★先に、終戦時の体験記を当小平稲門会ホームページの「いなほ随想特集 私の戦争体験」に書きましたが、終戦は縁故疎開先の長野県佐久で迎えました。終戦の年は、石炭の不足で鉄道幹線の信越本線でも運休する列車が多かった。このため、学生は戦争は終わったのに通学が出来なく、自宅で自習するようにと学校から連絡があり2ケ月近く休校の状態でした。鉄道省や日本政府は、石炭不足の状態を知っているのだろうかと腹が立った覚えがあります。
★10月頃からやっと通学できるようになりました。この頃小海線の列車に薪を炊いて走らせる実験がありましたが、火力が小さいのか長く続きませんでした。
1.少年時代
★私の家は、上野駅に近く、発車する蒸気機関車の音を子守歌のようにして大きくなりました。母は忙しかったので、女中によく機関車を見に連れていってもらいました。機関士になることを夢見る少年でした。大きくなると、見るだけでは我慢できなくなり、列車に乗せてもらうようになるのは自然な経緯で、小学校の上級生になると山手線や京浜東北線等の電車に一人で乗り歩くようになりました。
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戦前の京浜東北線の電車 |
戦後の省電(省線)電車 |
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借 |
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★小学五年生の夏休みに、両親の郷里、信州佐久に一人で汽車の旅を初経験しました。この時の不安と心躍る複雑な気持ちは、今でも忘れられません。今なら、長野新幹線で東京駅から1時間20分で佐久平に着きます。しかし、昔は、6時間も掛かりました。日帰りなど出来ませんでした。今は日帰りです。
★昔佐久まで行くのに、当時、4種類の機関車に牽引されるので楽しみでした。鉄道ファンにはたまらない区間でした。変わる機関車は、上野―高崎間がスマートなC57、高崎―横川間は貨物用のD50かD51、横川―軽井沢間はアブト式のED42、軽井沢―小諸間は又D50かD51で、最後の小海線がC56蒸気機関車でした。蒸気機関車の全盛時代でした。行く時は、必ず高崎で駅弁を求め、列車が遅くなる碓氷峠のトンネル区間で弁当を食べるのが楽しみでした。
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スマートなC57機関車 |
貨物用機関車D50 |
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お馴染みのD51 |
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借 |
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2.中学・高校時代
★中学時代は、東京大空襲で家が焼かれた為、一家全員で父の郷里佐久に疎開して生活することになりました。昭和20年3月、小学校の担任から、機械が好きなので小諸の工業学校を薦められ、受検して合格しました。佐久の岩村田から小諸まで、小海線で通学することになりました。鉄道が好きな人間には、最高の喜びでした。憧れの蒸気機関車に毎日接する事ができて幸せ一杯でした。しかし、学校に入学すると、戦況が悪くなり、授業どころでなく、直ぐ農家に勤労動員に行く事になりました。
★昭和20年8月15日、戦争が終わりました。これから通学できると思っていたのに、石炭不足で運休列車が多く学生は自宅待機で2ケ月近くお休校でした。やっと10月から通学することになりました。1年間遊んでいたようなものです。学校が早く終わると、小諸の機関車車庫に遊びに行き機関士と友達になるのは早かったと思います。これは、熟練の機関士は、出征した人が多く、若い機関士が多かったからでしょう。
★機関士と仲良くなると、「高原ポニー」F写真 と呼ばれていたC56機関車の運転室によく乗せてもらうようになりました。想像していた以上に振動の激しい運転室を味わった貴重な体験は、一生忘れられない事です。しかし、運転室に乗って通学するような事は、敗戦前後の混乱期が続いたから出来たことだと思います。戦後落ち着いてからは「許可無く乗車を禁ずる」と書いた掲示が機関室に入口にはられるようになりました。
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[高原ポニー」の愛称で呼ばれたD56 |
可愛いD56 |
写真:「鉄道 データファイル」(デアゴスティーニ・ジャパン発行)から転借 |
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★やがて、終戦後3年過ぎ、少しずつ社会も復興してきて鉄道事情も改善し、東京に帰る家族が増えてきました。家を焼かれた親父は、東京に家を建てる資金が無いのか、東京に帰る素振りを全然みせませんので、私が行動を起こす事にしました。丁度、学制が変わり我々は、新設3年終了後、高校の1年生になる事になったので、小諸では、高校への進学を断り、上京することに決めました。中学の先輩の紹介で下宿できる工場に就職することに決めました。まず下宿できるのが重要でした。学校は、定時制高校が開校するので、働きながら行くことにしました。昭和23年3月末の頃だと思います。母親は心配そうでしたが、誰も反対する者はいないので助かりました。
★私は、一人で梱(こり)一つ持って上京しました。東京の交通事情に詳しい私は、全然恐怖感はありませんでした。夕方目黒区の、これから就職する工場の寮に到着しました。
★東京に着いたら驚きました。あちらこちらに焼け跡がまだ残っていました。下谷の我が家の付近もまだ焼け跡のままでした。都内の国電は、少しずつ修繕されているようですが、窓ガラスがなく木板が貼ってある電車が走っていました。また、この頃ヤミ米を列車で運ぶ人が増え、大宮や赤羽等、東京の入口の駅で毎日のように列車を止め警官が取り締まっていました。私も信州の帰りに出会った事がありましたが、取締りが始まると車内は、せっかく持ってきた米を車内から外に放り投げる者もあり大変でした。今考えると馬鹿らしいことです。
★上京して10日もたてば東京に慣れてきて、休日には新制高校の募集状況を調べ歩きました。しかし、なかなか希望するところが無く、焦ってきた頃新聞に「早稲田大学付属工業高校」の募集広告が載っていました。都合よく夜間授業の定時制でした。親の仕送りを当てに出来なく働いて学校に行くことを覚悟して来たので、喜んで手続に行きました。お陰で入学試験を受け合格しました。
★その後、会社の社長に合格を報告したら、反対され学校に行くなら辞めてくれとの事、困りました。都合よくこの時、父親が息子一人で上京してきたのが心配か、東京に来ていましたので、下宿先を探してもらうと、戦争中父がいろいろ世話をした知人の家に下宿する事になりました。早速、引越しました。鞄一つの引越しですから簡単です。今度は仕事です。当時高校の事務所で仕事の紹介をしていましたので、相談して見ると鉄道ファンが好む、鉄道模型制作所を紹介されました。早速、アルバイトとして入社することにしました。しかし、高校生のアルバイトに模型など作らせるはずがなく、毎日が地方への荷造りと発送ばかりで疲れてしまい、工業高校に入学したのに、疲れて休んでばかりいました。
★ところが、幸運が突然飛び込んで来ました。私が学校に来ない事を心配してくれたクラスメイトのN君から、そんなに疲れるなら、今大学の図書館で学生職員を募集しているから、採用面接に来ないかと誘われました。仕事と学校が同じ所で出来るとは、勤労学生には大変有難いことです。早速、翌日アルバイト先を休み面接に大学図書館に向いました。簡単な面接で採用が決まり、即刻明日から来て下さいとの事で驚きました。そこで会社には電話で辞表を伝え身分証を郵便で返却する事にしました。時は、昭和23年7月10日でした。大学に就職することになりました。幸運な事でした。
★昨日までは、下宿先の日暮里から(山手線)―新橋―(都電)―六本木(会社)―夕方―(都電)―渋谷―’(山手線)−高田馬場―学校―帰りー高田馬場―’(山手線)―日暮里―下宿と毎日山手線を一周していました。明日からは、都電で三ノ輪から―御徒町―早稲田乗り換え1回で行けました。早いのは、日暮里―高田馬場間を山手線だけで30分で行けした。体はかなり楽になりました。
★大学図書館に就職することになって、鉄道に関わる交友が大きく広がるとは考えもしませんでした。というのは、翌年の昭和24年4月に新制の高等学院が開校した時、一年のA君がアルバイトとして図書館に入ってきたからです。このA君は、よく東海道本線の電気機関車に乗り込んだり、何時も持っている大きな鞄の中には教科書でなく当時の東京鉄道管理局の電車の運行ダイヤや鉄道規約等を詰め込んでいました。しばしば二人で当時の太井工場や東京機関区、尾久機関区等に見学に行ったものです。
★息子の上京で父も東京で商売を始めることになり、千住に家を借りたので、私も一緒に住む事になりました。お陰で家賃がいらなくなり小遣に余裕が出てきて、“鉄ちゃん”(鉄道ファンの愛称)を気楽に楽しめるようになりました。この頃、カメラもフイルムも高価で、鉄ちゃんもお坊ちゃんの趣味でした。
★A君は、昼間は学校で夜アルバイト、私とは反対でしたがお互いに授業の無いときは、図書館に同好の仲間を連れ集まり交友を深めました。当時学院は、現在の文学部がある戸山キャンパスでした。彼らは、無試験で大学に進学できる事になっていますが、私は、受検しなければなりません、彼らに負けられないので、定時制は、4年制なので、4年になると図書館が終わる4時から授業の始まる6時まで、1年間受験塾に通う事にしました。鉄ちゃんはお休みです。
★一年の苦労の甲斐あって、27年3月、第二法学部に合格しました。当時鉄道同好会の親玉のM氏は、学院3年の時、同好団体に登録して名乗りを上げたかったようでしたが、登録者する者が少なく登録できませんでした。だが、翌年の27年には、学院から8、9名の進学者いて、私も含めて、正式に同好団体の登録人数15名で申請する事ができ、学部長会で承認されることになりました。ここに「早稲田大学鉄研究会」が発足することになります。昭和27年5月でした。
3.大学時代(早稲田大学鉄道研究会)
★最低の人数で創設したミニクラブ「鉄道研究会」は、何時消滅しても不思議でないと思っていたのが、平成5年には、創立40年を祝って記念列車を運行しました。それから、10年経って平成14年には、創立50周年を迎え、今度は、蒸気機関車運行の記念列車を運転する事が出来ました。これは、1,000名以上になるOB会員の協力のたまものと思います。創立の時から関わり、卒業後も大学に残り、鉄等研究会の世話をしてきた者にとっては感無量です。我々の時代には、人数も少なく全員で機関区や工場をよく見学に行ました。また地方にも写真を撮りに行ました。まだカメラやフイルムの高価な時、お坊ちゃんの遊びの会でした。しかし、その後入会して来た会員に優秀な人達が多く、機関紙の発行、分科会等を創設して会の基盤を作ってくれました。これが会の発展につながったと思います。
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早大鉄研40周年記念列車の新聞記事(読売新聞 93年3月7日) |
40周年記念列車の乗車券 |
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50周年記念列車の前で写真に納まる早大鉄研OB(左から2人目筆者) |
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★早稲田大学には、公認、非公認あわせて2,000以上のサークルがあるそうです。大学の創立125周年の時、戸山キャンパスに全国でも珍しい10階建ての学生会館が建設されました。公認されたサークルは、全部入居したと思います。鉄道研究会も今度初めて部室を貸し出して貰い、サークル活動の拠点としています。
★4年間のサークル活動をして得た知識を前面に出して就職に繋げる人も多いと思います。鉄道研究会の卒業者の理系の人はJRや日立、車両工場など、文系の人はJTBや東急観光、私鉄などに就職する人が多いですね。
★サークルの卒業生から年賀を頂くことがあります。昨年の年賀で、JR東日本の高崎支社に就職したT君の年賀には、私も嬉しくなりました。その賀状は、尾久駅で電車の最後尾で出発の合図をしている写真でした。添い書きに「高崎線で研修中、尾久駅で出発合図する私です。至福の時です」とありました。小さい時から車掌になる夢を持っていたのでしょうか。微笑ましい事です。幼稚園に通う自分の孫のことを思い出します。孫は一人で車掌の真似をして遊んでいる時があります。やはり夢は電車の車掌のようです。
★リニアモーター関係では、名古屋の地下鉄「藤が丘」から万博跡の「八草」までを「愛知高速交通」が日本初の営業運転をしています。このリニアモータカー(磁気浮上式リニア)の会社の副社長は「鉄道研究会」の昭和38年卒のOB会員、藤野政明さん(理工)でした。彼は名鉄電車の技術者でリニアカーの開発で17年苦労したそうです。
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愛知高速鉄道のリニアモーターカー |
早大鉄研OBの藤井副社長 |
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中日新聞 |
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★又、JR東海のK氏は、元新幹線の新型電車の開発担当者でした。N700の開発の時、走行実験でトンネル内300キロでのすれ違い実験した時の話をしてくれましたが、初実験なので結果が分からず、全員の実験員は決死の気持ちで実験車に乗ったが意外に振動が少なくホッとしたそうです。いつも、面白い話をしてくれるので会うのが楽しみです。今度、リニアモーターカーの山梨実験センターに移動したそうです。 未来の鉄道建設を担当する事は大変でしょうが楽しみですね。又面白い話が聞けるのが楽しみです。山梨実験線を見学した時感じたのですが、当時のセンターの責任者は、早稲田の理工卒でした。また案内してくれた技術者は、皆理工の大学院卒の人でした。早稲田出の多いのに誇りを感じました。
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リニアモーターカー(山梨実験センターで) |
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★さて、早稲田大学鉄道研究会の機関誌は、M君の発案で、昭和26年鉄研発足の1年前の同好会時代に発行しました。この1号は、ガリ版刷りのB版26ページでした。題はM君の案で「SWITCHER」としました。ここには、研究の成果や意見などをまとめて書き上げて載せる事しました。なかなか原稿が集まらず、担当の編集者だけの「SWITCHER」も在りました。創刊から45年たった1997年7月(平成8年)に「SWITCHER」通算150記念号を発行しました。簡単に45年経ったと言いますが、機関誌発行を担当した各会員は、命を掛けて年3〜4回の発行を死守して来た時もありました。現在発行の「SWITCHER」は、当初質が悪く機関誌として今一であった時期がありました。しかし、販売するようになってから、内容もかなり充実してきたのには喜ばしい限りです。現在の発行は、200号越えたようです。
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早大鉄研機関誌150号の表紙 |
同192号 |
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★1960年代、日本の国は。大変な繁栄期であり豊かな国になりました。自動車の所有者も増え、鉄ちゃんの良い道具になりました。列車を撮影に出けるのも自動車です。
4.25周年記念誌を発行
★日本の経済も好調で、学生紛争も無くなり学園は平和になってきました。学生も変わりました。この頃、「鉄道研究会」から出版が続きました。誠文堂新光社より「車両の作り方と運転」「レィアウトの作り方」を続けて出版しました。続いて、広済堂出版から「鉄道のわかる本」「鉄道旅行カタログ」を出版。その頃、鉄ちゃんブームが起こっていた為か、よく売れ、研究会に資金をもたらす事になります。その上、模型運転会の組立式レイアウトを3次に分けて完成します。これにより大きなデパートでも運転会をできるようになりました。このため「鉄道研究会」には、さらに資金がたまり、昭和52年(1977)には、25周年記念誌を発行することができました。OBの寄付を求めることなしに発行できるのは幸運でした。(09.12.21.投稿)
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