◆オートルートって
★オートルートといってもこれは自動車道路のことではない。Haute Route フランス語で高所の道を意味している。モンブランの麓シャモニからマッターホルンの麓ツエルマットまで180kmを2000m〜3000mの峠(コル)を幾つも越えながら歩く。
★当初は冬場のスキーツアーコースだったが、今ではトレッキングルートや氷河歩きルートなど様々なバリエーションがある。全コースを歩き通すとなると相当山に練達の者でも20日間はかかる厳しいものなので、我等が日本を出て帰るまで11日間にこれを収める為には各種の乗り物を利用したり、本来のルートをスキップしたりするしかない。
◆出かけるまでのいきさつを少々
★昨年の夏、チロル・ドロミテを済ませた後、何人かから次はどうすると聞かれ、天渓の赤沼敏治さんと相談してオートルートを候補に上げたのだが、ツールドモンブランより厳しいトレッキングになることははっきりしているし、概算費用も割高が予想されるので催行可能人数が集まるかどうか自信がなかった。
★色々と紆余曲折があり赤沼さんには随分ご迷惑を掛けることもあったが、時期としてはやはりアルプスの花が期待できる7月初旬が望ましいので、今まで何度もガイドして頂いた志波邦彦さんのスケジュールから2012年7月12日出発、22日帰国の日程、参加者12名でどうにか実現の運びとなった。
★私としては所定のオートルートを無事に完歩することは勿論だが、ツエルマットでの最終日に余力を残して名峰マッターホルンのアタック基地であるヘルンリヒュッテ3260mに登りたいという夢があった。
◆7月12日、成田を飛び立つ
★昨年のドバイ経由ヨーロッパ入り(エミレーツ航空)は時間が掛かるので敬遠され、今回はヘルシンキ経由(フィンランド航空)でジュネーヴへ向かう。
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飛行ルート |
ヘルシンキ上空 |
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ジュネーヴ空港、 |
シャモニ近し |
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★ジュネーヴで志波さんの出迎えを受けチャーター車でシャモニへ、約1時間半のこの道は既に2回通っているはずなのに記憶がないのは何故か?考えてみたら雨が降っていた。
★シャモニ(フランス)はツールドモンブランの時と同じホテル・グルメイタリー。スーツケースは4日後のエボレーヌへ送られてしまうので、それまでの必要品をリュックへ仕分け、夕食は近くのレストランに行くものもいたが、さして空腹感もなかったのでシャワーを浴びたらもう22時40分でベッドイン、時差7時間を加えて31時間の長い一日は終わった。
7月13日(金)
★日本を出る時も小雨模様だったが、こちらも余り良くない。朝食前にアルヴ川を渡ってモンブランの初登頂を記念するバルマとソシュール像のところまで散歩した。ボソン氷河は見えていたがモンブランの頂上部は雲がかかって見えない。今日はオートルート初日とあって足慣らし、2時間半の山腹歩きなので出発はゆっくりで良い。
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バルマとソシュール像 |
ボソン氷河 |
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★サン・ミッシエル教会手前の山の家(シャモニガイド組合)とフランス山岳会を訪ねてみたが、山の家はなかなか興味深く見応えがあったものの、前回革命記念日でお休みだったフランス山岳会は11時からオープン。何ともついていないがしょうがない。
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山の家 |
山の家展示 |
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★小雨の中、10時半にホテルを出て路線バスでル・プラ1060m、ロープウェイでフレジエール1894mへ上り、更にリフトへ乗り継いでアンデックス2595mへ着く。此処はモンブラン山群の対面、赤い針峰群の山腹でこの高さになると雪も残っていて風もあり兎も角寒い、雨模様でもあるので全員レインウェアーを着用し、リュックにはザックカバーを掛けて歩き始める。
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ル・プラのロープウェイ |
フレジエール |
アンデックスへ |
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アンデックス |
縞模様のメール・ド・グラス氷河 |
アルペンローゼ |
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◆ツールドモンブラン最後の峠コル・ド・パルムを望見
★ラックブラン(白い池)へは殆んど高低差のないトラバースなので、きつくはないが足元のケアは必要だ。左の山腹には緑の中にアルペンローゼの赤が散らばり、右の谷越えにはグランド・ジョラス4208mの山腹と特徴ある縞模様のメール・ド・グラス氷河、更に左奥にはアルジャンティエール氷河、ティエール氷河、その先にツールドモンブラン最後の峠だったコル・ド・バルム2186mも望見される。
★赤い針峰エーギュレ・ルージュのケルンの手前で崖面を下ってくるクライマーを見たと思ったら今度は10頭余りのアイベックスの群れに出会った。今がその時期であるのか急な崖で2頭の雄が激しく角を突き合わす迫力に暫し見とれた。
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クライマーが2人(中央右寄りの上と下) |
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角突き合わすアイベックス |
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★ラックブランの小屋2352mはその名の如く池の端に建っているが、入室前に池を一周(約15分)してから14時45分到着、なかなか素晴らしいロケーションにある小屋だ。この小屋の決まりではリュックは部屋に持ち込めず、荷物置き場に纏めて置くことになっているのだが我等13名は別棟をあてがわれたため、リュック持込を認められたのは有難かった。
★入室してからリュックの中身を改めてみて常備薬品、洗面道具などを入れたポシェットがないのに気が付いた、シャモニのホテルに置き忘れたか、間違えてスーツケースに入れてしまったかしかない。志波さんの携帯電話でホテルに掛けて貰ったが、通じない、旨くあったとしても3日後のエボレーヌまではどうにもならないので諦めてビールを飲むことにした。
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モンブランビール |
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★ビールの銘柄はご当地らしく「モンブラン」で5ユーロ(此処は未だフランスなのでユーロ圏)つまみにベーコンオムレツを頼んだがこれはでかくて夕食に応えた。夕食で変わっていたのは熱い野菜スープにチーズのブロックが付いてきて、チーズをちぎってスープに入れトロリとさせて食べるというもの、他に牛肉のシチューにパスタ、デザートまでありでとても食べきれない。
★山小屋では翌日のことがあるので皆早く寝る、我等も20時半頃ベッドに入り消灯してしまったので0時過ぎにはトイレに起きた。ヘッドランプを点して階下に下りたら桑原さんがいて「凄い雨ですよ」と言う。入り口の階段の左下にあるトイレに行ってみたらなんと鍵が掛かっていて、どうしても開かない。そこへ神野さんがやってきた、お互い顔を見合わせどうするという間もなく雨中に放水して済ませてしまった。
◆あわや遭難のピンチが
★次の目覚めは5時、雨は更にひどく降り続いている。面白いものでこの手の生理現象の周期は同調するらしく又神野、桑原両氏に出会って上の母屋のトイレに行くように教えられ、雨具をつけ、置いてあった傘を無断借用して外に出た。処がヘッドランプの光は雨滴に当たって拡散し前方が殆んど見えない、それでも坂を上がって30mくらいのところに有る筈と判っていたのでなんとか所用は済ませることは出来た。
★帰りは雨の上に風も強くなってきて前方はさらに見え難い。止むを得ず足元だけを照らしそろそろ下りていったが、少し方向が狂っていたのか小屋の確認が出来ず、その内ごうごうという川の水音が近くなってきた。
★間違ったと思ったら原点に戻れ、の鉄則どおり折り返してトイレに戻り、気を落ち着けてゆっくり下っていったが、やはり近くにある筈の小屋の確認が出来ず水音が高くなってくる。再び戻って今度はトイレの上にある母屋の戸口を見つけ、中に潜り込んだ。
★勝手に借りてきた傘は風で骨がおかしくなってしまったようだし、ここで慌ててバタバタしたら信じられない場所での遭難だって起こりかねない。それに幾ら豪雨で見通しが利かなくても、そろそろ夜明けの薄明かりが期待できる時間も近いと、そのまま10分ばかり待つことにした。
★やがて薄闇の中にぼんやり浮かんで見えた小屋は物置とばかり思っていたが、それが我等の小屋だった。幸いにして家内を含めこの事件に気付いた者は誰もいなかったようだったが、傘の持ち主は探してお詫びを申し上げた。
7月14日(土)
★朝食後、志波ガイドから今日の予定についてこの雨の中、コル・ド・モンテ1461mへチャーター車の予約時間、11時までに着くのは無理なので、此処から直にフレジエールに下りル・プラへチャーター車を回す案が提示され全員同意する。
★当初の予定より遅く8時半に完全雨装で出発、雨風強く道は川になっている、下りだからといって楽なものではなく、ジグザグと高度を下げながら増水した川をくるぶしまで浸かりながら何度か渡渉しなければならなかった。私の靴は比較的新しかったし中までの浸水はなかったが、ぐしょぐしょになって参っている人も何人かいたようだ。
★やっとフレジエールのロープウェイ乗り場が見えてきてやれやれと思ったのに、乗り場への道は意地悪く一旦ぐんと下がって急坂を上り返さねばならない。その急坂を、歩幅を狭めて一歩一歩の我慢で乗り切るしかなかった。ル・プラへ回してもらう車を待つ間に志波さんがグルメイタリーに連絡して、置き忘れてあった私のポシェットを明後日スーツケースと共にエボレーヌへ送ってもらえることが確認できたのは有難かった。
★此処から3日間は現地高山ガイドのアントワーヌさんが我等に同行する。下界では雨はすっかり上がっていて、出発11時過ぎはほぼ予定通り、近くの街アルジャンティエールでサンドイッチやジュースなどを購入してローヌ谷へ向かう。
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左エーギュ・ド・ミディ |
グランド・ジョラス |
アルペンローゼ群落 |
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フレジエールへ |
フレジエール見ゆ |
シャモニ俯瞰 |
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◆フランスからスイスへ入る
★12時頃国境を越えてスイス領に入ると、直ぐ右手にツールドモンブランの時泊まったトリアン村の教会やフォルクラ峠が目に入ってくる。やっとスイスに入ったのでここでスイスのことを少し。
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ル・プラ |
トリアン村教会 |
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★スイスは永世中立国として、又美しい湖と雄大なヨーロッパアルプスを国土とする九州よりやや小さい国として知られてきた。然しスイスをこの度歩いてみて色々なことが気になった。先ず通貨のスイスフランを表示するCHFとは何だろう、スイスはユーロ圏ではなく独自のスイスフランを通貨としている。勿論ユーロも紙幣だけは使えるがお釣りはスイスフランでしか返ってこない。
★スイスは多様性国家であると言われるが、これは国家の生い立ちと大きく係わっている。先史時代ベルン周辺にはケルト系先住民族ヘルヴェティイ族が住んでいたが、紀元前1世紀シーザーのガリア遠征以後約400年間は現在のスイス領土の殆んどがローマ帝国の支配下にあった。
★この支配に別れを告げたのが4世紀後半から200年に亙って起こったゲルマン民族の大移動で、様々なゲルマン系民族が入り込んできたが、高い峯、深い谷に分断されている為に互いに交流することなくそれぞれが独自の文化圏、言語圏を構成するようになった。この影響は現在も続いており、ドイツ語(64%)、フランス語(20%)、イタリア語(6.5%)、ロマンシュ語(1%弱:東南部で唯一ゲルマン系の侵入を許さなかったレト・ローマン人言語)の4国語とその他言語(8.5%)という多言語国家になっている。
◆国の正式名称は「Confoederatio Helvetica」
★こんな事情から我等がスイス連邦と呼ぶ国家の正式名称はどの言語にも寄らず、ローマ時代の呼び名であったラテン語の「Confoederatio Helvetica」になっている。通貨単位のCHFはコンフェデレーション・ヘルヴェチア・フランであり、郵便切手もHelvetiaと表示されている。ちなみに国旗は13世紀にハプスブルグ家との独立戦争の際使用した赤色旗に白十字を加えたもので、赤十字旗の元にもなったデザインである。
★「スイス」というのは原初三州の誓約の際(1291年8月1日)中心的役割を果たしたシュヴィーツ州に由来するフランス語で、ドイツ語はシュヴァイツ、イタリア語はシュヴィツエーラ、ロマンシュ語はシュヴィズラと言う。以来8月1日はスイスの建国記念日で、ウイリアム・テルが悪代官ゲスラーを懲らしめて建国の英雄となったと言う話は史実ではなく伝説である。
★ここらでスイス談義は一先ず置いて再びオートルートを進めよう。ローヌ河が大きく右折してレマン湖に注ぐ屈曲点の街マルティニからローヌ谷が始まる。シーザーやナポレオンもアルプス越えの道として通ったグラン・サン・ベルナール峠を南に控えローマ時代の遺跡が多く、連なる丘にはブドウ畑が広がりスイスワインの生産地でもある。
★高速道路でローヌ谷を東進し、ヴァレー州(ヴァリス州)の州都シオンを右折してエラン谷(ヴァル・デラン)に入る。シオンの町には二つの丘が並んでいて、12世紀創建でフランス革命まで司教の居城だったヴァーレル教会とトウルビヨン城がそれぞれ建っている。ヴァリスアルプスに向かって南に伸びるエラン谷には古い家並みの集落が点在し日本の木曽路を思わせる雰囲気がある。
◆35の氷河の水が流れ込むディス湖
★シオンから15分くらいのところに地層侵食の造型、ウセーニュの奇岩(ピラミデス・ウセーニュ)があるが、ドライバーは何事もなかったように通り過ぎてしまう。一寸道路の入り口を間違えたようで目的のディス湖ダムサイトのディクセンス2141mへは14時の到着、遅い昼食を摂った。このダムのコンクリート壁の高さは285m、実に35の氷河の水を集めていると言う。
★時間節約のためにロープウェイで290mばかり上がり、湖周を少し歩いてからピーク2433m越え、せめて折角稼いだ高度を維持したいのに一旦プラフルーリ谷の河床まで下りてから上りだしたのにはうんざり、プラフルーリ小屋2624mはこの谷を詰めきらないと現れないので正面のモン・カルム3220m目指してひたすらガレ場を行く。
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ディス湖ロープウエイ |
モンブラン・デ・シェイロン |
ディス湖 |
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お花畑 |
プラフルーリ沢ガレ場 |
プラフルーリ沢 |
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★やっと小屋らしきものが見えてきたが、これは古びた作業小屋、プラフルーリ小屋は左へ回り込んだ高台の上に建っていた。情けないことに小屋への急坂の途中で左腿が攣ってしまい、痛みの引くのを待っての到着となった。歩き難い道だったので可なり遅れたかと思ったが17時20分着はそれほどでもなかった。
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丘上のプラフルーリ小屋 |
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★プラフルーリ小屋は本来の山小屋で男性軍はうなぎの寝床の9人部屋、一寸参ったのは部屋の明かりは1CHFで買ったコイン(2時間分)が無いと点かないことだ。カメラの電池充電の為にはヘッドランプでは間に合わず、どうしても電気が必要になる。
★部屋は適温に保たれていたがシャワーもコインで時間制と聞いて取り止め、夕食は豆スープ、サラダ、脛肉、マッシュポテト、生クリームのデザートとしっかりしたもので我等も程ほどにビールとワインを飲んだ。明日はハードな行程が待っているので21時30分には就寝。
◆7月15日(日)
★5時起床、剣持さんに足の攣り予防に「ツムラ87」を貰って服用(ポシェットには入っているのに、同じく眼圧降下液は桑原さんに貰うなど迷惑を掛けている)。昨夜雪が降ったようで外は薄っすら積雪があり、今は霙が舞っている。
★6時朝食、6時半出発の予定だったが、朝食後志波ガイドから高山ガイドのアントワーヌの話として今日このメンバーでディス小屋へ行くのは無理だと言う。ディス小屋は2928mの高所にあり、行程は此処から約200m上のコル・デ・ルーを越え400m下りてディス湖畔を5km歩き、ディス湖南端から500m登らねばならないが、プラフルーリ小屋より300m高所の状態は此処よりはるかに厳しいと思わねばならず、雪、氷結による滑落、転倒の危険度が高い。
★更にディス小屋に辿り着けたとしても、明日は小屋から直下のシェイロン氷河を渡って急登のリドマッテンのコル2919mを越え、長い山稜をアローラ2006mまで下りねばならず、しかもこの経路にはエスケープルートは全く無い。反面、ディス小屋ルートはこのオートルートの目玉といっても良く、小屋は氷河に囲まれた高みに在って、正面にモンブラン・デ・シェイロン3870m、左へピネ・ド・アローラ3796m、モン・コロン3637m、を一望に収め、翌日のリドマッテンのコルからはマッターホルンも遠望できるかもしれないという。山好きにとってはまたとないロケーションに恵まれている。
★然し高山ガイドが付いている場合、ガイドの指示、意向は絶対のものとして受け取らねばならないのでディス小屋は諦めるとして次善の策を相談した。志波さんはディス小屋には泊まれなくても、なんとかこの景観を眼にすることはできないかと今日アローラに泊まってリドマッテンのコル往復の案を出したが、これは厳しいし、途中までしか行けなかったら物足りない。
★寧ろディスはすっぱり諦めて、明日泊まる予定のエボレーヌのホテルに連泊できれば、エボレーヌ周辺の山を散策するにしても空身同然で楽に歩くことが出来る。兎も角エボレーヌのホテル・ハーミテイジに問い合わせてもらったら今日からの連泊可能、明日の予定として地元で評判のラック・ブルーLacBleuという美しい池があることも判った。しかもアローラからラック・ブルーへの道は本来のオートルートの道でもあるという。
◆有難い乗り物ポストバスを利用
★こうして我等は8時25分、もう霙ではなくなっていたが雨支度をして無念の撤退のスタートを切った。さすがに下りは速いが、昨日とは逆に河床からピーク越えの上りは結構長く感じた。それでもロープウェイで小雨模様のダムサイトへ下り10時35分発のポストバスにゆっくり間に合った。ポストバスというのは元々郵便馬車から発達したもので、郵便物と一緒に乗客を運んでおり、連邦政府の郵政省が管理、高地や秘境と言われる奥地まで路線を張り巡らせている真に有難い乗り物である。
★我等が乗った路線はシオン行きで、エボレーヌへ行くには途中のヴェーVex939mで乗り換え、エラン谷の奥へ折り返して進まねばならない。乗り換え待ちの時間が2時間余りあるので、バス停近くのレストラン・デラポストへ入って昼食を摂ることにした。空は快晴、朝の天気が嘘のようだ。さすがに若手女性軍は良く食べる、こっちはビールと“今日のスープ”(安いし中々の味)に残っていたサンドイッチで済ませ外に出た。
★ヴェーは坂の集落、車窓から見えた教会の塔らしきものを目指して細い路地を上がっていったら未だ新しい三角錐の鐘楼があった、上から縦に段々大きな鐘が五つ下がっている、鳴ったときはどんな音色になるのだろうか、教会はその作りからしてプロテスタントのように思われた。元々スイスはローマンカトリック(現在は42%)の国だが今はプロテスタントも35%であるという。
★バス停の横にナナカマドの実が美しく色づいていた、日本の赤と違って黄金色に輝いている。13時10分のポストバスでエボレーヌ到着は13時30分、だらだら坂を下りてホテル・ハーミテイジに入る。それぞれの部屋にリュックを置いて散歩に出た、今日は日曜日だがエボレーヌはお祭りでもあり、古物や果物を並べる屋台が出たり、木靴を履いてふいごで火をおこす鍛冶屋、手風琴を奏でる楽士などこの土地柄の賑わいがある。
★エボレーヌは山側にバス道路(バス停は2箇所ある)があり、一段下にメインの中央通り、更にその下をラ・ボーネ川の流れがあり、集落が形成されているのはバス通りと中央通りが繋がる300m位の間で、こじんまりした感じの良い村だ。
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アプリコット売り |
エボレーヌ中央通り |
木靴の鍛冶屋 |
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◆オートルート全体をカバーする地図を入手
★軽食、果物など買い物がある人は、と紹介されたのはエボレーヌの奥のバス停にあるコープなので三々五々、見物がてら行ってみる事にした、お祭りのせいか結構な人出だが人とぶつかりそうになるようなことはない、志波さんが持っているオートルート全体をカバーする地図が欲しかったが此処でやっと手に入れることが出来た。
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エボレーヌでやっと買えた地図 |
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★帰りは皆と別れて川岸まで下りてみた、エランの谷を貫流するラ・ボーネはやはり白波を立てる激流で橋の袂にはヤナギランが咲いていた。対岸の山へ向かう分岐に標識が立っていたので見るとLacBleu(青い池)とある、明日行く予定の池だが此処から歩くのだろうか。
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エボレーヌ家並み |
ラ・ボーネ川のヤナギラン |
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★夕食のレストランはバス通り沿いにあるラ・モンタナラで中央通りの中程からくねった小路を上がって行くが、途中の両側にある家は古い家が多く、石板葺きの屋根、校倉造りを思わせる高床式で、床柱と屋台の間には鉄平石のような薄板状の石が鍔状に挟んである、所謂「鼠返し」である。途中民族衣装のご婦人に出会った、何か時の流れは昔も今も変わらないよと語り掛けられているような気がした。
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レストラン・ラ・モンタナラ |
鼠返しの古民家 |
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★夕食はシシカバブ(串焼肉)がメインだったが中々良い味でワインも赤白をたしなんで豊かな気分になった。21時ベッドイン、大きく予定変更を余儀なくされたが、決して詰まらない一日ではなかった。
7月16日(月)
★今朝は今回の旅で初めて朝からの快晴、6時に起きて先ず午後3時シャモニから到着予定の交換荷物の整理、雨具上衣に水、軽食だけという軽装で8時半出発、昨日まで3日分の荷とアイゼンまで担いでいたことを思えば夢のようだ。
★外に出ると左奥に白く輝くエラン谷の主役ダン・ブランシュ4357mのピラミダルな姿が見える。すがすがしい朝の気を一杯に吸いながら奥のバス停へ向けて歩いていたら突然家内が食堂にパスポートを忘れてきた、取りに帰るがバスに間に合わなかったらそのまま行ってくれと言う。
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エボレーヌの山 |
ダン・ブランシュ4357m |
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★先行していた志波さんがそれを聞いて走って折り返してくれたが、やがて遅れていたアントワーヌと3人で戻って来て9時15分のポストバスにセーフ。それにしても今回は夫婦揃ってのドジ続きでなんとも情けない話だ。
★ラック・ブルーはアローラの方へバスで30分走ったラ・グーヤから歩き始める。昨日行ったエボレーヌの川向こうからも道は通じているが、考えてみればこれは相当の距離だった。正面にはガッシリしたモン・コロン3637m、左奥には明日の難関トランのコル2916mも見えている、道は細いが緩やかな傾斜で軽装の身には心地よい。
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ラ・グーヤ登山口 |
エギュ・デ・ラ・ツア |
ベンケイソウ |
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◆人気スポットのラック・ブルー
★放牧された牛達や可憐な花を愛でながらゆっくり歩いてほぼ1時間でラック・ブルーLacBleu2092mに到着した。湖は小振りながら澄み切った美しい青で、西側の高みから数条に分かれた滝が落ち込み湖面に倒影を映している、ラ・グーヤからのアプローチといい湖の美しさといい地元の人達の人気スポットと言うのはなるほど納得だった。
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ラック・ブルーの滝 |
ラック・ブルー |
十字架のピーク |
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★此処からの山々の景観は湖越しの西側が圧巻で、南奥のモンコロンから北へ槍ヶ岳のようなエイギュ・デ・ラ・ツア3668m、ポワン・デ・ジェネボワ3674m、デント・デ・ペロック3675m、グランデント・デ・ヴェスヴィ3418mと繋がっている。東側は此処からは見えないが3500m級の赤いアローラ針峰群があってその向こうに昨日苦戦したディス湖がある筈で、この東西の山塊がアローラ谷Val
d’ Arolla を形成している。
★我等は眺めの良い滝の上で 昼食を摂った。アントワーヌは高山ガイドとして物足りなかったらしく、東の上に小さく見える十字架のピークまで行くものはいないかと誘ったが、交換荷物が着く3時までには帰らねばならないし、今日は皆ゆったりピクニック気分でもあったのか、これ以上の上りに応ずる者はいなかった。
★帰りはラ・グーヤではなくポストバスの終点のアローラに出ることにして(オートルートの道でもある)12時過ぎに出発。下って間もなく車道が見えてきたので少し簡単すぎるのではと思ったら、さにあらず再び山への上りになり200mも上がったのは意外だった。やがて渓谷にかかる橋を渡って暫くしたらなんと昨日ディス湖のダムサイトで出会った親子連れにパッタリ。父親は相変わらずベビーを幌付の篭に入れて背負っている、思わぬ奇遇にお互い声を掛け合って別れた。
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モン・コロン |
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奇遇 |
アローラへの木橋 |
アローラ近し |
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岩陰に咲く |
アローラ |
レゾデール遠望 |
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★14時にアローラ到着、予定では下ってくる筈だったリドマッテンのコルの方も確認できた。ラック・ブルーからアローラはなんとなく山から下りてくる感覚だったが、アローラの標高は2067mと殆んど変わらない、ポストバスの発時刻15時までバス停横のレストランでビールを飲んだりアイスクリームを食べたりして過ごす。
★エボレーヌへの帰りは少し遅れ荷物交換車はもう着いていた。私のポシェットも無事ついて一安心だったのだが、小祝さんから寝不足で少し調子が悪いので、スーツケースと一緒にこの車でツエルマットへ直行したいという申し出で、同室の森下さんも一緒にとのこと。元々アントワーヌは今日までで、ツエルマットへ荷物と共に行ってからシャモニへ帰ることになっていたので一挙に3人が減ってしまうことになった。
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エボレーヌ街角 |
エボレーヌ教会前 |
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★夕食は昨日と同じラ・モンタナラだったが、メンバーが減るとやはり淋しい。我等夫婦は小祝さんたちの隣の部屋だったが、角部屋で少し狭かったので、この際と隣へ移らせてもらったらこれは広くて快適、思いがけなく恩恵に預かってしまった。
7月17日(火)
★5時起き、快晴。今朝からポシェットはフル活用、朝食のときホテルのマダムが作ってくれたゆで卵はスイス国旗のマーク付きで大人気、6時半予約の大型タクシーで出発する。アローラ方向へ走って分岐のレ・ゾデールで左折、ポストバスはラサージLaSage1667mが終点だが、我等の車はその先のヴィラVille1742mを越えて車の回転が出来る限界マエンデコッターMayen de Cotterまで上がってくれたのは有難かった。
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スイス国旗のゆで卵 |
山岳用大型タクシー |
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★多分標高は2000m近くになっていた筈である。それでもトランの峠Col de Tollentは2916mだから約1000mの上り、今回の行程の中で最も大きな標高差をクリヤしなければならない。ガレ場や急峻の道ではないので歩き難さはないが、高度を上げていくには一歩一歩を時間を掛けて辛抱強く積み重ねていくしかない。
★アローラ方向を眺めると昨日ラック・ブルーからは見えなかったモンブラン・デ・シェイロン3870m、続いて右にエーギュ・ルージュ・デ・アローラ3646mの山並みが見える、エラン谷総見と言ったところだ。小さな水車が回る登り口から頭上に見える十字架を目指して歩き出す。始めは可なりの急登だ。1時間ばかり歩いてグリスリーロックで一休み、上手く名付けたものと微笑ましくなる。
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マエンデコッター登山口 |
眼下にエボレーヌ |
頭上の十字架へ |
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グリスリーロック |
エーデルワイス |
ベプランの標識 |
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◆「ライオンの足」か「高貴な白」かエーデルワイスに見とれる
★ベプランの池Lac de Beplan2536mが第一目標だったが手前でエーデルワイスを見付け暫し立ち止まる。白くふわふわの珍しい茸も見つけた。日本名でウスユキソウというキク科の此の花はドイツ語のエーデルワイス(高貴な白)が最も似つかわしい。属名のレオントポディウム・アルピヌム(ライオンの足:ギリシャ語)はどうだろうか。
★ベプランの池には9時15分に到着。先は未だ長い。マーモットの鳴き声がするのであたりを見回したらやはりいたいた。首を伸ばして周りを警戒している。コル直下の急坂では話をする気にもなれずただ黙々と上り続ける。
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ベプランの池 |
マーモット |
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モンブラン・デ・シェイロン |
ダンブランシュ |
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★12時少し前、北側サセネイル3253mの鞍部にあるトランのコル到着だ。峠の向こうには青く光るモワリー湖が見える、後で調べた本ではモンブランも見えるとあったが本当だろうか。峠の端に大きな木製の十字架が立っていてクロスの部分に1921の数字が刻まれていた。
★モワリー湖側から団体が上がってきた、峠は狭いし我等は20分ばかりも休んだので入れ替わって下山、先ず2686mのオータンネ湖へ向かう。オータンネ湖は回りに草花も少なく地味な池だ、我等は立ち止まることもなく下降を続ける、振り返るとトランのコルの十字架が未だ見えていた。前方にはモワリー湖を仕切る壁のごとくガルーデルボルドンGarde le Bordon3310mがそそり立ち、湖の南端からモワリー氷河が氷爆となって落ち込んでいる、その厚みと幅で向かってくる迫力は物凄いとしか云いようがない。
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コル・デ・トラン |
遥かにモワリー湖 |
コル・デ・トラン南方山並み |
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◆アルペン・エンツイアン、アルペン・マンシルドなどの高山植物たち
★やがて高度と土質の関係か鮮やかな青のアルペン・エンツイアン(リンドウ科)やピンクの小さなアルペン・マンシルド(サクラソウ科)など高山植物の数が増えてくる。その内、峠の向こうのほぼ同じ高さではないかと思われる辺りでエーデルワイスの群落があると大得意で教えてくれる人がいた。向こうの花のほうが型が良いように思ったが、それは言わなかった。
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アンティリス・ブルネラリア |
タカネシオガマ |
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アルペン・マンシルド |
アルペン・エンツイアン |
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★黒牛の放牧場があり、ダムの堰堤もはっきり見えてきた、ダムに着けば直ぐバスだと思っていたのにバス停はこの長い堰堤を渡った向こう側と聞いて一寸ガックリ、しかもポストバスの発時刻まで余り時間は無さそう。その時、剣持、桑原両氏の歩速が急に速くなった、これは如何なる事かと思ったらバス停横のレストランに先着してビール5人分纏めて注文してくれていたとは有り難い。お蔭で喉を潤おしてからツィナールに向かうことが出来た。
★ツィナールへのオートルートはソルボワの山2896mを越えていくのが道筋なのだが、今の我等に更に650mの登りをクリヤする体力、時間の余裕はない。ポストバスでのツィナール行きは花の村として有名なグリメンツを過ぎてヴィソワで方向を転じアニヴィエの谷深部を目指さねばならない。
★毛細血管のように路線網を持つポストバスは山歩きのわれらにとって真に有難い乗り物だが、さすがにこのあたりの道路は切り立った崖に作られているうえにガードレールも無いので窓側に座っていると真に恐ろしい。われらのバスはローヌ谷のシエール行きではなく直接ツィナール行きだったのでヴィソワ乗り換えの必要がなかったのはラッキーだった。
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振り返るとコルの十字架 |
モワリー氷河の氷爆 |
放牧小屋 |
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オオアザミ |
アルムの放牧 |
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巨大牛 |
モワリーダム堰堤 |
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★シエールはフランス語圏・ドイツ語圏の境界で以西はフランス語、以東はドイツ語になる。同じ州でありながら今までヴァレー州と言っていたのがヴァリス州の呼称に変わる。15時ツィナールZinal1675m到着。ホテル・ポイン・ツィナールの別館ホテル・ベッソへ入る。
★ツィナールはローヌ谷の起点シエールから南に伸びるアニヴィエの谷Val d’ Anniviersの最深部の集落だが、ホテルの一段上の通りが古い家並みと聞いて行ってみた。中程に大木の幹を刳り貫いた水飲み場があり両側に木造の古い家が並んでいる。
★壁面には昔使っていたらしい鋤や鍬、車の車輪が貼り付けてあったり、冬に使ったスキーや輪カンジキが貼り付けてあったりする、狭い戸口の上の欄間には闘牛の図、馬を使って畑を耕す農耕の図の見事な木彫や悪魔よけの呪いかと思われる品が見られる等興味をそそる。時間があればこの村の歴史を聞いてみたかった。今日の長い歩きで、幸い足の痛みなどはなかったが、さすがに疲れてはいたようだ。
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花の村グリメンツ |
ホテル・ベッソ |
木彫り水場 |
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欄間の木彫り |
魔除け? |
壁飾り |
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7月18日(水)
★5時起床、今日も晴天。3日前から不調だった腕時計が遂に止まってしまった、長年使ったスイスアーミーだが、スイスでストップとは皮肉なものだ。
★ツイナールの通りから黒い双耳峰ベッソBesso3668mがよく見える。別所さんが貴方の山だと言ってからかわれていた。今日はヴァリス山群を眺めてツエルマットまで足を伸ばさねばならないので、半日は移動の時間になる。リュックはホテルにデポして8時半過ぎのポストバスでサンリュックへ向かうが今日はヴィソワで乗り換え、サンリュックホテルデラトーラで下車して坂道を7〜8分登ってケーブルカー・フニクラリーFuniculaireのステーションに着く。
★9時のスタートだったが乗っているのは5分足らず、右上方に歴史的に有名なホテル・ヴァイスホルン2337mがよく見えた。ティニューサTignousa2180mの展望台から初めてマッターホルン4478mにお目にかかれたが、何時も写真で見るあの姿とは可なり違って見える。我等の見慣れた姿はヘルンリ稜を中心に東壁と北壁が被さってくるような三角錐だが、今見えているのは北壁と幅の広いツムット稜を挟んだ西壁なので、切れ落ちたツムット稜の三角と本峰の三角が前後に重なって見える。
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ツイナールからベッソ |
ベッソ、グラン・コルニエ |
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見慣れぬマッターホルン、
ポワン・デ・ツイナール |
ホテル・ヴァイスホルン |
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◆山頂部にスイスとイタリアの国境線があるマッターホルン
★ついでにマッターホルンの形状について触れておくと、この山は氷河のせめぎ合いによって形成されたヨーロッパで最も人気の山であるが、東西に細長い山頂部の中央にスイス、イタリア国境線がある四角錘の独立峰で4478mの最高点はイタリア側にある。
★ちなみにマッターホルンはスイスに於けるドイツ語表記で、フランス語表記はモン・セルヴァンMont Cervin、イタリアではこの山をモンテ・チェルヴィーノMonte
Cervinoと呼んでいる。ティニューサからは沢山のトレッキングルートがあり、惑星の道Le chemin des Planetesという人気コースは太陽系の惑星のモニュメントを実距離の十億分の一に配置した歩きやすいコースらしいが所要時間4時間では一寸無理だ。
★当初の予定ではホテルワイスホルン往復2時間半を歩くことになっていたが、景観は少し南によるだけの差だし、泊まれないでは意味がないと止めにして、ツイナールのソルボワ展望台へ行くことにした。ソルボワ展望台2438mは、ツイナールバス停の直ぐ脇から大型ゴンドラのロープウェイで登る。展望台にはレストランがあるので、此処で昼食を摂る予定だ。
★方角はティニューサと余り変わらないので、マッターホルンの形も同じようだが、左からヴァイスホルン4505m、ツイナールロートホルン4221m、真ん中の黒いベッソ、その右にオーベルガ−ベルホルン4062m、マッターホルンと繋がるその距離はぐんと近まっている。右から張り出した山稜のためにダンブランシュ4357mが見えないのが一寸残念だ。ソルボワの直ぐ西には昨日のモワリー湖があるのだが、湖を見るには展望台から更に400m上の頂上2896mへ登らねばならない。
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ティニューサからのトレック |
ダン・ブランシュ |
ヴァイスホルン |
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ティニューサ展望台にて(筆者夫妻) |
ヴィソワの乗り換え |
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7816;ツイナール俯瞰 |
ソルヴォワ展望台 |
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◆マップを見ながら独りでシャモニからツエルマットまで歩くアメリカ人女性
★女性軍が初老のご婦人と話をしていた。後で何の話をしたのか聞いたら、この方はアメリカのオレゴンから来て、一人でマップを見ながらシャモニからツエルマットまで歩くのだと言う。我等のオートルートつまみ食いとは違って完歩を目指すというのは、その目標に対する強い意志と時間とお金と体力が全て揃わなければ出来ないことで尊敬してしまった。
★13時過ぎにチャーター車でツイナールを出発、アニヴィエの谷ともお別れである。車の場合には何処に行くにしても一旦ローヌ谷まで出て、東西に走り、必要箇所で南北の谷に入らねばならない。我等はシエールから高速に乗って東進する。所々路端に出ている屋台はアンズ売りだろうか。
★フィスプVispから南進、サース・フェー分岐からマッター谷へ入る、15時少し前にツエルマット手前4.8kmのテッシュに到着、車は此処から先へは入れず、ツエルマットへ行くには直通電車のツエルマット・シャトルを利用するしかない。ツエルマットもサース・フェーも1950年からガソリン車を入れない政策を貫いてきているというからたいしたものである。
★マッター・フィスパ川に沿って約10分だが途中大きくがけ崩れしている場所があり、当然電車も不通になったがスイス陸軍が僅か1週間という脅威的スピードでこれを回復したそうだ。
★ツエルマットZermatt1605m到着15時30分、思ったより早く着けて天気もよく、未だ明るいので、自分は小祝さんと森下さんの様子を見にホテルへ直行するが、良かったらゴルナーグラートへ行ってきてはと志波さんから勧められ皆で行くことにした。
★ゴルナーグラートGornergrat3130mはスイスナンバーワンと言っても過言ではない展望台で山と氷河のせめぎ合いが織り成す豊かな造形美は一寸他ではお目にかかれない。ツエルマット駅の直ぐ傍から出る登山電車Gornergrat Monte Rosa Bahnen(GGB)は1898年(明治31年)開通のアプト式登山鉄道である。
★16時発、所要時間は33分、上り始めると直ぐ右側に写真で見慣れたマッターホルンが姿を現す、独立峰でジェット気流が起きやすく南のイタリア側へ雲を巻くことが多い、これを山が煙草を吸うと言うらしいが(旗雲とも言う)、今も頂上部は雲がかかっている。
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ヴァイスホルン、ツイナールロートホルン、ベッソ |
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レストランから |
ティッシュ・パーキング |
ツエルマットシャットル |
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ゴルナーグラートバーン |
マッターホルン |
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◆マッターホルンがハンサムに見える場所
★フィンデルバッハ、リッフェルアルプと上っていくと、全体がスイスにある山としては最も高いドームDom4545m、テッシュホルンTaschhorn4491mなどミシャベル山群を従えたフィンデルン氷河が左側に見えてくる。雪崩よけの長いトンネルを過ぎるとリッフェルベルク、此処はマッターホルンがハンサムに見える場所として知られている。
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マッターホルン |
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雪崩よけの長いトンネル |
ゴルナー氷河 |
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ブライトホルン |
ゴルナーグラート |
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★モンテ・ローザへの登山道の出発点、ローテンボーデン辺りからガレ場が多くなり道に残雪が目立ってくると天文台のある山岳ホテルKulm Hotel
Gornergratが建つ終点に到着する。何故かホテルの売店は閉まっていてお目当てのバッジが買えなかったのは残念だがなんと言っても外の眺めはブンダバーwunderbar!!(素晴らしい)。
★左からヨーロッパアルプス第2の高峰モンテローザMonteRose4634m、リスカムLiskamm4527m,双子のカストールCastor4226mとポリュックスPollux4091m、雪の帽子のブライトホルンBreithorn4165m、クライン・マッターホルンとグレーシャーパラダイス3883m(マッターホルンに似た小ピークがあるヨーロッパ最高所の展望台、夏でも滑れるスキー場がある)があり、テオドール氷河を隔ててマッターホルンが聳えている。
★時間の余裕さえあればゆっくりしたかったが、明日はヘルンリヒュッテへの挑戦も控えているので18時にはツエルマットへ下りることにした。駅から目抜きのバーンホフ通りを歩き、マッターフィスパ川を渡った所にあるホテル・パルナスに着いたら小祝さんと森下さんが上から手を振って歓迎してくれた。
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マッター・フィスパ川 |
ツエルマット駅前 |
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ホテル・パルナス |
バーンホフ通り |
美味かったテラコッタ |
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★私は夕食までの間に壊れた腕時計の代わりを仕入れに出掛ける。バーンホフ通りにはローレックス、オメガ、ビュツフェラー等の高級時計店が並んでいるが、堅牢、実用的なスイスアーミーから選ぶことにして、ウエンガーWengerの気に入ったのを買うことにした。店主のマダムが「この時計は良い時計ですよ」と言って微笑んでくれたのは、少しお世辞があったにもせよ嬉しかった。
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ツエルマットで買ったウエンガーの腕時計 |
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★ホテルの夕食ではテーブルが男組みと女組みに分かれてしまい、飲み物は別々に注文することになってしまった。メニューを開くと今日の料理に合ったお勧めのワインConfirmed Wineの表示があったのでこれを注文した、“TERRA COTTA”(イタリア語で焼いた土の意味だがネーミングの意図は不明)という赤ワインだったが、これは今回の旅を通じて一番美味かったように思う。
★スイスワインというのは余りなじみが無いが、それはその筈、フランスなどに比べてブドウ畑の面積がはるかに小さく自国内消費で手一杯で殆んど輸出されることはない。然し品質は良く、白ワインが全体の7割を占めているが、特にレマン湖の南斜面のものが有名である。
7月19日(木)
★5時半起床、このホテルの良いところは窓からマッターホルンが見えることだが、今朝は頂上までクッキリ。煙草は吸っていない。今日のヘルンリヒュッテ挑戦は桑原さんは雨が降ってもと言っていたがメンバーの半数位になるかと思っていたのに、何とエボレーヌから先をスキップしたお二人を含めて全員が参加するという。
★シュールマッテンリフト乗り場へはマッターフィスパ川沿いに20分余り歩かねばならないので8時のリフトに間に合うように水と雨具を担いで出発する。いよいよあのマッターホルンのヘルンリ稜に取り付くのだと思うとわくわくする。
★リフトはフーリーFuri1886mを経由して約20分でシュヴァルツゼーSchwarzsee2589mに到着する。眼下にその名が示す黒い湖が広がり湖畔には18世紀前半創建の白い礼拝堂と十字架が建っている。マッターホルン登山者が聖母マリアの守護を求めに訪れる所だ。
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マッターホルン |
東壁のヘルンリヒュッテ |
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シュヴァルツゼー礼拝堂 |
シュヴァルツゼー |
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シュヴァルツゼー越しにオーバーガーベルホルンを望見 |
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★リフト乗り場は高台にあって強風が吹きつけるので下へ降りて登山道に入る、ヘルンリヒュッテまでは高度差700m、距離にして4kmだ。先ず本峰の岩稜に取り付く前に前衛の丘を越えて行かねばならない、約1時間で頭上に見えていた小屋Hirli2888mに上がって見たらブラックフェースの羊群がたむろしていた。
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ヒーリーを目指す |
ブラックフェイスの羊群 |
岩塊を巻く |
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◆シースルーで下が透けて見える鉄階段のスリル
★此処から巨大な岩塊を巻いていかねばならないが、道が狭まって鉄階段になる。シースルーで下が透けて見えるのは余り気持ちのいいものではない。この後フラットで楽な歩きが数百メートル続くが、やがて本峰のヘルンリ稜に取り付いて急峻な350mの登りが待っている。
★九十九折に狭い岩道を喘ぎながら登る。辛いが一歩一歩の上りを重ねれば確実に目標に近づくと自分に言い聞かせて足を運ぶ、何時しか最後尾になったがそんなことは気にしない。
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ヘルンリヒュッテ |
3000m地点に咲くラヌンクルス |
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★11時45分、ヘルンリヒュッテ(マッターホルンヒュッテともいう)3260mに到着。オートルートの番外ではあるが私としてはこの旅の最大目標だったから本当に嬉しかった。前半で悪天候のためにアンラッキーに見舞われたが、今日を含めた好天続きですっかり取り返してしまった。この小屋は1880年9月に石小屋としてスタートして何度も改築されたが今は20室のベルヴェデーレホテルを併設するまでになっている。
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ヘルンリヒュッテ |
東壁の残雪 |
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★マッターホルンは登頂不可能の魔の山と恐れられ、今までに約500人のクライマーの命を呑み込んできたが、今ではガイド同行のテスト登山に合格する力量があれば登頂できない山ではなくなってきている。そして登頂者の殆んどは初登頂者のウィンパー同様このヘルンリ稜を辿っている。
★頂上4478mとヘルンリ小屋の高度差は約1200m、朝3時に小屋を出発して中間点のソルベイ小屋Solvayh4003mに6時、頂上到達9時、が標準とされている。我等が小屋に着いた時はお昼時でもあったので結構込み合っていたが、私としては証しとなるバッジを入手したかったので中に入って聞いたらありました。これで宝物が一つ増えた気分になりました。
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ヘルンリヒュッテ展望 |
ミシャベル連峰 |
ヘルンリヒュッテバッジ |
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★雲量が少し増えてきたように思っていたら、志波さんから午後は雷雲が発生する情報があるので早く下りましょうとのこと、もう少しゆっくりしたかったが止むを得ない。下りは上りより慎重でなければならないが、志波さんが気を使って350m下の基部までで良いからとロープで略式のハーネスを作って私をアンザイレンしてくれた。
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略式ハーネスで |
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★14時15分雷にあうこともなくリフト乗り場横のシュヴァルツゼーホテルレストランに到着。ビールで全員ヘルンリヒュッテ到達成功の祝杯を挙げた。
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レストラン・シュヴァルツゼー |
テレキャビン乗り場 |
ツエルマットへ |
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★15時30分にはツエルマットに下りてホテルパルナスに入りシャワーを浴びてから家内と買い物に出掛ける。シャモニから今までオートルートでは殆んど日本人に会うことはなかったが、ツエルマットはやたら日本人が多い。昨日のゴルナーグラートへの登山電車では後ろに広島弁のおじさんに座られ喋り捲られたのには閉口した。
★こちらに来て思ったのはCO-OP生活協同組合はあるがコンビニエンスストアを見かけないことだ。深夜に物を買いに行ったり長時間労働をする習慣がないのだろう。格別これといった目的はなかったが駅前のCO-OPへ行ってみることにした。大きくて品物は豊富、丁度その時間だったのか買い物客も多い。
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COーOP |
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◆ヨーロッパ最高所の葡萄で作った白ワインの「ハイダ」をゲット
★チーズのコーナーはさすがに色々な種類があったがグリエールチーズを買うことにした。ワインの棚を見ていたらなんと昨日志波さんが教えてくれた白ワインのハイダHEIDAが正面にあるではないか。これはヨーロッパ最高所フィスターターミネー1300mの葡萄から作ったワインということだったので、ためらうことなく購入した。水も適当に買ってしまって、これは失敗。こちらの人達が炭酸入りの水を好むことは知っていたが、ペットボトルのキャップが青はガス入り、緑はマイルドなガス入り、赤がプレーンなミネラルウォーターとは後で知ったことだった。
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ハイダ(右)とウイリアミンヌ(20日の項の*印参照) |
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★夕食はホテルレストランでフォンデュだったが所謂チーズ(ケーゼ、フロマージュ)フォンデユではなくてフォンデュ・シノワーズ、薄くスライスした肉や魚を鍋の熱くしたコンソメスープに潜らせて色々なソースにつけて食べる、云わばスイス風しゃぶしゃぶだが、食後にしっかりだしが出たスープにはシェリー酒をたらして飲む、日本人好みの料理のようだ。ワインはやはり昨晩のテラコッタにした。
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夕闇のマッターホルン |
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7月20日(金)
★朝5時半の部屋の窓から早暁のマッターホルンが影絵のように浮かんでいる。全ての予定はクリヤしてしまったが、ヘルシンキ経由成田行きのフィンランドエアーはジュネーヴ発10時50分で此処からは一寸無理なので、今日はジュネーヴ近郊レマン湖畔の古い町ニヨンNyonに泊まることになっている。
★ツエルマットの乗り物は馬車と小型電気自動車しかないが、ホテル・パルナスから駅までスーツケースを運ぶ電気自動車に一寸乗せてもらった。何のことはない子供の頃、遊園地で乗った電気自動車の感じだ。
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ホテルの電気自動車 |
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★ツエルマット・シャトルでテッシュへ行き、チャーター車にスーツケースを積み込んで8時半に出発。ローヌ谷へ出るには斜めにトンネルが出来て速くなったと聞いたが、何処を通っているのか、行きもこの道だったのか良く判らない。高速道路に入って二つの丘に立つシオンの教会と城は懐かしい。今日もアンズ売りが所々に出ている。
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ツエルマットシャトル |
アンズ売り |
シオンの2つの丘 |
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★マルティニからシャモニへの路を左に分けてレマン湖へ向かう。湖面が見えてきて直ぐ左の眼下にシヨン城Chateau de Chillonが見えた、幽閉された囚人を詠ったバイロンの詩で有名な城だ。湖面に張り出した美しいモントルー、ローザンヌと過ぎて11時半にはニョンのホテル・リアルHotel Realに入ることが出来た。ニョンは小高い丘から湖畔に掛けて出来た小都市でローマ時代の遺跡が多く、小花柄が特徴の陶磁器ニョン焼きの里でもある。シンボルは13世紀に建てられたニヨン城で内部は博物館として公開されている。
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モントルー |
ニヨンの船着場 |
ニョン城 |
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ニョン城のエンブレム |
ニョン旧市街 |
ニョン焼き |
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★お昼はレマン湖に近いグレーシャーレストランに出掛ける。屋外のパラソルの下でめいめい好きなものを頼んだが時間の掛かること、流しのヴァイオリン引きが来たりして、やっときたピッツアパイのでかいのには閉口した。
★この後は自由時間となったが、私は嘗て品川の品川寺(ホンセンジ)を訪れた時に明治維新の混乱で4代将軍家綱が先祖の遺徳を顕彰して奉納した梵鐘が海外流出してしまい、その後ジュネーヴのアリアナ美術館にあることがわかって、昭和5年にジュネーヴ市の好意で返還、品川区はこのお礼として石灯籠を贈ったと言うことを知っていた。
★ジュネーヴ市と品川区はこれを契機として友好都市にもなっているので、時間があればアリアナ美術館に行ってみたいと思っていたが、志波さんが下見をしてくれていて電車で15分位でジュネーヴへ行けると聞いて好意に甘えることにした。
★アリアナ美術館はジュネーヴ駅からトラムカーで5分、ヨーロッパ国連本部のあるネイションで下車、緑に囲まれた瀟洒な建物で中世から現代までの陶磁器、ガラスのコレクションはおよそ2万点、ヨーロッパ最大といわれ日本の古伊万里の展示なども目を引いた。時間もないのでそちらはそこそこにして受付へ行き、日本の品川の石灯籠を見に来たと言ったら快く案内してくれた。
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ジュネーブのヨーロッパ国連本部前 |
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◆アリアナ美術館の庭の石灯籠と梵鐘
★庭の一角に背丈ほどの石灯籠と平成になってから贈られたという梵鐘が鐘楼に掛けられている。石灯籠には梵鐘返還に奔走した順海大僧正の名前と東郷平八郎の筆跡が刻印されていた。然し此処でも私のドジがあったのはカメラの電池切れ、予備の電池も忘れてきたので肝心のこれ等の写真は志波さんのカメラに頼るしかなかった。
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アリアナ美術館前で筆者夫妻 |
品川区から贈られた石灯籠 |
同じく梵鐘 |
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★ニョンに帰ってスーツケースの仮パックをし、体重計で量ってみたら21kg、これでは少し減らさねばならない、リュックが重くなる分はしょうがない。
★夕方小雨模様になってきたので傘をさしてレストランに出掛ける。昼のレストランの直ぐ隣のレストラン・レ・レマンでメインはスズキのムニエル・ガーリックソース、レマン湖のスズキだと言うが、小さいから日本でならさしずめ「セイゴ」といったところだろう。
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夜のニョン |
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★ラストナイトなのでビールと白ワインをしっかり飲んだが、食後酒に勧められたシュナップス(果実酒)のウイリアミンヌWilliamine(*19日の項の写真参照)はマルティニ製、梨の蒸留酒でアルコール度43%、締めくくりには中々のものだった。これで終わりかと思ったら志波さんが例のワイン「ハイダ」を部屋の冷蔵庫に冷してあるというので押しかけた。可なり飲んだ後なので味の程はよく判らなかったが、これで最後の儀式は終わった。
7月21日(土)
★朝一でスーツケースを再計測、20kgこれなら大丈夫。7時45分チャーター車でジュネーヴ空港へ向かう。所要時間25分、此処でガイドを務めてくれた志波さんは赤沼さん率いる次のオートルートチームに参加するためにシャモニへ向かい、桑原さんはお孫さんに会ってオリンピックマラソンコース13.6kmを走ってみるためにロンドンに向かう。
★残った我等はヘルシンキを経由して22日(日)朝成田に到着。東京は数日前猛暑日だったらしいが、今日の節季「大暑」にも拘らず気温が22度そこそこだったのは大変有難かった。
★オートルートはシャモニからツエルマットに到る高所ルートであり、この2箇所の名前が出るとなるとやはりこの人の生涯を書き添えておきたくなる。それは今回、私自身があの栄光と悲劇の山となったマッターホルンの岩肌にじかに触れる経験を持てたからでもある。
◆エドワード・ウインパーのこと
★イギリス人エドワード・ウィンパー(1840〜1911)以下7名が登頂不可能とされていたマッターホルンに登頂したのは1865年7月14日のことである。彼は元々父の後を継いだ木版画家であり、たまたま山岳紀行文の挿絵を描くためにアルプスに入ったのがきっかけとなって山に魅せられていった。
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エドワード・ウィンパー |
wikipediaより転借 |
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★彼の登山経歴についてはマッターホルンを含めて著書「アルプス登攀記」(岩波文庫 浦松佐美太郎 訳)に詳しいが、この中に彼が挿入している多くの挿絵もまた貴重な資料として尊重されている。
★ヨーロッパアルプスの登山史は1786年8月猟師のジャック・バルマと医師のミッシェル・パカールによるモンブラン登頂に始まって約80年の間にスイス人ガイドを伴ったイギリス人によって殆んど登り尽くされ、最後に残っていたのがマッターホルンだった。彼が最初にマッターホルンに挑戦したのは1861年8月のことで、イタリア側のブルイーユを拠点にしてダン・デラン4171mに繋がるリヨン稜(南西稜)から登頂を試みたが強風と寒気、更に落石の危険を感じて撤退している。
★マッターホルンへの第2登を果たしたイタリアの名ガイド、ジャン・アントン・カレル等、若し可能性がありとすればこちら側と当初はブルイーユから発進する登山家方が多かった。
★ウィンパーも6度の挑戦を全てこちら側から行った末に、登攀不可能とされる東壁に夏でも縞状に残雪が残るのは見掛けほどの傾斜はない(それでも40度、1000mの岩壁)ことと、この山の岩層が東に向かって規則正しく傾斜しており、南西山稜の重大な障害は岩層の西南西向き傾斜、特に尾根の彼方此方でオーバーハング(逆傾斜)が見られ斜面が下に向かって滑り落ちている為足懸かりが取れないこと等に気がついた。
★1865年6月の7度目の挑戦は東面のフルク氷河からヘルンリ稜へ取り付こうとしたが、氷河の収縮で岩稜との間に大きな溝(ベルクシュルンド)が出来ていて渡れなかったことと、風も出始めたので止む無く撤収。
★その後、ウィンパーはブルイーユでカレル一行とマッターホルンに登る下話をしていたが、7月11日に彼らが出発した話を耳にして出し抜かれたと知り、急遽ガイドと接触、幸運にも老ペーテル・タウクワルダーと最も信頼するミシエル・クローを獲得することが出来た。ウィンパーはカレル一行がラバに食料を一杯積んで南西稜を目指したことを知っていたので、荷揚げの日数を考えて充分追い抜く公算があった。
★ウインパーの一行はクローとタウクワルダーとその息子2人、それにタウクワルダーが同行を約束していたフランシス・ダグラス卿、クローと約束していたチャールズ・ハドソンと若い19才の友人ハドウの8人で7月13日午前5時半にツエルマットを出発した。その日は12時頃に11000フィート付近でテントを張って明日のアタックの準備やルートの偵察をしたというから多分今のヘルンリヒュッテの辺りではないだろうか。此処でタウクワルダーは息子の一人を帰している。
★14日夜明け前に7人で登攀を開始して幾つかの困難な箇所はあったが、全員が頂上に到達したのは午後1時40分だった。この時ウインパーが最も気になったのがカレル一行のことだったが、イタリア側を覗くと遥か下に点々と人影を見ることが出来た。
◆マッターホルン初登頂そして悲劇の下山
★彼は自分達の存在をどうしても知らせたくなって岩を投げたが、イタリア隊はマッターホルンに住む魔物が岩を投げてきたと思ったらしい。彼等は1時間ほど頂上を楽しんでから悲劇の下山にかかっている。
★トップはクロー、2番は経験の浅いハドウ、3番ハドソン、4番ダグラス卿、5番老ペーテル・タウクワルダー、その後ろに小ペーテルとウインパーが別に続いたが、ダグラス卿から全員繋いだ方が安全では、と言われてこの順番で全員がロープを繋ぐことになった。
★そして暫くして、ハドウが滑ったが、悪いことにクローの腰を蹴飛ばしてしまった。クローを先頭にハドウ、ハドソン、ダグラス卿と次々に4000フィート下のマッターホルン氷河へ落ちていったが、老タウクワルダーとダグラス卿の間のロープが切れた為に後ろの3人が助かった。
★切れたロープを見たらなんと一番古くて細い予備のロープで、後日何故ベテランガイドの老タウクワルダーがちゃんとしたロープがありながら、そんなロープを使ったのか査問委員会で責任を問われることになった。無罪にはなったもののタウクワルダーは逃げるようにアメリカに渡ったが、後年故郷へ戻りシュヴァルツゼーの畔で急死している。
★シャモニの名ガイドでウィンパーの信頼が厚く、多くの山に同行したミシエル・クローの遺骸はツエルマットの教会墓地に葬られ、その墓にはウインパーの墓碑銘が刻まれている。尚、シャモニのバルマ広場からシャモニ駅に向かう通りは彼の死を惜しんでミシエル・クロー通りと名付けられている。
★ウインパーはその後殆んど山に登ることはなかったが、後年目を患って失明の危険があったので自分の登った山を確認する旅に出掛け、シャモニで客死、彼の墓はこの地にある。シャモニに眠るウィンパーとツエルマットに眠るクロー、この二人の終焉は何故かオートルートを象徴する縁のように感じられてならない。
★今回の旅では色々と想う事が多かった。心肺機能の低下など体力の衰え、バランス感覚の悪化、それに何度もドジをやって多くのメンバーに迷惑や心配を掛けてしまった。情けないとも思うが現実は直視せねばならない。その意味では「なんとかオートルート」をまっとうできたのは皆さんのお蔭ですとお礼を申し上げたい。それでも自分の気持ちを萎えさせることなく山とのお付き合いは続けて行きたいので、今度は改めて宜しくお願い申し上げますと頭を下げねばならない。
★ウインパーは「アルプス登攀記」の最後に「何事もあわててやってはならない。一歩一歩をしっかりと踏みしめ、常に最初から終わりがどんなことになるかを、よく考えて行動して欲しい。」と言っている。
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