いなほ随想特集

私の戦争体験

◆無条件降伏で4年に渡った太平洋戦争が終わる間際に広島と長崎に原子爆弾が投下され、人類史上初の被爆国になった日本。310万人の戦没者と国土の荒廃を招いて終結した悲惨な戦争から64年(09年時点)。月日が重なるとともに人々の記憶の風化が進み、たんなる歴史年表になろうとしています。

[原子爆弾が投下された直後のキノコ雲(Wikipediaから転借)]
広島 長崎

◆小平稲門会会員の中でも、軍隊や戦場経験者はすでに1人、2人。“銃後”での戦時体験を記憶する者もぎりぎり70歳以上となりました。人の体験は、語り継ぎ、書き残す努力をしない限り、忘却の彼方に消えてしまいます。戦争の悲惨を二度とこの国に招かせないために、子孫の幸せと日本の繁栄を願って、小平稲門会会員の「戦争体験」を書き残すコーナーをここに開設しました。

◆第2次大戦の混乱期に国民学校、旧制中学、旧制高校などに在学されていた会員のみなさん、疎開、空襲、勤労動員、軍事教練、肉親や親戚の出征、戦死、戦傷病、食糧、外地引き揚げ、別離などを通しての「私の戦争体験」をご投稿ください。どんなささやかな事柄でも、当時の若い世代の日本人の戦時体験は、大人たちの戦場体験とともに後世に伝えて行く価値と責任があると思います。

◆戦争を風化させないために、会員諸兄姉の戦時体験をお待ちします。原稿の字数は自由です。関連の写真などがありましたら、添付(複数可)を歓迎します。原稿は、メールをご利用になれる場合は、添付または本文欄に直接書き込んで送信してください。写真もメール添付歓迎ですが、プリント(紙焼き)を郵送していただいても結構です。原稿、写真ともに郵送もOKです。(管理人 松谷)

妻裕子のピカドン回想からの聞き書きの記


山本 浩(29政経)

★広島に原子爆弾が投下された直後の報道ではこの爆弾は新型爆弾と表現され、人々の会話には“ピカドン”と云う言葉が使われた。昭和20年8月6日午前8時15分、エノラゲイから投下された一発の爆弾は当時35万人を擁した広島から一瞬にして14万余の人命を奪い去った。半世紀以上にわたって語り継がれてきた原爆にまつわる無数の話は、その殆んどが悲惨、凄惨極まりないものであるのは当然である。

1945年8月6日朝、広島市に投下された
原子爆弾「リットル・ボーイ」
wikipediaから転借

◆3歳から始まった妻の広島生活

★処で、私がこれから話そうと思っていることは、ある意味で原爆の犠牲になられた方々には申し訳ない話であり、ためらいが無いわけではないが、何時の世にも偶然とか不思議が存在して人生そのものを左右していることを思えば、こんな話も人の運命を考える上で意味があるように思えてくる。

★私の妻は海軍士官だった父親の関係で軍港のあった呉海軍病院で生まれたが、1歳の誕生日を迎える前に父親が岩国海軍航空隊で戦病死した為に、未亡人となった母親と父の実家、高知へ帰っていた。処が今度は母方の実家から祖母が自転車事故にあい、足が不自由になったので家事手伝いに帰って来て欲しいと請われ、3歳から広島での生活が始まることになる。

★この一家の構成はやはり連れ合いを早く亡くしていた祖母を頭に結婚前の若い叔母、未だ学生で工場通いの勤労動員をしていた叔父との5人暮らしだった。祖母としては怪我のこともさることながら、大人の男手が無い中で、気丈で働き者の次女に傍にいて欲しかったのだろう。

★5歳になって妻は幼稚園に通っていた。当時、広島でも小学生は殆んどが学童疎開で市内にはいなかったようだが、当然就学前の幼児は親と共に生活していた。幼稚園は家から700mくらいの所にあり、途中バス通りを越えて行かねばならなかったと云うから、恐らく現在だったら親が送り迎えするのが当たり前だったろう。

★今から考えれば8月6日というのは夏休みの最中のように思うのだが、何故当日が登園日だったのか、後になって誰に聞いてもはっきりしない。当日は朝から良い天気で暑い夏日が予想されたが、7時に空襲警報が発令された。この時一瞬「あヽ今日は幼稚園に行かなくても好いんだ」と思ったというから、このことが後の行動への無意識の伏線になっていたのかもしれない。

◆その朝、幼稚園に行くのを渋った5歳の妻

★7時30分、空襲警報解除、母親は「早く支度して幼稚園に行きなさい」といって娘を送り出す。今まで幼稚園に行きたくないと思ったことなど一度も無かったのに、この日はなんとなく気乗りがしない。途中でいじめっ子らしいのがこっちを見ている、これが引き金となってきびすを返し、家へ帰ってきてしまった。

★当然母親は「なんで帰ってきたの」と詰問するので、しょうことなしに「ハンカチを忘れた」「ここにちゃんとあるじゃないの、早く行きなさい!!」然しどうしても行く気がしない、暫く玄関でグズグズしていたが、何度も母親に督促されて思い余って出た言葉は「オシッコがしたい」、「しょうがない子だね、早くはばかりへ行ってきなさい」と言われて薄暗い便所の中へ入った。その途端、上の小窓に閃光が走った、世界で始めて原子爆弾が投下された瞬間である。

爆心地、広島市中島地区の投下前の街並復元模型 原爆投下直後の中島地区
wikipediaから転借 wikipediaから転借

★この家は爆心地から北北東へ2.3km離れ太田川に近い牛田にあったが、戸外で直に熱線を浴びてしまった人は助かっていない。幼稚園では多くの子供達がその幼い命を奪われてしまった。若し彼女が家に引き返すことなく、何時もどおり幼稚園に行っていたとしたら、ほぼ間違いなく亡くなった園児達と運命を共にしていたであろう。

★玄関に何時までもグズグズせず便所へ入ったのも幸運だった。玄関は瞬時に屋根が崩れ落ちてきて、人の出入りも出来ない壊滅状態になってしまった。私は霊魂とか霊力を信じる方ではないが、この大変な不思議に関しては多くの人が語り、本人もそう思っているように、単なる幸運を越えて彼女の中にある「守護霊」が彼女を守ったのだと思ってあげたい。

原爆ドーム
世界初の原爆被爆建物としてユネスコの世界遺産(文化遺産)
に登録されている元広島県産業奨励館   (撮影:松谷富彦)

◆道端で泣きもせずに待ち続けた幼子3人

★この家では2歳と3歳の男の子を連れて、たまたま里帰りをしていた叔母が洗濯をしていて爆風で割れたガラスを浴びて怪我をしてしまった。今、我々は原子爆弾は広島に1発、長崎に1発と単純に思い込んでいるが、母親はこの時、若し次の2発目が来たらとても助からないと思い1km山側の親戚を頼ることにしたという。

★取るものも取りあえず、先ずは子供達3人だけを連れて行ったが、目指す家は皆何処かへ避難したか、もぬけの殻、母親は止む無く絶対此処を動かないようにと子供達に言い置いて祖母と怪我をした叔母を迎えに戻って行った。後になって妻が言うには子供心にも非常事態を感じていたのか、2歳3歳5歳の子供が泣きもせず道端でじっと待ち続けたのは大したことだった。

★待ちくたびれた頃、母は祖母と叔母を連れて戻って来て、親切な人達にも助けられながら、何とか最終避難場所の牛田小学校の防空壕まで辿り着くことが出来た。その後の母親の判断と行動力も素晴らしかった。更にもう一度自宅に引き返し、当時は貴重品だったシンガーミシンの機械部分を取り外し、他の運べるもののありったけと共に防空壕の中に持ち込んで蓋をした上には水で濡らした布団を被せてから逃げ戻って来た。

★この牛田の自宅は思ったとおり、直後に燃え広がってきた火災で全焼してしまったが、勤労動員中の叔父も地獄の焼け跡を通ってその日の夕方遅くには避難場所の牛田小学校で皆と一緒になることが出来た。

平和公園の原爆死没者慰霊碑(奥に原爆ドームを望む 原爆の子の像(平和公園内)
撮影:松谷富彦 撮影:松谷富彦

◆県境の小瀬川を挟む因縁の地に勤める2人は、コーラスを通じて知り合い、結婚

★妻は「被爆者健康手帳」所謂原爆手帳の所持者であり、結婚後も暫くは健常者5500の白血球が3500位しかなく日常生活には大きな支障は無かったものの、頑健とまでは言い難かった。然し今は白血球数も5000位にはなり一緒に山に登っても私より強い身体にまで成ってくれたのは本当にありがたいことだと思っている。

★偶然の一致は長い人生で幾つかあるが、妻はその後母一人娘一人の生活を続け、東京の大学を卒業して広島に帰り勤めることになった。その会社はアメリカのデュポン社と合弁の石油化学会社で工場敷地は広島県の西端、元大竹海兵団跡地に建てられている。此処には隣に潜水学校があり、山口県との県境を流れる小瀬川を挟んで対岸には陸軍燃料廠があるという旧日本軍の大軍事基地だった。

★この大竹海兵団はかって岩国で戦病死した妻の父親の葬儀が行われた場所であり、私にとっては戦時中マレー半島のペナンで働き、戦後抑留生活の後引き上げてきた父が初めて踏んだ日本の土が大竹海兵団跡地だった。そして石炭から石油への原燃料転換の時期を迎えて、三池炭鉱から陸軍燃料廠跡地に出来た石油化学コンビナートに移って勤めていた私がコーラスを通じて川向こうの妻と知り合い結婚することになったのも奇しき縁かもしれない。

裕子夫人

◆広島人が夾竹桃の赤い花を嫌うわけ

★毎年東京では、品川の沢庵和尚ゆかりの東海寺で原爆罹災者の慰霊祭が行われ、87歳で亡くなった妻の母の供養も兼ねて出来るだけお参りするようにしているが、東友会という被爆者の団体の人達もさすがに加齢が目立ってきているように思える。いま住んでいる小平にも小友会というのがあるが、こちらは個人情報保護法とやら厄介な法律のために、お互いに助け合うことはおろか知り合うことも少ないので殆んど名目だけになってしまっているのは残念なことだ。

★広島の人たちは夾竹桃の赤い花を嫌っている。それはあの日にも咲いていた、暑い夏の赤い色が、原爆犠牲者の血のあがないを連想させるからかもしれない。(2010.7.5.寄稿)






長崎原爆の閃光、キノコ雲を見た!!


鳥井守幸(29法)

★太平洋戦争末期を三井三池炭鉱の街、福岡県大牟田市で過ごした。敗戦時は、旧制中学2年生で、勉強より勤労動員、軍事教練の日々だった。

★当時の大牟田市は、人口20万人足らずの中都市だったが、炭鉱だけでなく、軍需工場が多かったためか5度に渡り、米軍の執拗な空襲を受けた。大規模空襲では、昭和20年(1945年)6月18日夜、60機のB29が襲来、2時間に及ぶ焼夷弾攻撃を加えた。そして、わずか1ヵ月後の7月27日未明、再び60機編隊のB29爆撃機が大牟田市上空に飛んで来て、約3時間に渡って前回を上回る規模の徹底した焼夷弾投下を行った。

都市空襲の主力爆撃機で、広島・長崎に原爆を投下したB29

★その夜、私が身を潜めていた防空壕のわずか3、4m横に大型油脂焼夷弾が落下、壕の入り口は炎に包まれたが、危うく死を免れた。この空襲の焼失地域は、我が家の2、300mまで迫っていた。

◆米軍が大牟田空襲を再度やり直した理由

★米軍は、なぜ続けて2度の大牟田空襲を行ったのか。戦後の米戦略空軍公開資料でナゾは解けた。有明海は、干満の差が大きい。初めの空襲(6月18日)の際、これを知らないままB29の操縦者は、レーダーによる海岸線測定を行った。ところが当夜の有明海は干潮時だったため、1マイル(約1.6km)以上の誤差を生じ、干潟を市街地と誤認してムダな焼夷弾の雨を降らせたのだ。

★これに気付いた米軍は、2度目(7月27日)の空爆に当たっては、前回の10倍の照明弾を用い、市街地を目視で確認しながら焼夷弾の投下を行った、と報告されている。地上からの日本軍の対空砲火をどう考えていたのか、この夜のB29の大編隊が意外なほどの“低空攻撃”だったことを私は目撃している。

★さらに8月7日の昼間米軍艦載機が来襲、大牟田の工場地帯を中心に爆弾攻撃と機銃掃射を行い、勤労動員の中学生、女学生が犠牲となった。この空襲の際、グラマン戦闘機、ロッキードの双胴戦闘機P38ライトニングと迎撃の日本機の空中戦を目撃した。自宅に戻ると、この空中戦の米機の機関砲弾と思われる流れ弾がわが家の居間のタタミに突き刺さっているのを見つけた。5度に及ぶ大牟田空襲によって、市内の罹災人口5万5,410人、死傷者1,281人(大牟田市史による)に上った。

艦載機のグラマン戦闘機(米軍資料から) 双胴戦闘機ロッキードP38ライトニング(米軍資料から)

◆有明海越しに長崎原爆の投下を目撃


★そして、忘れ難いのは、8月9日の長崎原爆の投下の瞬間を有明海を隔てて、この目で目撃したことである。あの日、学校近くの居住者は“学校防衛隊”として登校した。めずらしいことに朝から空襲警報のサイレンが鳴り、生徒が自分たちで作ったタコツボ防空壕に身を潜めた。やがてB29の特有の爆音が頭上を通過、遠ざかり、警報は解除された。

★タコツボから校庭に出てどれくらい経ったか、西の空に突然閃光が走り、やがて大きな雲が湧きあがった。高台にある中学校の校庭から有明海を隔てて望む雲仙岳。その右方だ。「なんだ!あのカボチャ雲は?」級友たちの叫ぶ声。これが長崎原爆のキノコ雲と知るのは、後のことである。

長崎市上空に湧き上ったキノコ雲(米軍資料から)

◆三井三池炭鉱で働いていた米豪兵捕虜、強制連行の中国人、朝鮮人たち


★当時、三井三池炭鉱には、アメリカ、オーストラリアなど多くの連合国軍捕虜、強制連行の中国人、朝鮮人が働いていた。わが家の2階から捕虜収容所(福岡捕虜収容所三池分所)の屋根がよく見えた。朝、銃剣を付けた日本兵に率いられ、近くの三池坑に向かう捕虜の列を何度も目撃した。勤労動員で出かけた三池港貯炭場近くで、彼らの労働現場と隣り合わせになったこともある。

★この捕虜たちの一部は、8月15日の日本敗戦を境に解報され、“暴徒”と化した。婦女暴行に食料掠奪。元中国人捕虜が両腰に日本刀を下げ、拳銃を振りかざして市電を止め、乗客の金品を強奪する現場も目撃した。市内の一部では、敗戦直後から暴徒を避ける疎開が始まった。捕虜収容所に近いわが家では、食料を地下に隠し、彼ら暴徒に備えた。

◆過酷な炭鉱労働に対する“報復処刑”だったのか

★敗戦を境に“暴力の街”になったのは、大牟田だけではない。捕虜、朝鮮人、中国人を労働させていた炭鉱や金属鉱山を中心に、後日私が調べたところでは全国で22ヶ所あった。捕虜と言えば、もう一つ胸を突かれたことがある。戦後、捕虜虐待の罪で裁かれた日本国内のBC級戦犯は1,013人に上るが、このうち死刑を言い渡され、巣鴨プリズンでの処刑第1号と第2号となったのが、三池捕虜収容所の前所長の由利敬中尉(27歳)と敗戦時の所長、福原勲大尉(30歳)だったことだ。「捕虜に食料を十分に与えなかった」「空襲時に避難させなかった」というのが、二人に対する死刑の判決理由だった。過酷な炭鉱労働に対する“報復処刑”だったことは、十分想像できる。

A級戦犯と国内BC級戦犯が処刑された巣鴨プリズン
(Wikipediaから転借)

★それにしてもあの頃、三井三池では何人の捕虜、中国人、朝鮮人が働き、どんな運命をたどったのだろう。その疑問に動かされ調査したことがある。戦後出版された『三井鉱山史』(2分冊)には、一切記述がない。他の炭鉱もほぼ同様だが、唯一、北炭が発行した『国家炭鉱統制史』に昭和16、17年ごろ日本に連行されてきた朝鮮人、中国人が、どの炭鉱に何人“配分”されたかが、数字だけわずかに残されている。あのとき目撃した暴徒がどんな運命を辿ったのか?私にとっての“戦後処理”は、いまも終わっていない。

◆米軍が密かに計画していた九州上陸作戦

★もう一つのナゾとして、「米軍有明海上陸計画」がある。もし、日本が広島、長崎の原爆投下後もポツダム宣言を受諾せずに戦争を続行した場合、米軍は「オリンピック作戦」と称して、南九州に上陸する計画(昭和20年11月)だったことはよく知られている。ところが、もう一つ「有明海上陸計画案」が存在したというのである。

★戦争末期、私たちが受けていた軍事教練の内容が変化した。騎兵銃を使って空砲による戦争訓練などが加わって、ある日から棒の先に模擬爆弾を付け、敵の戦車の前に飛び込む訓練が加わったのだ。明らかに対米軍上陸作戦だ。
同時に久留米の部隊から増派された陸軍兵が、大牟田市など有明海沿岸近くの小、中学校に駐屯を始めた。そのときの駐屯部隊員の1人に後に同じ新聞社の先輩記者になった人物がいた。

★その先輩記者Fさんの話によると、米軍の九州上陸作戦計画を日本軍は事前に察知し、上陸地点と思われる記述の中に「ARIAKE」とあるのを見つけた。有明海も米軍の上陸候補地の一つと判明、兵力を沿岸部に急遽配置したというのである。ただし、戦後になって、「ARIAKE」の呼称は有明海ではなく、南九州の入江の一つだったことが分かった、というのがFさんの説明である。

★この話の真偽は不明だが、もしも日本が戦争を続行していたら、上陸した米軍は南九州から北九州へと進撃し、地上戦は北上、激化して、私たちもまた戦争の犠牲者にされていたことは間違いない。敗戦後64年。私には、戦争下の記憶が消えることはない。(09.9.27.投稿)





3月10日、信州・佐久から見た赤く染まる夜空


遠藤雅司(31法)

★今年(09)は、戦後64年になります。私の少年の日の戦争体験を、遠い記憶を思い出して書きたいと思います。

★私は、昭和6年7月、東京市下谷区(現在の台東区)竜泉寺町で、6人兄弟の長男として生まれました。父親は、糸屋を経営しておりました。小売と卸もしていました。戦前の生活は、小僧と女中がおり、裕福な暮らしをしていました。当時、幼稚園に通う子供は少ない時代でしたが、1年間通園させてもらいました。父親としては、遠藤家の跡取りとして期待したのでしょう。

◆竜泉小学校最後の卒業生

★昭和19年3月に国民学校(小学校)を卒業しました。竜泉小学校最後の卒業生です。翌年3月10日の東京大空襲で校舎が焼け落ち、廃校になったからです。私は、東京の旧制中学に進学するつもりでしたが、竜泉寺の町会長や在郷軍人会の支部長をしていた父親の考えで、父の故郷の長野県佐久に縁故疎開することになりました。東京大空襲の1年前でした。

★急遽、東京まで迎えにきてくれた祖父に連れられて長野に行きましたが、余りにも急なことで、県立中学校はすでに入試も終わっており、入学は不可能でした。仕方なく入試のない町の岩村田小学校尋常高等科(2年制で中学に行かない者は、皆ここに進学)に入学することになりました。

★教員を志望する者は、この尋常高等科に入り、2年で卒業してから、師範学校に進学しました。この時の同級生の小林君とは、いまでも交際していますが、都会から来た者へのいじめに対して、よく助けてもらったことを覚えています。彼は、戦後学制が変わった信州大学教育学部に進学して、長い教員生活を送り、校長も務めました。定年退職後は、佐久市史編纂委員や佐久市文化財審議委員などを歴任。佐久地方に関する著書も多数出版しています。

◆疎開先の尋常高等科で過ごした1年間の楽しい日々

★いま考えると、この尋常高等小学校での1年間の生活は、田植えから始まり、稲刈りで終わる百姓の生活を知り、大変貴重な経験でした。また、田んぼに行き、小魚を獲ることも教わり、弁当のおかずを自給自足することも学びました。まだ中学1年生でしたからホームシックの日もありましたが、岩村田には小学生のころから夏休みに遊びに来ていたので、友達もたくさんいて楽しい田舎生活でした。

★疎開した昭和19年の夏休みと暮れの正月休みには、東京の家族の元に帰りました。東京は、このころから毎晩のようにB29(「空の要塞」と言われ、米軍の主力爆撃機)の東京偵察飛行が始まっていました。私の帰省中も毎晩のようにB29が飛来し、夜空に何本ものサーチライトを浴びて機体を浮かび上がらせる姿は、絵になっていました。とは言うものの、たった1機で何もせずに高高度をゆうゆうと北から南に過ぎて行く敵機は気味が悪かった記憶が甦ります。

★もちろん、そのころから中には高度を下げて飛行してきて、焼夷弾をばら撒くB29もありました。焼夷弾に付いている紐がきらきらと燃えながら夜空を落ちてくる光景は花火のようでもありました。しかし、大量の焼夷弾は、たちまち街を火の海にする恐ろしい兵器でした。日本の戦況が悪くなってきていることは、中学生の私にも何となく分かっていましたが、当時の教育のせいでしょうか、日本は絶対に負けることはない、と思っていました。

日本の本土空爆用の焼夷弾とB29爆撃機(米軍資料から)

◆10万人が死んだ東京大空襲の夜


★昭和20年3月9日の夜、ついに大編隊のB29の東京大空襲が始まりました。私は佐久に戻っていましたが、このとき竜泉寺の実家には、両親と姉と妹、2歳の弟の6人がいました。後で聞いたのですが、この日の空襲は、正月に帰省していた私が見たときと違い、B29が低空飛行で侵入して焼夷弾をばら撒いたのです。9日から10日にかけて、東京の下町のほとんどが焼失しました。

★私の実家の避難場所は、近所の竜泉小学校になっていました。町会長だった父は、ここ(小学校)は火災が起きたら逃げる場所が狭く危険なので、家から反対方向にある南千住の空襲跡に行くように家族に伝え、自分は町内を巡回していたということです。

焼夷弾を投下するB29爆撃機(米軍資料から)

◆母と弟が危機一髪で難を逃れる

★父を残して、母たち親子は、浅草・上野方面が炎上しているのでそちらを避け、上野公園の高射砲陣地が襲来したB29に向けて迎撃する射撃音が轟く中、必死に避難したといいます。途中、母の頭にガーンと何かが当たりました。高射砲の破片だったそうですが、母は防空頭巾を2枚重ねて被っていたため、助かりました。背中に負ぶっていた弟の頭の数cm先でした。

★母も背中の弟も、危ないところで味方の日本軍に殺されるところした。この時、高射砲の破片に当たって怪我をした者は、何人もいたといいます。それから、町内の避難場所に指定されていた竜泉小学校は、父が予測したようにここに避難した何千人もの人が蒸し焼きになりました。恐ろしいことです。

★先にも書きましたが、大空襲の日、私は佐久の疎開先にいました。この夜のことは、毎年「陸軍記念日」のイベントとして行われていた群馬・長野県境の夜行行軍に参加した友達の中学生から「東京の方向の空が真っ赤になっていた」と聞きました。佐久にいた私自身、東京方向の夜空が紅色に染まっていたのを憶えています。

★家族のことですが、父は、大空襲下、町内を巡回していましたが、ついにわが家が焼かれるのを確認した後、南千住の空襲跡に向かい、家族と再会、無事を喜んだそうです。この日の空襲で、隅田川の両岸の墨田区、江東区、台東区が完全に焼きつくされ、10万人以上の人々が亡くなったのでした。

東京大空襲で焦土の街を避難する人々(3月10日) 
警視庁カメラマン石川光陽撮影

◆中学に入り、勤労動員の日々


★翌11日、幸いにも両親と兄弟の全員が岩村田に辿り着き、私は祖父たちと荷車を引いて駅まで迎えに行ったのを鮮明に憶えています。うれしかった。

★話が戻って、大空襲の少し前の昭和20年2月、長野県立小諸工業学校の入学試験があり、私は合格しました。この学校は、小諸商業学校として長い歴史を持っていましたが、昭和19年4月から「教育に関する戦時非常時措置方策」に基づき工業学校に転換していました。われわれは2期生になります。

★入学式に出てびっくりしました。3階建校舎の1階と3階は工場になっていて、教室がないのです。これは昭和19年10月に出された「学校工場化実施要項」に基づき、東京計器製作所の工場になっていたからです。11月からは、学徒動員令により生徒全員が工場に動員されるようになりました。

★3・4年生は、学校内外の工場に動員、2年生以下は農家に動員されることになりました。勉強どころではないのに驚きました。私は、何のために旧制の中学に1年遅れで入学したのか疑問を持ちました。尋常高等小学校の生活が懐かしく思い出されたものでした。登校するときは、全員戦闘帽と巻き脚絆の姿でした。入学式後の学校側の説明で、、総合グラウンドを開墾して、畑にすることが知らされました。

★入学式の翌日から、学内見学やオリエンテーションを受けて、早速、百姓仕事の開始です。農家に動員される1・2年生だけでの開墾作業です。農家に動員される身には、大変よい経験でした。グラウンドの開墾は2週間ぐらい掛けて、馬鈴薯畑、南瓜畑になりました。

◆グラマン戦闘機の機銃掃射で戦況の悪化を実感

★間もなく田植えのシーズンになり、私たちは南佐久郡内山村の農家に動員されました。いまで言えば、佐久のコスモス街道を下仁田に向かった途中の所です。毎日、10kmほどの未舗装の道を自転車で通いました。私にとって、田植えは田舎生活1年の経験があるので、心配なくできました。農家への動員は、帰るとき大きな「おむすび」がいただけるのが楽しみでした。それを弟や妹たちが待っていたからです。

★昭和20年に入ると、戦況はますます悪化、ある日、艦上戦闘機のグラマンが、突然急降下してきて、バリバリと機銃掃射してきたのには、肝を冷やしました。「列車に乗っていてグラマンに襲われたら座席の下に潜れ」と東京で体験してきたという人が説明してくれましたが、このときグラマン戦闘機は1回の機銃掃射だけで飛び去ったので命拾いしました。信州の山の中まで米軍機がやって来るのを見て、戦況の悪化を実感しました。

◆終戦の詔勅を勤労奉仕先で聞いた

★夏休みもない勤労動員が続きましたが、8月15日に天皇の特別放送があると聞かされました。ちょうどこの日は、小諸の陸軍療養所に勤労奉仕に行くことを命じられていたので、出先でラジオ放送を聞くことにしました。ラジオの調子が悪くて聞きづらく、放送内容がよく分からなかったものの、戦争が終わるらしということだけは、分かりました。

★勤労奉仕は止めて、私たち生徒はすぐに学校に戻り、先生に事情を尋ねました。学校も突然のことで何も判断できない状態でしたが、取り合えず勤労動員の中止と自宅待機が生徒に言い渡されました。私たち生徒には、諦めていた夏休みをもらったようなものでしたが、日本が戦争に負けたという事実を前にして、家に帰っても日本はこれからどうなるのか、心配で夜も眠れなかったことを思い出します。なにしろ「鬼畜米英を倒せ」と軍の宣伝文句を信じ切っていた軍国少年でしたから。

★それでも若かったのですね。4月に中学に入学して以来、勤労動員の明け暮れで全然勉強していないことに気付き、自分に活を入れて、勉強することを誓いました。終戦の年は、石炭事情が悪く、通学している列車の運行本数が極端に少なくなり、学校は休校になりました。まともに通学できるようになるまでに数カ月かかったのを憶えています。不幸な時代でした。こんなことは、孫やひ孫たちには二度と味あわせたくないと改めて思いながら筆を置きます。(09.9.17.投稿)

昭和天皇の「終戦の詔勅」(玉音放送)は、アイコンをクリックしてお聞きください。 玉音放送



一生忘れない“真黒い異様な物体”の光景


土子良治(30年理工) 

◆昭和16年12月8日 大東亜戦争勃発

その日はとても寒い朝でした。いつものように朝礼の為に校庭に並んだ私たちの耳に響いてきたのは、勇ましい軍艦マーチと、大本営発表の我が帝国海軍が真珠湾において奇襲攻撃をおこなって大戦果を挙げたとのニュースでした。そして、この日から4年間に及ぶ大東亜戦争の渦中と戦後の混乱に私達は巻き込まれていったのです。

★当時私は、9歳9カ月、学習院初等科4年在学中でした。家は文京区駒込駅の近くにあり、両親と兄の4人家族で何不自由のない毎日を送っていました。はじめのうちは戦況も順調で、ラジオから流れる大本営発表のニュースも元気よく毎日のように赫々たる戦果を挙げたという発表で、これは間もなく我が国がこの戦に勝つのかな、と子供心に思ったりしていました。

★ところが昭和18年頃から様子がおかしくなってきて、空襲の警報サイレンが鳴り響いたりすることが多くなり、そのたびに灯火管制と称して電灯を黒い布で覆ったり、庭に掘った防空壕に逃げ込んだりするようになってきました。そして昭和20年3月10日、東京の下町一帯が焼け野原になる大空襲があったのです。

◆昭和20年4月13日 東京山の手一帯大空襲

★この年3月に満13歳を迎えた私は中等科に進学、初めて穿いた長ズボンにゲートルを巻いて陸軍の派遣将校の軍事教練などを受けるようになっていました。富士の裾野の陸軍演習場に2泊3日の野外訓練に行ったのもこの頃で、真夜中に叩き起こされて匍匐前進の訓練をさせられたりしましたが、まだそれ程の緊迫感も無く空腹感を除いては遠足気分だったような思い出すらあります。しかし、突如襲った悪夢のようなアメリカ軍のB29による大空襲で我々の生活は一変してしまったのです。

★何時ものように家族そろって夕食をすませた頃、警戒警報なしで、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り響き、「全員直ちに避難!!」という在郷軍人さん達の緊張したどなり声とともに、その悪夢は襲って来ました。防空頭巾を被ったり食料を持ち出す支度をして外に出てみると、いつもとは全く様子が違い大勢の人達が東の方向に向かって走っています。両親と兄と4人で皆の後を追ってしばらく行くうちに、軍人さんが「敵機来襲!!全員伏セッ」と怒鳴っているのと同時に頭のすぐ上を「グォーン」という腹に響くような薄気味の悪い音を立てながらB29が何機も何機も通り過ぎて行くのが見えました。

B29による都市空爆
「川崎・横浜大空襲記録写真集」HPから転借

★学校で習った通り両手で耳と目と鼻を覆い地面に伏せていると辺りが騒がしいのに気付き、起き上がって周りを見るとあたり一面に焼夷弾が落とされていて真っ赤な炎を上げていました。極端にいえば周囲は「火の海」で消火活動どころではありません。群衆に押されてただ逃げ惑うのが精一杯でした。

★何度目かの焼夷弾攻撃のあと、母の姿が見えないのにふと気づきました。父はびっくりするような大声で母の名を叫びながら人々の波をかき分け家の方に戻ろうとしていました。我が家の方向は勿論火の海で戻ることなどとても出来ませんし、消防団の人たちの指揮で群衆と同じ方向に進むことしか出来ません。それでも夢中で火の中に突入しようとする父を、兄と私は抑えるのに必死でした。

★やがて「駄目だ、あきらめよう」とつぶやきながら私達の手を握って群衆とともに避難を続ける父が妻との生き別れを決心し覚悟した胸の内を、今思うと筆舌に尽くし難い感情がこみ上げてくるのです。親子3人でやっとの思いで逃げ込んだのが田端駅と日暮里駅の間にあった貨物用の引き込み線のトンネルでした。既にトンネルの中には大勢の人がいましたが、人たちの間にもぐり込んで夜が明けるのを待ちました。

★その間、絶え間なく「ゴ―ッ」という音とともに熱風と火の粉がトンネルを吹き抜けて行きます。火の粉を浴びる私達の衣服に火が付くのを恐れた消防団や大勢の男の人たちが風上からバケツで水をブチ撒き続け、ずぶ濡れになった私達は一睡もできず、ただふるえていました。幸いにしてそのトンネルには中央に水路があって水は豊富にあった為、九死に一生を得たのです。

◆母との奇跡の再会

★やがて、うっすらと明るくなって来た頃トンネルを出てみてびっくり、あたり一面は見渡す限りの焼け野原、ところ所の焼け跡の水道管から魔法の様に水が噴き出していました。「ともかく家の方に戻ろう。」という父の言葉にしたがって、焼け野原の中に目印を探しながら我が家が建っていた場所へ辿り着くと、母が一人で茫然と佇んで居るではありませんか!

★親子4人しっかりと抱き合って再会と無事を喜び合い、言葉もありませんでした。後で聞いた話によれば、母は何度目かの焼夷弾攻撃のあと消防団の誘導で近所の「古河庭園」の水路に潜んで難を免れたとの事ですが、再会するまでどんなにか不安で恐ろしい一夜を過ごした事でしょう。

3月10日東京大空襲の鎮火直後の風景 3.10東京大空襲の犠牲者の焼け焦げた遺体
警視庁カメラマン石川光陽撮影(WIKIPEDIAより) 石川光陽撮影(WIKIPEDIAより)

★そのあとどこをどう歩いたのか全く記憶がありませんが、親子4人が麹町にあった父の会社に辿り着いたのは夕暮れ時だった様な気がします。然し、その道中で見た見渡す限りの焼け野原と、その中に所々に転がっていてまだブスブスと煙を上げている“真黒い異様な物体”の記憶は、一生忘れることの出来ない光景でした。

◆昭和20年8月15日 集団疎開・終戦

★本土への空襲が激しくなってゆくにつれて学校単位での子供達の集団疎開が行われるようになってきました。親と離れ離れになるという事がどんな事か良くわからないままに、私達は、山形県鶴岡市という所に数十人の仲間たちと集団疎開しました。幸いなことに、当時4年生の兄が一緒でした。このことがどんなにか心強かったことか、おそらく両親も兄弟一緒ということで疎開を認めたのではなかったのかと今にして思うのです。

★その街は、戦争や空襲などと全く掛け離れた静かな美しい街でした。疎開先の建物は大きな旅館で、広い庭には池もあり池には鯉も泳いだりしていました。然し、お米の供出制度による食糧事情は、“米どころの山形”とはいえ他所と大差は無く、食べ盛りの少年たちの食欲を満足させるには程遠く毎日が空腹感との戦いでした。ある日、同室の友人が近くの畑から失敬してきた南瓜を食べようということになったのですが、調理用の道具は勿論、火も使えないままに叩き割った南瓜を生で齧ったところ、青臭くてとても食べられる代物でなく口惜しい思いをした思い出があります。

★そして8月15日、敗戦の日がきました。天皇陛下の「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び………」という玉音放送は雑音に紛れて良く聞き取れませんでしたが、あとからの先生のお話で我が国が遂に戦争に負けたのだということを知ったのでした。思い起こしてみると私の戦争体験は、空襲の恐怖と食べ物のことばかりでした。

いま振り返ると、、それからの60有余年間も「激動」の時代ではありましたが、幸いなことに“戦争と飢え”には関係のない生活でした。そして今“平和と飽食”の日本に家族と一緒に暮らせる幸せを、只ただ感謝する今日この頃です。(09.9.7.投稿)




終戦前後の逼迫状況

大屋元治(30商)

★ボクの終戦は、旧制中学1年の夏です。家業の履物屋の店と居間の境に置かれたダイヤル式ラジオの雑音でよく聞き取れない昭和天皇の声に耳を傾けた。悲しくもなく、もちろん嬉しくもなく「あっ、そー!」という(天皇の口癖がぴったりの)受け止め方だった。サイパン島が陥落したとき、「もうだめだ」と大人たちが言うのをたびたび聞いていたせいかも知れないし、極限まで疲れ切っていたせいかも知れない。

★中学では、軍事教練の時間にボクには重たかった小銃を担いで校庭を何周も走らされたのが嫌だったが、学校は世田谷三軒茶屋一帯の空襲で焼け落ちた。この爆撃は、近くの三宿練兵場が標的だったという噂だった。数日後、友人に誘われて様子を見に玉電の通っていた大山街道(現在の246号線)を1時間ほど歩いた。左折して校門へ向かう道は、空爆による瓦礫の山で歩くのに苦労したのを思い出す。

肝を潰したP−51の急襲

★帰途、二子玉川方面からボク達に向かってP
-51戦闘機(マスタング)が1機、急降下して来るのが見えた。とっさに物陰に身を隠したが、目の前を左から右へ2列の弾痕が走った。肝っ玉が潰れるとは、このときのことで、以後こんな怖さは二度と味わったことがない。

P−51戦闘機(マスタング)
Wikipediaから転借

★当時、B29爆撃機の編隊が1万mの高高度を飛来して来ると、日本軍戦闘機が垂直に上昇して迎撃するものの、途中で火の玉となって撃ち落とされる光景を度々見ていたが、それにしてもP51戦闘機がたった1機で敵地に急降下してくるとは!日本軍の迎撃能力が全く無くなったと見ての行動だ。厚木の攻撃目標を偵察しての帰途、人影を見て面白半分に機銃掃射したのは間違いない。思うに広島、長崎の原爆投下も「この際、破壊力の実験をしておこう」という思惑があったと察する。

★その後、間もなく私たち家族が住んでいた駒澤がB29の空襲を受けた。空襲警報で一家は自宅裏庭の防空壕に避難した。ただならぬ気配、物音に父が外の様子を見に防空壕から飛び出した。大山街道の北側は、投下された何百発もの焼夷弾によって一面の火の海になっていた。町内会の井戸水のバケツリレーによる消火活動が始まった。父は街道南側への延焼を食い止めるため現場に残り、ボク達家族は駒澤ゴルフ場(当時は麦畑に変わっていた)へ避難した。
個人住宅の防空壕

★風呂屋(銭湯)の煙突が焼夷弾投下の標的になったという噂が流れたが、小学校近くのタンチ山に出来た高射砲陣地を狙ったらしい。火の粉が舞い上がるのが治まるのを待って、我が家に戻ってみると、幸いにも街道の南側は類焼を免れていた。

★B29の空襲が続き、三度目は無数の焼夷弾が上空を風に流されて東から西へゆっくりと落ちてくる中、貴重品の入ったカバンを肩に掛け、下の妹を背負って東へ逃げた。投下された焼夷弾は、ほとんどが幸い駒澤を通過して用賀方面に落下した。しかし、このとき西北にあった姉の駒澤高女は焼け落ちた。

◆B−29の無差別空爆が始まった

★この日の空襲は、前の二つの空爆と異なり、3月10日の東京大空襲と同じ無差別攻撃だった。日本本土空襲の当初、米軍機は京都を避け、軍事・産業区域を標的にしていたから、作戦の変更は明らかだった。日本政府は、このあたりで戦いを終結するのが、世界の常識だったのだろうが、原爆投下までの無駄な抵抗が悔やまれる。

★先ごろ、朝日新聞が「開戦の責任」と「終戦の責任」という特集を組んだ。前者については、当時の外交事情でそれなりの理由もあったのかも知れないな、と感じないでもなかった。だが、「終戦の責任」については、ボク達一般市民が味わった空襲の惨禍、生活難、果ては2発の原爆投下を呼び込んだ責任のさらなる追及をすべきだと思っている。

★戦災が身に迫る前、ボクが国民学校6年のとき、疎開が始まった。上の妹は新潟の寺に集団疎開、ボクは母の実家に預けられた。実家には足腰の不自由な爺さん、背中が90度曲がった婆さんと出征した息子(おじ)の嫁の3人が農業を続けていた。だから、ボクは働き手として歓迎された。

★毎朝、リヤカーに肥桶を積み、畑に向かう。到着すると、天秤棒に肥桶を1樽さげて爺さんとボクが担いで運ぶのだが、モロコシ畑を通るとき、朝露で頭からびっしょりになるのが嫌だった。

★東京に残った家族も、そのうち父、兄、姉が軍需工場へ動員され、母が下の妹と弟を育てながら店を守ることになった。ところが、兄は工場の寄宿舎で赤痢に罹り、伊勢原の病院に入院したのだが、空襲で病院が焼けてしまった。連絡を受け、母が空襲警報のたびに停車する電車を乗り継いで2、3日後、骨と皮だけになった兄を背負って帰ってきた。続いて弟も共同井戸の集団赤痢にやられ、二人とも父の実家近くの溝の口病院に入院した。さらに上の妹も病気で新潟から返されてきた。

◆父は食料集めに奔走

★この事態に、母はやむなく店を閉めて、三人の看病に当たった。そんなとき、どういうわけか毎日、朝の一番電車で蒲田の軍需工場に通っていた父が放免され、一家は入院中の二人を除き、母の実家に預けられていた私も含め駒澤に集結することになった。工場動員から解放された父は、こんどは家族が食べる食料集めに奔走することになった。

★そのころわが家では、玄米を一升瓶に入れ、棒で突いて幾分精米したものに「沖縄」という大きいだけで水っぽいサツマ芋を加えて食べた。大豆を一粒ずつ金槌で砕いた上で混ぜることもあった。芋の葉や茎も食用にした。父母とも神奈川の田舎出のため、これでも当時としては上々の暮らしだったのだ。

★こうして伝染病と食糧難で苦しい生活を送っていたとき、さきに書いたB29の空襲を受けたのだから、家族の疲労は限界に達していた。私を含め玉音放送を特別の感慨もなく聞いたのも無理からぬことだったと思う。日本の無条件降伏を受けて進駐してきた占領軍が驚くほど、日本人は静かで無抵抗だった。天皇の下で規律が保たれていた、という説を唱える者がいるが、そうではなく、空襲と食糧難で日本人はみんな疲れ果て、何をする気力も残っていなかったからだ、とボクは考えている。

★「昭和8年生まれ」というシリーズ本の一冊に「この世代は“鬼畜米英”から“チューインガム・プリーズ”に急変した頼りない、リーダーの出ない世代だ」との総括に憤慨した記憶がある。戦中のB29や戦後大山街道を爆走する米軍の大型トラックの隊列を見せつけられ、「アメリカは、どえらい国だ」と感銘すら受けたのは、ボクにとって当然の帰結だった。そんな凄いアメリカを知りたい、見たい、との思いが強まり、その後のボクの人生行路となった。(09.9.6.投稿)




山陰・米子と太平洋戦争


小川浩史(35法)


★私の故郷は、山陰の商都、米子である。山陰地方は、戦争末期になって局地的な米軍の空襲はあったが、本格的な空襲を受ける寸前に終戦になったお蔭で、市域全体が焦土となる最悪の被害は免れた。

皆生海岸から皆生温泉[手前)、米子市内、大山を望む
観光絵葉書から転借

★鳥取県の県都、米子市は、商都だが、戦時中は軍の飛行場2か所(旧陸軍三柳基地、旧海軍美保基地)と日本曹達などの軍需工場がある軍都でもあったことから、米機の爆撃が始まるのは避けられない状況下にあった。

★旧陸軍の三柳基地は、現在陸上自衛隊が駐留、旧海軍の美保基地は米子空港となって、航空自衛隊と民間航空が併用している。戦争末期、美保基地は特攻基地となり、多くの若者が九州・鹿島基地経由で沖縄戦線へ次々に飛び立ったという。戦後、朝鮮動乱が始まると、美保基地は米軍の前線基地となった。ジェット機で朝鮮の前線までは、1時間とかからない距離である。

◆母子4人、父の里の安来の山村に疎開

★話を戻すが、昭和20年に入ると、米軍の本土空襲は大都市から地方都市にも攻撃対象が広がってきた。そんな中、街並みの延焼を防ぐためと、航空機の緊急着陸用という国の命令で、市内中心地の加茂川沿いの片側の家並みが強制破壊され、その跡に一直線の滑走路兼用の道路が作られた。続いてわが家のある街並みも同じ運命にあったが、作業の途中で終戦になった。

加茂川の対岸は家並みが撤去され、滑走路兼用道路に
観光絵葉書から転借

★戦況の逼迫した中で、米子の町もいよいよ標的になるのは時間の問題となり、母と私たち子供3人は、父の実家のある島根県安来市近郊の山村に疎開することになった。鳥取の隣県の島根へは、木炭バスの交通手段もあったが、荷物のこともあってか櫓船を何艘かチャーターして中ノ海を水路で疎開した。中ノ海の対岸の島田という集落からは徒歩で山越えして、父の里に辿りついたのを憶えている。私が国民学校3年生になったころだった。

★村の国民学校の授業は、農業が中心で、町から来た私はあまり関心がなく、山や川で遊んでばかりいたことを思い出す。そんな学校生活の中で、なぜか兵隊さん用と言うことで萱(かや)を刈り取って供出したこともあった。戦争が終わり、米子に帰るときになって、もう少しこの山村で暮らし、遊びたいと思ったものだ。

◆艦載機グラマンの米子空襲

★昭和20年の7月に入ると、山陰地方も米軍の空襲が本格化してきた。米子市でも24日から28日にかけて、数次にわたる艦載機グラマンの攻撃を受けた。同年7月28日の米子空襲では、艦載機グラマンが編隊で米子駅、日本曹達米子工場などにロケット弾を投下、機銃掃射が繰り返され、山陰本線大山口駅では、居合わせた上り列車が遭難した。執拗な爆撃と銃撃で乗客など43名が死亡した。

艦載機グラマンの空爆
米軍撮影資料

★同じ28日の空襲で、私たち母子が疎開していた島根県側の日立製作所安来工場(現在の日立金属)もグラマン戦闘機が急降下を繰り返して爆撃した。私は、これを村の半鐘塔に登って見ていたが、爆音が凄かったのを憶えている。敵機は目標攻撃を終え、残った爆弾の処理もあってか、山陰線の登り列車を攻撃したという話である。

★グラマンの攻撃を避けるため、列車はトンネルに退避したのだが、全体がトンネル内に納まらずにいる入り口と出口の車両をグラマンは執拗に機銃掃射したため、40名を超す死者を出したのだった。

◆平和の中で寂れていく故郷

★広島に原爆が投下された直後、多数の人々が中国山脈を越えて島根や鳥取県にも避難してきたのも憶えている。そうした人々の話から村の大人たちは、早い段階からそれが1発で大量の市民を死傷させる新型爆弾だということを知っていた。

★昭和22〜23年ごろ、祖父の商用に同行して、夜行列車で京阪神に行ったときに目にした光景をいまでも忘れない。いまの大坂城前の大阪造幣局の周辺が、戦後2〜3年経っているのに爆撃され、折れ曲がった鉄骨だけの建物群が放置されたままになっているのを見て、たいへん驚いたのを思い出す。

★私の故郷、米子は、不幸中の幸いだが、他の被災都市に比べると、大きな戦禍は免れたものの、昔の街並みは今はなく、中心部の商店街は廃れ、空き地の駐車場、シャッターの降りた建物も多く、寂しい限りである。わずかに寺町の寺々が昔日と変わらずに存在していることが、せめてもの慰めである。(09.8.23.投稿)




武蔵野の戦争と平和
(その1)

高木武二(27理工)

★麦の穂がこんなに背が高いとは思わなかった。麦畑の畝と畝の間にしゃがみこむと、葉先が私の頭にかかってきた。少し黄ばんで寄り添うように生え立つ麦の根元を、しげしげと眺めたのも初めてだった。「空襲警報です!」という車掌の声とともに、列車は止まってしまい、続いて「列車から降りて畑の方に避難して下さい!」という指示で、私たち乗客はデッキから飛び降りるように線路脇に降り立ち、広々とした麦畑の中に身を隠したのである。
 
★今思うに中央線の国分寺と国立の中間辺りであろう、昭和20年5月中頃太平洋戦争の末期であった。当時、父は東京に残り、母と姉は伊那に疎開していた。16歳であった私は連絡係りとしてその間を往復し、上京の時は食料をリュックに詰め、帰りは疎開しきれなかった貴重品を背負って運んでいた。

◆「雉も鳴かずば撃たれまい」
 

★辰野駅から8時間余、ようやく新宿に着けるなと思っていた矢先である。覚悟の上であったが腹立たしい。当時米軍の攻撃は爆撃機から艦載機に変わっており、列車が狙い撃ちされた悲劇が報じられていた。上空からは動くものはよく見える。「雉も鳴かずば撃たれまい」と、とにかく列車は停止することになっていた。

都市を空襲するグラマン艦載機F6Fヘルキャット(米軍撮影
 
★どのくらい麦畑にいたことか。傍らのリュックが唯一の戦友に見えた。そのうち列車が汽笛を2回鳴らした。列車に戻れの合図である。敵機は現れなかった。恐らく空襲警報が解除されたのであろう。麦畑から続々と乗客が戻り始めた。こんなにも大勢が麦畑に伏せていたのかと驚いたものだ。

◆いま味わう平和の有難さ

★それから18年後の昭和38年、私は家族を連れて武蔵野の一角の小平に引っ越してきた。麦畑も広々と健在であった。敵襲で列車から避難した武蔵野の麦畑を思い出した。今は平和なんだという実感に浸ったものだ。

★先の戦争では、叔父がベトナム沖で戦死し、従兄弟のひとりは、原爆投下の2日後に広島に救援に入り、原爆症となって死去した。わが家をはじめ親戚の家は殆どが焼失し、朝鮮半島や大陸からの引揚者も多い。兄は早稲田大学から学徒出陣で出征したが無事帰ってきた。悲惨・凄惨な話は山ほどあるが、ここでは機銃掃射で死んだかも知れない記憶から「武蔵野の戦争と平和」を綴ってみた。(09.8.20.投稿)




武蔵野の戦争と平和

(その2)

高木武二(27理工)

「他の壕にいこう!!」と級友。
「よせ!ここにいた方がいい!!」と私。
一瞬の会話であった。


★旧制中学の3年の冬。私たちは戦時の勤労動員のため、京王線の柴崎駅近くの鉄工所で働いていた。すでに昼日中米軍機のB29が2日おき3日おきにと襲来してきた。1万米以上の高度でやってくるが、白い飛行機雲の尾を引いているので直ぐに分る。空襲警報は鳴るが毎々のこととなると慣れっこになって「来た来た、今日は何機だ!」などと見物するような状況だった。

◆とっさに「よせっ!」と制止した私 

★しかし、この日は違った。虫の知らせ?だったのか、工場の周囲の畑に急造した防空壕に皆が大人しく退避していた。そのうち物凄い轟音とともに大地が揺れた。お粗末な防空壕の土が崩れ、頭から首から背中へと土埃りがなだれこんできた。「他の壕に・・・・」の会話はこの時である。何故私が「よせ!・・・・」と言ったか。


★まだ日本と中国のみが戦争していた頃、戦場帰りの兵士の話を両親が聞いているのを子供心に覚えていた。
「初めて戦場に来た新兵は、壕に入っていても白兵戦が始まると、すぐ他の壕に移りたがるんだ。自分の壕だけが危ないんだという戦場心理に襲われる。そこで飛び出すから撃たれてしまう。動くものは必ず標的になるからな。古参兵となると、どこにいたって死ぬ時は死ぬ。動かなければ白兵戦は終わる、と腹を括っているからめったに死なないんだよ。戦場心理なんて普通の人には分らないだろうけどね」というような話だった。このうろ覚えの記憶が、この時とっさに出て「よせ!・・・・」と言わせたようだ。


◆古参兵の教訓は役に立った


★空襲解除になり壕から出てみると、周辺の畑には直径20米ほどの擂り鉢状の穴が至るところにあいていた。翌日この擂り鉢穴に入って見ると、触っただけで指が切れそうな弾丸の破裂した破片がいくつも出てきた。こんなものが飛び交っている時壕の外にいたら極めて危険である。
 
★ 同じ壕にいた友人が戦場心理に襲われたがどうかは定かではないが、結果として引き止めて良かったと思っている。この時の我々の勤務する工場は被害全くなく、女子工員寮に一発落ちて寮は中央からVの字形に破壊されたが、病気で一人寝ていた女子工員も幸い無事であった。

空襲で燃え上がる東京市街(1945.5.25.)
Wikipediaから転借

★米軍機はサイパンから発進し、富士山を目指して北上、右に旋回して武蔵野上空を通って東京に向っていた。武蔵野のちっぽけな鉄工所を敢えて攻撃したとも思えないが、やがて戦火は日本全土に広がることとなる。この工場は今はないが、近くに富士フィルムの現像所があり、趣味の写真の引き伸ばしを頼みに行くようになった。「嗚呼、60年も前、この近くで爆撃喰ったな!」と思い出しつつ、今、写真を楽しむ平和を噛みしめている。(09.8.23.投稿)



千葉県松戸で迎えた3月10日の東京大空襲


滝沢公夫(30法)

★戦後64年目の終戦記念の月を迎え、未だに苦しむ広島・長崎の原爆被災者の姿を見るにつけ、核廃絶と反戦の誓いを新たにするこの頃です。私は幸い、危ういところで徴兵の年代からは外れましたが、戦時中のつらい経験の思い出は消えることがありません。

迫る食糧難と満蒙少年義勇団への友の参加

★戦時中、私は千葉県松戸町(現在松戸市)の国民学校に在籍していましたが、日を追って食料事情は悪化し、昭和20年の6年生当時には、弁当としては薩摩芋程度しか持参できませんでした。たまに蝗をとって、炒って持参することもありました。とにかくいつも腹を減らしていましたが、これは誰でも同じことでした。

★ある日、軍の上層部から、満州の前途洋々たることの説明があり、同級生数名が応募しました。そして、校庭で全校生徒による歓送会がありましたが、何となく胸騒ぎがしたことを覚えています。結局、戦後になっても行方不明となり、心に大きな傷を負ったままです。

空襲の恐怖

★松戸町は、千葉県といっても江戸川沿いで東京と接しています。毎晩のように東京が爆撃される轟音とともに赤い炎が立ち上がり、昭和20年に入ってからは、特に物凄く、寝ていられませんでした。3月10日の大空襲では、一晩中真昼のように明るくなり、世の末という感じで震えていました。


焦土(右上は隅田川、手前のドームは国技館) 焼夷弾で焼け野原に
1945年3月10日の空爆直後、米空軍が撮影 石川光陽氏撮影(当時、警視庁カメラマン)

★B29の来襲はひどく、近くの高射砲の発射と合わせて戦場のような雰囲気でした。それでも、翌日には爆弾等の破片を拾って、密かにコレクションのように持っていることもありました。

進学と学徒動員のつらさ

★昭和20年4月、私は柏町(現在柏市)の旧制東葛飾中学に進学しました。当時、常磐線は松戸までしか電車がなく、柏には汽車で通学しましたが、大変な混雑で客車には乗れず、主に炭水車の上に乗りました。途中でB29に機銃掃射されたこともあります。

★学校は軍事教官による教練が主体で、往復びんたを何回食ったか知れません。竹槍の訓練もありました。そのうち、軍に動員されて、茨城県取手町(現在取手市)の駅前にあった沼を、弾薬庫建設のために埋め立てるための工事にあたりました。毎日もっこ担ぎで大変苦しかったです。ただ、昼飯に、全く食べたことのない白米の握り飯が出たことは、唯一で最大の楽しみでした。

終戦と転校の混乱

★8月15日の終戦の日、これからどうなるのだろう、という不安はありましたが、それよりも、やれやれ今までのような苦労はしないで済むかな、という一種の期待の方が大きかったように思います。9月になって、余りの食料難のため、父親の出身地である長野市に転居することになり、私は旧制長野中学に転校しました。しかし、ここでも戦後動乱期で、しかも戦災も受けており、甘いものではありませんでした。

★相変わらずの食料難と、質実剛健の校風から、厳しい環境にはありました。教科書の墨塗りや蔵書の選別等嫌な経験や、新憲法の発布等の激動もありました。しかし、この中学での収穫も大きく、途中で新制高校としての長野高校に切り替わり、現在も東京で隔月に同期会を実施する連携の良さを維持しています。

そして小平へ〜平和への祈り〜

★昭和26年、私は早大第一政経に進学し(途中で第一法に転部)、同時に小平町(現在小平市)に転居しました。もうこの頃になると戦後の色彩は薄くなっていましたが、安保問題等で大荒れのこともありました。

★私の戦争体験は、従軍したり、戦災にあった人達に対比すれば、本当に生ぬるいものといえますが、私なりにある程度の苦労もし、戦争への怒りと平和への希求は強いものがあります。人間社会は、古代から戦争が絶えず、世界平和の達成が如何に困難かを感じさせられますが、唯一の被爆国である日本が、絶えず国際社会に働きかけ、積極的な役割を果たすことが真に望まれます。終戦記念月を迎えて、平和への祈りを捧げたいと思います。 (09年8月7日投稿)



県都が焦土になった岐阜空襲


松谷富彦(36文)

私の戦争体験の実感は、国民学校(小学校)の2年生から始まります。昭和19年11月14日の武蔵野市(当時は北多摩郡武蔵野町)の中島飛行機工場爆撃から本格的な米軍機の東京空襲が始まりました。「空襲警報発令」のたびに庭の防空壕に防空頭巾を被って駆け込み、空爆の地響きに息を殺す時間が次第に増えていきました。

父が中国大陸へ出征した後、幼い子供3人(長男の私と3歳の妹、そして生後間もない乳飲み子の弟)を抱えて世田谷の留守宅を守っていた母は、自分の実家がある岐阜に疎開を決意。私の2学期の終了を待って、母子4人は危なくなった東京を脱出し、安全と思われた岐阜に移ったのでした。  


昭和20年が明け、私が2年生の3学期に編入した疎開先の国民学校は、間もなく校舎の半分が兵舎に変わり、兵隊さんとの同居生活になりました。授業時間が少しずつ削られて、その分、栄養源確保のイナゴ獲りの時間が増えて行きました。「イナゴ3匹で卵1個の栄養がある」と先生に言われ、懸命に獲ったのを思い出します。

◆艦載機グラマンの機銃掃射とパイロットの笑う顔

3年生になって2カ月ほどすると、教室の授業は点在する鎮守の杜での分散授業に変わり、小学生にも戦争の逼迫が肌で感じられるようになっていきました。このころ子供心にも心底「殺される!」と思った出来事が、64年経ったいまも鮮明に甦ってきます。

★鎮守の社の分散授業から下校するため、炎天下の藪川(根尾川下流の呼び名)の堤防道を歩いていると、警戒警報のサイレンが空襲警報に変わりました。身を隠す木陰もない場所から早く集落に辿り着こうと速足で急ぐ私の背後からプロベラ音が近づき、前方の河原に機銃掃射の音と土煙が走りました。

米軍艦載戦闘機グラマンF6F「ヘルキャット」
Wikipediaより転借

★思わず顔を上げると、藪川の川面に沿って艦載機のグラマンが超低空で飛び過ぎるところで、風防ガラス越しにパイロットが私を見ながら笑ったのがはっきりと分かりました。数機の編隊の1機でした。機銃掃射は、一人歩いている子供をびっくりさせ、からかうためだったのでしょう。ダダダダッという掃射音と線状に走る土煙に生きた心地のしなかったことと、敵機のパイロットが笑った真夏の情景が走馬灯のように浮かんできます。ちょうどいま小学4年生の孫坊主より1学年下のときの体験でした。

◆襲いかかる「B29」135機、岐阜市は灰燼と化す

 鎮守の杜の野外教室に通う日々が続いていた昭和20年7月9日夜遅く、空襲警報発令から間もなく東の方向の夜空が真っ赤に燃え、地鳴りのような音が連続して聞こえ始めました。私たち母子は、灯火管制で真っ暗な町並みから少しでも離れるために防空頭巾を被り、私は水の入った大きな薬缶を抱えて、はるか遠くに赤々と燃える空を背に夜道を野壷(肥壷)にはまらないように気を付けながら避難の流れに従っていました。熱気が東から襲ってくる中での逃避行でした。

★私たち母子が疎開していた町から東へ10数kmの距離に位置する岐阜市は、この夜135機のB29の空襲で文字通り灰燼に帰しました。資料によると米空軍は、東京、大阪、名古屋などの大都市、大工場の空襲が一通り終わり、標的を中小都市に向けた中でのオペレーションでした。ねらいは、@「こんな町までやられるようになっては」と国民の戦争意欲を喪失させること。A中小都市の産業の破壊――だったということです。


長距離戦略爆撃機B−29(米軍撮影)

◆記録が語る凄惨な地獄絵

★ 「B29から投下される焼夷弾による津波のような攻撃で全市が燃え上がるのはあっという間だった」と記録されています。その凄まじい様子を記したホームページ「岐阜平和通信」から「岐阜空襲のあらまし」の記述を少し引用させていただきます。

  <岐阜駅周辺への第一撃につづき、キラキラと花火のように降ってき、ドーンと鈍い地響きとともに一面に火のついた油を飛び散らす焼夷弾は、柳ヶ瀬(筆者注:市内有数の繁華街で美川憲一のヒット曲「柳ケ瀬ブルース」で知られる。)の周辺部、金神社、明徳国民学校周辺から真砂町や本郷町あたりに集中。この中を人々は西へ西へと逃げようとしたが、金神社の森は熱風に煽られて竜巻のように燃え上がり、凱旋道路も廊下に油を流したように地面に火が走り、道路を横切ることもできない状況になった。>


焦土と化した岐阜市街地(「岐阜平和通信」HPから転借)

  <直撃弾を受けて無残に即死した子供、背に負った瀕死の父親を捨てて逃げざるを得なかった青年、目が見えず遠くに逃げられず近くの防空壕に入って焼け死んだ人、…雷のとどろくような空の下を人々は必死に逃げた。>


都市空襲で焼夷弾を投下するB−29
(Wikipediaから転借)

◆衣服が焼け焦げ、煤に汚れた被災者の列

記録によると、この夜の空襲による死者は約900人、負傷者約1200人、焼失家屋は全体の約50%の約2万戸、住む家を失った人は約10万人で市民の約60%にあたりました。

★夜が明けると、私たちが疎開していた町の東西に伸びる通りは、衣服が焼け焦げ、顔も手も煤だらけになった人々の疲れ果て、放心した姿の避難の列が途切れることなく続きました。それは1週間近くつづいたと思います。

★私たち母子が借りていた和菓子屋の奥の隠居部屋と庭続きに外科医院があり、焼夷弾で焼かれた若い女性の重症患者が収容されました。痛みを和らげる手立てもなく、「痛いよー」「痛いよー」と終日聞こえてくる患者の悲鳴。しかし、2日目、3日目と日を経るうちに絶叫は次第に小さくなり、いつの間にか聞こえなくなっていました。

 ◆広島と長崎に新型爆弾が落とされた!

★岐阜市の市街が瓦礫に変わってから1ヶ月後の8月6日、国民学校3年生の私は、大人たちが「きのうB29から広島に新型爆弾が投下され、街が全滅したようだ」と話しているのを聞きました。間もなく大人たちは、新型爆弾を「ピカドン」と呼ぶようになりました。たった1発で即死者約14万人、負傷者約27万人という人類初の惨禍を引き起こした原子爆弾の投下を私は最初にこんな形で知らされたのでした。

★そして、同胞の悲劇がこの1発で終わらず、わずか3日後、2発目の原爆が米空軍のB29によって長崎市の上空で炸裂、7万4千人の生命を一瞬にして奪ったことを「長崎にも新型爆弾が落とされた」という形で小学生の私は知ったのでした。(09年8月6日投稿)


原爆ドームの前に立つ筆者
59周年平和祈念式の04年8月6日撮影

真夏のサトウキビ畑に託して、沖縄戦の悲劇をしみじみと歌う森山良子の[♪さとうきび畑]が聞けます。You Tube
ルネ・クレマン監督の不朽の名画[禁じられた遊び]で流れるナルシソ・イエペス演奏[♪愛のロマンス ]You Tube

♪BGM:Chopin[Ballade1]arranged by Pian♪

第2次大戦でナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にして2002年に制作されたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画『戦場のピアニスト』(原題ピアニスト)で、隠れ家で発見されたとき、ドイツ将校の所望で弾いた曲が、ポーランド作曲家ショパンの「バラード第1番」でした。

戦争の非道を訴えたこの映画は、カンヌ映画祭の最高賞「パルムドール」、アメリカのアカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞他、各国で多くの賞を受賞したことは、ご存じの通りです。




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