[その1]
はじめに
★私が寺と仏像に興味を持ち始めたのは、昭和40年に大阪へ転勤した時が契機になっています。当時、毎日曜日に京都・奈良の古寺を巡り歩くのが最大の楽しみであり、明日からの仕事の面でも大きな活力の源泉となっていました。その後、東海・関東を経て再び関西勤務となり、更に古寺巡りの趣味が昂じていきました。そのような中で再び関東と東北に戻ることになり、従来の古美術鑑賞的な立場から、一歩心の安らぎと大いなるものへの帰依を求める心境の変化もあり、これが観音霊場巡りを始める直接の契機となったのでした。そして、西国・坂東・秩父の、所謂日本百観音霊場を二回づつ巡り終えたのです。
江戸三十三観音とは
★平成六年になって、地元東京都内にも江戸三十三観音があることを知り、早速巡り歩いたところ、本当に大小バラエティに富んだ寺寺で、新しい感動を覚えました。江戸三十三観音が創設されたのは元禄年間のようで、案外歴史はあります。しかし、明治時代になって、次第に忘れ去られていったようです。札所再開の声が高まったのは昭和五十年頃のようで、同五十一年には正式に新選札所として発足したといわれます。
★札所の対象となった寺は、江戸時代からのものが十六寺で、その他の十七寺は新しく加えられたものです。しかし、それぞれに独特の持ち味があり、また、地理的にも都内二十三区内にうまく配置され、電車と徒歩により比較的気楽に巡ることができました。
[第一番 浅草寺(浅草観音)]
発願の寺であり、坂東13番札所でもある
(山号) 金龍山 (宗派) 聖観音宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 台東区浅草2―3―1
(巡礼歌) 深きとが いまよりのちは よもあらじ
つみ浅草へまいる身なれば
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浅草寺本堂 |
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★いよいよ江戸三十三観音巡礼の開始です。この寺は、坂東三十三観音では第十三番ですが、江戸三十三観音では江戸時代から一番に選ばれています。いわば江戸っ子自慢の寺といえるでしょう。私にとっても浅草は、千葉県松戸町に住んでいた戦前の子供の頃から、最も遊びに出かけたところであり、本当に懐かしい地域です。現在は、三社祭・鬼灯市・羽子板市・サンバカーニバル等各種行事が盛んであり、近くのスカイツリー開業の効果もあって、一時の低迷から脱し、外国人をはじめとする観光客は、増加の一途を辿っています。
★地下鉄の浅草駅からすぐそばの、風神・雷神の安置された雷門から入りますと、仲見世の参道には各種の商店が並び、平日でも人並の絶えることはありません。このような庶民の街の中心をなすのが通称浅草観音です。庶民信仰の力強さが迫ってくる寺といえるでしょう。
★阿吽の仁王が安置されている宝蔵門を入ると大香炉があり、常時群衆が自分の体に煙を擦り付けています。すさまじい光景です。この後方に、間口34メートル、奥行き32メートルの堂々たる本堂が浮かび上がります。群衆に押されながら本堂への階段を上りますと、正面に、金色に輝く須弥壇が見られます。階段の上には、「施無畏」「十方来皆対面」「仏身円満無背相」の額、天井には川端龍子の「龍の図」、堂本印象の「天人の図」「散華の図」があり、庶民とともに歩んできた江戸最古の寺としての荘厳さとともに、現代的な息吹きをも感じることができます。
★この寺は、推古天皇の36年(628)、漁師の檜前浜成・竹成の兄弟が、今の隅田川で網をおろしていたところ、一体の聖観音像が網にかかったため、戸長の土師直中知にこのことを話したところ、功徳を授けてくれる尊像であることが分かり、この観音像を安置したのが始まりといわれます。この三人を祀ったのが本堂の右手の三社権現(浅草神社)で、有名な三社祭はここの祭りです。
★その後、慈覚大師が来山して隆盛となり、源頼朝も帰依して造営を進め、更に徳川家の祈願所として次第に巨刹になりました。途中焼失と再建が繰り返されましたが、慶長二年(1649)に巨大な本堂が完成しました。しかし、戦災で焼失し、昭和33年に再建されたのが現在のものです。また、本堂左手前には、五重塔が昭和48年に再建され、鉄筋コンクリートながら木造風の53メートルの堂々たるもので、次第に古色もついて、境内の重要な建築物として、多くの巡礼者・観光客の関心を集めており、これをバックに記念写真を撮る人も多いです。
★境内の建物のうち、本堂左手奥の淡島堂宝塔も一見の価値があります。また、本坊である「伝法院」は、平素は入場できませんが、特定の日には開放されます。客殿・玄関・使者の間は安政六年(1777)の建築であり、また庭園は小堀遠州の作といわれます。ここから池越しに見る五重塔は大変素晴らしいです。雑踏の浅草に居ることを忘れさせてくれる静寂さです。一見の価値があることを多くの人に伝えたいものです。
★ご朱印は。本堂内ではなく、本堂左手前二軒目の建物で受け付けてくれます。ただ、坂東十三番と江戸一番では朱印が異なりますので、何れであるかを明確に申し出ることが必要です。いずれにしても、一番札所に恥じない、歴史と庶民の篤い信仰に支えられた、堂々たる寺です。
[第二番 清水(せいすい)寺]
ささやかな落ち着いた寺
(山号) 江北山 (宗派) 天台宗 (本尊) 千手観音
(所在地) 台東区松が谷2―25―10
(巡礼歌) ただたのめ 千手のちかひひろければ
かれたる木にも 花さくといふ
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清水寺本堂 |
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★この寺は、第一番から徒歩十分という近い場所にあります。飲食店用の食器等を扱う店の集まる、所謂合羽橋通りに面しています。この辺は土地が低く、水害に苦しんでいましたが、合羽商の喜八という者が私財を投じて掘割りを造り、ここに太鼓橋を架けて浅草と上野への通路にしました。そのため、合羽橋という名称が生まれたとのことです。
★寺の入口の塀に大きな表示があり、すぐ分かります。中に入りますと、狭い境内に緑が生い茂り、ここが都心とは思えません。本堂は住宅様で、座敷に上がって本尊をじっくりと拝観できます。千手観音としては珍しく坐像で、清らかな印象です。本当に勿体ないくらいで、そのうえ、ご朱印を頂いたらお供物まで頂戴して恐縮しました。住職の暖かい心遣いもあり、落ち着いた雰囲気で、しばらく心地良く正座していました。
[第三番 大観音]
コンクリート造りの寺
(山号) 人形町 (宗派) 聖観音宗 (本尊) 聖観音
(所在地) 中央区日本橋人形町1―18―9
(巡礼歌) くろがねの かたきちかいにみ仏は
はなさくがごと ちまたにぞたつ
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大観音本堂 |
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★この寺は、地下鉄人形町駅からほど近く、人形町通りを少し入ったところにありますが、色町のためか、特に女性の参詣が目立ちます。鉄筋コンクリート造りの階段を昇っていきますと、芸者衆の名の入った沢山の提灯があがっている小さな本堂があります。前には大香炉があって、煙が絶えません、右手の格子内に馬頭観音、前方の地蔵堂に地蔵菩薩が安置されています。
★北条政子が、京都の清水寺に帰依し、鎌倉に新清水寺を建立したのが始まりといわれます。その後、明治の廃仏で、本尊の観音菩薩が由比ヶ浜に捨てられようとしていた時、江戸人形町の石田可村・山本卯助の二人が船で運び、明治九年に現在地に安置したものといわれます。しかし、本尊は頭部だけのようです。毎月17日に開扉されるそうです。
★近くには、子育ての神として有名な水天宮があり、ここと兼ねて参詣すると良いと思います。余り風情のない寺ではありますが、重い歴史を背負った寺であるようです。納経は左手の寺務所で受けます。
[第4番 回向院(無縁寺)]
鼠小僧次郎吉の墓で名高い寺
(山号) 諸宗山 (宗派) 浄土宗 (本尊) 馬頭観音
(所在地) 墨田区両国2-8-10
(巡礼歌) み仏の 慈悲の光に照らされて
万人塚に 詣でくる人
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回向院の鼠小僧の墓 |
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★この寺は、両国駅のすぐ南にあり、広大な境内の中に、各種の近代的な建物を擁しています。明暦3年(1657)の所謂振袖火事の犠牲者の冥福を祈るため、四代将軍・家綱が、増上寺の大僧正にこの地を賜り、万人塚を築いて、貴賤の別なく焼死者を葬り、地蔵尊を安置して法界無縁塚と名付けたのが、この寺の始まりといわれます。その後、天変地異の犠牲者のほか牢死者も埋葬し、それらの供養塔が多く建立されています。
★寺の本尊は阿弥陀如来で、東京都の重宝に指定され、本堂に安置されています。札所本尊は馬頭観音ですが、拝観のためには、自分で鍵を借りて回向堂を開きます。各種供養塔の並ぶところの前にある小さなお堂を開きますと、正面に馬頭観音が浮かび上がります。なんとも言えないひとときです。
★境内には、鼠小僧次郎吉の墓もあり、墓を削って持って帰るとご利益があるといわれ、かなりすり減ってきています。その他にも、各種動物の供養塔や多くの見どころがあり、また、近くには吉良上野介の屋敷跡もあり、歴史を偲びながらゆっくりと過ごしたい寺です。
[第五番 大安楽寺]
伝馬町牢獄の跡地
(山号) 新高野山 (宗派) 真言宗 (本尊) 十一面観音
(所在地) 中央区日本橋小伝馬町3―5
(巡礼歌) あなとうと みちびきたまへ かんぜおん
はなのうてなの 安らぎの寺
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大安楽寺本堂 |
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★この寺は、地下鉄小伝馬町駅の近くにあり、現在の本堂は鉄筋コンクリート造りの堂々たるものです。この付近は、伝馬町牢獄のあったところで、江戸幕府崩壊までに入牢した者は極めて多かったといいます。現在、この地は東京都の史跡に指定されています。
★明治初年、高野山の山科和尚がこの地を通りかかって、寺を建立して刑死者の霊を弔うことを発願しました。明治8年には、高野山から弘法大師像を勧請して本尊として祀りました。そして、明治15年には、大倉喜八郎・安田善次郎・山岡鉄太郎の協力で、諸堂を建立したといわれます。
★当初は、十一面観音をはじめ多くの仏像を有するかなりの大寺でしたが、関東大震災ですべて灰燼に帰してしまったとのことです。諸尊は搬出することができたので、昭和4年、鉄筋コンクリートで現在の本堂を完成。戦災は免れて現在に至ったといいます。高野山別格本山の寺格にふさわしい雰囲気が漂っており、また、大変な苦難の歴史を秘めた寺という思いも湧き起ってきます。僧侶の対応も親切で、好感の持てる寺です。 (続く)
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