそうだ。

★再びドチュ・ラ峠でヒマラヤの景観を楽しみ、2時間半でティンプーのランドマーク白亜のメモリアルチョルテンに到着した。チョルテン(仏塔)はサンスクリット語でストウーパと呼ばれ、元来は宗教的捧げものの奉納や聖遺物を安置する場所だった。このチョルテンは1972年に亡くなった3代国王が生前に発願したものを受け継いで1974年に完成させたもので、いわば3代国王の追悼記念碑といってもよい。チョルテンを通り過ぎるときは塔を右手にして時計回り(右ニョウ)に通らなくてはならない。

霧の棚田 京大隊が初登頂したマサ・ガン
メモリアルチョルテン

◆バザールに出かけ、法要の踊りチャム(仮面舞踏)を見る

★今日は日曜日なので日曜バザールに行ってみることにした、2階建ての広い建物に大勢の人が集まり広げられた野菜や果物の間をひしめいている。粉唐辛子50Nuとバナナの大房60Nuを買った。

日曜バザール

★ブータンで見たいものの一つにツエチュの法要(グル・リンポチェの法要)での踊りチャム(仮面舞踏)があったが、昼食の場所ドリームレストランの庭で各地方の民族舞踊と共に見ることが出来たのは幸いだった。仮面舞踏は四方を守る龍、虎、牛、ガルーダの仮面を着けて踊る躍動的なものでカメラが追いつけない激しさがあったし、女性4人が並んで歌い踊る各地方の踊りは山と谷に遮られてそれぞれが独自の文化を受け継いできたことを思わせた。

民族舞踊 仮面舞踏

★ティンプーから1時間、チュゾムを過ぎてパロチュに入り伝統的吊り橋のタチョガン・ラカンの先、一般民家とは程遠いかもしれないがタンガさんという村長さんのお宅を見学に行く。100年以上も経ったと思われる伝統的ブータン建築で1階は家畜用と便所、急な階段で上がった2階に居住区と仏間がある。

◆木製の男根と剣を交差させた魔除けのポー

★家の正面入り口の両側の壁には、ダイナミックなペニスの絵(子孫繁栄祈願)が描かれ、更に2階の庇には木製の男根と剣を交差させた魔除け(ポー)がぶら下がっている。これはブータン文化が精神的であると共に世俗的である象徴で先述の高僧ドウクパ・クンレの教えを受け継いだものであろう。

軒下のポー 男根の壁絵

★2階で先ず仏間に案内されたがスペースも広く外からは想像できないほど煌びやかに飾り立てられている。仏壇の前には寺でも良く見かけたカルチェン(バターにパラフィンを混ぜて岩絵の具で着色したお供え)が供えられていた。

飾られた仏壇
                                                          
★居室でアマ(母)さんからバター茶、穀物を炒ったお茶請け、自家製の酒アラの接待を受けた。
カデンチェ(有難う)のご挨拶をして辞去、パロ市内でお土産の買い物をしてジャンカリゾートに着いたのはそろそろ6時、周りの田んぼの稲は全て刈り終わっていた。

カルチェン(お供え物) バター茶

★ブータン最後のディナーの後で買って来たバナナを分けて食べたが、なかなかしっかりした味の美味しいバナナで大いに満足した。

◆ブータンを去る日が来た

★10月24日、いよいよブータンを去る日、食堂の入り口に日本人女性の写真があるのに気がついた。良く見るとこの部屋が出来て初めて訪問したお客とあって、なんとその名前は私と同じ山本さんとは変なご縁があったものだ。

★パロ空港でガイドのリンチェンさんとドライバーのニマさんにお礼を言ってお別れ、空港待合室に入ろうとしたらビジターズアンケートの記入を依頼された。見ると英文だがたいして英語が得意でない私でも何とか解読できる優しい言葉で丁寧に書いてある。私自身外国訪問がそんなに多くあるわけではないが、出国に際してその国の感想をこんな形で尋ねられたのは初めてだったし、ブータンが観光について真面目に取り組もうとしている姿勢が伺えて好感が持てた。

出国アンケート

◆先進諸大国の経済発展に投じた小国ブータンの一石を見守りたい

★日本に帰ってから国王ご夫妻の日本訪問でブータンは一躍脚光を浴びた感があり、会う人毎にブータンのことを聞かれ、「良い時に行ってきたね」と羨ましがられ、良い気分にさせてもらっている。

★駆け足のブータン訪問でしかも西部のごく一部しか見ることが出来なかったので、これをもってブータンを云々する心算はないが、全くの偶然でしかないのに何という素晴らしい時期にブータンを訪問できたことだろうとブータンの諸神にこの幸運を感謝したい気持ちである。

★先進諸大国の経済発展に対するアンチテーゼとして小国ブータンが投じた一石、求めるべきは富のみに非ず、人民の幸福追求こそが国是であるとするGNH政策の波紋が、これから国際社会にどのように広がっていくか見守りたいものである。(2012年2月記)    

           

♪BGM:A.Vivaldi [Spring from The Four Seasons] arranged by Reinmusik♪

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