★広島に原子爆弾が投下された直後の報道ではこの爆弾は新型爆弾と表現され、人々の会話には“ピカドン”と云う言葉が使われた。昭和20年8月6日午前8時15分、エノラゲイから投下された一発の爆弾は当時35万人を擁した広島から一瞬にして14万余の人命を奪い去った。半世紀以上にわたって語り継がれてきた原爆にまつわる無数の話は、その殆んどが悲惨、凄惨極まりないものであるのは当然である。
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1945年8月6日朝、広島市に投下された
原子爆弾「リットル・ボーイ」 |
wikipediaから転借 |
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◆3歳から始まった妻の広島生活
★処で、私がこれから話そうと思っていることは、ある意味で原爆の犠牲になられた方々には申し訳ない話であり、ためらいが無いわけではないが、何時の世にも偶然とか不思議が存在して人生そのものを左右していることを思えば、こんな話も人の運命を考える上で意味があるように思えてくる。
★私の妻は海軍士官だった父親の関係で軍港のあった呉海軍病院で生まれたが、1歳の誕生日を迎える前に父親が岩国海軍航空隊で戦病死した為に、未亡人となった母親と父の実家、高知へ帰っていた。処が今度は母方の実家から祖母が自転車事故にあい、足が不自由になったので家事手伝いに帰って来て欲しいと請われ、3歳から広島での生活が始まることになる。
★この一家の構成はやはり連れ合いを早く亡くしていた祖母を頭に結婚前の若い叔母、未だ学生で工場通いの勤労動員をしていた叔父との5人暮らしだった。祖母としては怪我のこともさることながら、大人の男手が無い中で、気丈で働き者の次女に傍にいて欲しかったのだろう。
★5歳になって妻は幼稚園に通っていた。当時、広島でも小学生は殆んどが学童疎開で市内にはいなかったようだが、当然就学前の幼児は親と共に生活していた。幼稚園は家から700mくらいの所にあり、途中バス通りを越えて行かねばならなかったと云うから、恐らく現在だったら親が送り迎えするのが当たり前だったろう。
★今から考えれば8月6日というのは夏休みの最中のように思うのだが、何故当日が登園日だったのか、後になって誰に聞いてもはっきりしない。当日は朝から良い天気で暑い夏日が予想されたが、7時に空襲警報が発令された。この時一瞬「あヽ今日は幼稚園に行かなくても好いんだ」と思ったというから、このことが後の行動への無意識の伏線になっていたのかもしれない。
◆その朝、幼稚園に行くのを渋った5歳の妻
★7時30分、空襲警報解除、母親は「早く支度して幼稚園に行きなさい」といって娘を送り出す。今まで幼稚園に行きたくないと思ったことなど一度も無かったのに、この日はなんとなく気乗りがしない。途中でいじめっ子らしいのがこっちを見ている、これが引き金となってきびすを返し、家へ帰ってきてしまった。
★当然母親は「なんで帰ってきたの」と詰問するので、しょうことなしに「ハンカチを忘れた」「ここにちゃんとあるじゃないの、早く行きなさい!!」然しどうしても行く気がしない、暫く玄関でグズグズしていたが、何度も母親に督促されて思い余って出た言葉は「オシッコがしたい」、「しょうがない子だね、早くはばかりへ行ってきなさい」と言われて薄暗い便所の中へ入った。その途端、上の小窓に閃光が走った、世界で始めて原子爆弾が投下された瞬間である。
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爆心地、広島市中島地区の投下前の街並復元模型 |
原爆投下直後の中島地区 |
wikipediaから転借 |
wikipediaから転借 |
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★この家は爆心地から北北東へ2.3km離れ太田川に近い牛田にあったが、戸外で直に熱線を浴びてしまった人は助かっていない。幼稚園では多くの子供達がその幼い命を奪われてしまった。若し彼女が家に引き返すことなく、何時もどおり幼稚園に行っていたとしたら、ほぼ間違いなく亡くなった園児達と運命を共にしていたであろう。
★玄関に何時までもグズグズせず便所へ入ったのも幸運だった。玄関は瞬時に屋根が崩れ落ちてきて、人の出入りも出来ない壊滅状態になってしまった。私は霊魂とか霊力を信じる方ではないが、この大変な不思議に関しては多くの人が語り、本人もそう思っているように、単なる幸運を越えて彼女の中にある「守護霊」が彼女を守ったのだと思ってあげたい。
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原爆ドーム
世界初の原爆被爆建物としてユネスコの世界遺産(文化遺産)
に登録されている元広島県産業奨励館 (撮影:松谷富彦) |
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◆道端で泣きもせずに待ち続けた幼子3人
★この家では2歳と3歳の男の子を連れて、たまたま里帰りをしていた叔母が洗濯をしていて爆風で割れたガラスを浴びて怪我をしてしまった。今、我々は原子爆弾は広島に1発、長崎に1発と単純に思い込んでいるが、母親はこの時、若し次の2発目が来たらとても助からないと思い1km山側の親戚を頼ることにしたという。
★取るものも取りあえず、先ずは子供達3人だけを連れて行ったが、目指す家は皆何処かへ避難したか、もぬけの殻、母親は止む無く絶対此処を動かないようにと子供達に言い置いて祖母と怪我をした叔母を迎えに戻って行った。後になって妻が言うには子供心にも非常事態を感じていたのか、2歳3歳5歳の子供が泣きもせず道端でじっと待ち続けたのは大したことだった。
★待ちくたびれた頃、母は祖母と叔母を連れて戻って来て、親切な人達にも助けられながら、何とか最終避難場所の牛田小学校の防空壕まで辿り着くことが出来た。その後の母親の判断と行動力も素晴らしかった。更にもう一度自宅に引き返し、当時は貴重品だったシンガーミシンの機械部分を取り外し、他の運べるもののありったけと共に防空壕の中に持ち込んで蓋をした上には水で濡らした布団を被せてから逃げ戻って来た。
★この牛田の自宅は思ったとおり、直後に燃え広がってきた火災で全焼してしまったが、勤労動員中の叔父も地獄の焼け跡を通ってその日の夕方遅くには避難場所の牛田小学校で皆と一緒になることが出来た。
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平和公園の原爆死没者慰霊碑(奥に原爆ドームを望む) |
原爆の子の像(平和公園内) |
撮影:松谷富彦 |
撮影:松谷富彦 |
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◆県境の小瀬川を挟む因縁の地に勤める2人は、コーラスを通じて知り合い、結婚
★妻は「被爆者健康手帳」所謂原爆手帳の所持者であり、結婚後も暫くは健常者5500の白血球が3500位しかなく日常生活には大きな支障は無かったものの、頑健とまでは言い難かった。然し今は白血球数も5000位にはなり一緒に山に登っても私より強い身体にまで成ってくれたのは本当にありがたいことだと思っている。
★偶然の一致は長い人生で幾つかあるが、妻はその後母一人娘一人の生活を続け、東京の大学を卒業して広島に帰り勤めることになった。その会社はアメリカのデュポン社と合弁の石油化学会社で工場敷地は広島県の西端、元大竹海兵団跡地に建てられている。此処には隣に潜水学校があり、山口県との県境を流れる小瀬川を挟んで対岸には陸軍燃料廠があるという旧日本軍の大軍事基地だった。
★この大竹海兵団はかって岩国で戦病死した妻の父親の葬儀が行われた場所であり、私にとっては戦時中マレー半島のペナンで働き、戦後抑留生活の後引き上げてきた父が初めて踏んだ日本の土が大竹海兵団跡地だった。そして石炭から石油への原燃料転換の時期を迎えて、三池炭鉱から陸軍燃料廠跡地に出来た石油化学コンビナートに移って勤めていた私がコーラスを通じて川向こうの妻と知り合い結婚することになったのも奇しき縁かもしれない。
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裕子夫人 |
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◆広島人が夾竹桃の赤い花を嫌うわけ
★毎年東京では、品川の沢庵和尚ゆかりの東海寺で原爆罹災者の慰霊祭が行われ、87歳で亡くなった妻の母の供養も兼ねて出来るだけお参りするようにしているが、東友会という被爆者の団体の人達もさすがに加齢が目立ってきているように思える。いま住んでいる小平にも小友会というのがあるが、こちらは個人情報保護法とやら厄介な法律のために、お互いに助け合うことはおろか知り合うことも少ないので殆んど名目だけになってしまっているのは残念なことだ。
★広島の人たちは夾竹桃の赤い花を嫌っている。それはあの日にも咲いていた、暑い夏の赤い色が、原爆犠牲者の血のあがないを連想させるからかもしれない。(2010.7.5.寄稿)
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