いなほ随想

燃え立つ紅葉に染まって
~芭蕉ゆかりの黒羽・那須吟行~


松谷富彦(36文)


★俳句結社「春耕」の2013年秋季吟行大会に参加、11月16日、17日の1泊2日の日程で芭蕉と弟子の曽良が「奥の細道」の道中、13泊した那須野が原の史跡巡りをしてきました。幸い2日間は、超快晴の吟行日和となり、燃え立つ紅葉を満喫しました。以下は、コンパクト・デジカメで撮った画像を交えての吟行随想です。

 <1日目>

[雲巌寺]
★最初に訪れたのは、芭蕉の禅の師、仏頂禅師の旧居跡があった雲巌寺。臨済宗妙心寺派の禅寺で、芭蕉が立ち寄りを楽しみにしていた八溝山地の懐に抱かれた古刹です。鬱蒼とした巨木の中の朱塗りの反り橋を渡り、急こう配の石段を荘厳な山門を見上げながら上ると、見事な紅葉を背に拝殿とその奥に本堂が目に飛び込んできました。

武茂川を跨ぐ反り橋 雲巌寺山門 拝殿
本堂 魚板 鐘楼

★芭蕉は、「奥の細道」にこう記します。
<当国雲岸(巌)寺のおくに仏頂和尚山居の跡あり。

竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍りといつぞや聞え給ふ。其跡みんと雲岸寺に杖を曳けば…山はおくある景色にて谷道遥に松杉黒く苔したゞりて…橋をわたって山門に入る。さてかの跡はいづくのほどにやと後の山よじのぼれば石上の小庵岩窟にむすびかけたり…

木啄も庵はやぶらず夏木立

ととりあへぬ一句を柱に残侍し。>

★小庵跡は、本堂浦山の中腹に残り、木啄の句碑が山門脇に苔むして建っていました。

芭蕉句碑 山門から本堂(奥)を望む

朱塗りの欄干が美しい反り橋の下を武茂川(那珂川の支流)の細流が走り、川面に枝を広げた楓の枝や幹を寄生植物の糸苔が緑色の髭状に包み、垂れ下がっていました。

山門から反り橋を望む 楓の枝の糸苔 寄生植物の糸苔は水辺の樹木を好む

[黒羽]

★次いで那珂川左岸の丘陵地にある黒羽城址へ。いまは本丸跡の広場や土塁、空堀が残るだけですが、幕末まで封地替えなどもなく続いた外様大名、黒羽藩大関氏一万八千石の城館跡。

★城址の丘から那珂川の右岸、那須野が原越しに茶臼岳(1915m)を主峰とする那須五岳を遠望した後、芭蕉師弟を細かな心遣いでもてなし、2週間にも及ぶ逗留を許した黒羽藩城代家老で門人の浄法寺図書高勝(俳号桃雪)、鹿子畑善太夫豊明(同翠桃)兄弟の旧居跡を訪ねました。桃雪邸跡の紅葉が見事。馬に乗る芭蕉、横に付き添う曽良の像が建つ芭蕉記念館を経て、大関家の菩提寺、大雄寺へ。

黒羽城址から那須五岳を望む 上方中央の丸い山頂が茶臼岳 芭蕉と曽良の像(芭蕉記念館前で)

★創建から600年の歴史を持つ曹洞宗の古刹で、山中に大関家累代の墓碑が林立する墓と山門、総門、本堂、庫裏、回廊など7棟の建物すべてが美しい茅葺き屋根の禅寺です。

浄法寺(桃雪)家跡の紅葉 芭蕉師弟が通った“翁の道”の紅葉 大雄寺山門
「やーぁ」と迎えてくれる羅漢像 茅葺屋根の総門 本堂
鐘楼(左)も回廊も茅葺 回廊 本堂前の賓頭盧像

<2日目>

[殺生石]
★那珂川の河岸のホテル「花月」の大広間で前夜の第1回目の俳句大会(各人3句投句)に続き、朝食後、8時から1時間半、2回目の俳句大会(各人3句投句)を行った後、2台のバスを連ねて玉藻の前の伝説を秘めた殺生石へ。

<殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず蜂蝶のたぐひ真砂の色のみえぬほどかさなり死す。>(奥の細道)

★バスを降りると、強い硫黄の臭いが鼻を突き、240mほど前方に小山のガレ場が見えます。その後ろに山頂部を覗かせている茶臼岳。昨日、黒羽城址から遠望した山頂の雪は、近くから見ると斑になっています。大人の三抱えほどの黒く焼け焦げ、細い注連縄を鉢巻のように付けた変哲もない石が芭蕉も見た伝説の殺生石でした。

殺生石 殺生石の上から覗く茶臼岳の山頂

★私がむしろ強烈な印象を受けたにのは、殺生石へ続くガレ場の木道沿いに群居した「千体地蔵」。これもまた因果応報の伝説を秘めた「教伝地蔵」の脇地蔵として建立が昭和50年に始まり、現在約730体に達しているということです。

ガレ場に合掌姿で並ぶ千体地蔵 温泉神社からガレ場を俯瞰(木道手前は千体地蔵)

★特異なのは、顔の前で大きな掌を合わせた祈りの姿。何かにひたすら許しを乞う同じ大きさ、同じポーズのお地蔵さんの群れ。水子地蔵とはまた違う異界のムードが荒涼としたガレ場にはまり過ぎていて不気味でした。ちなみに千体地蔵を刻み続けているのは、地元那須町芦野の石工、櫛田豊さん。インパクトが強すぎて、句に詠めませんでした。

[遊行柳]
★殺生石からバスで45分、歌枕を辿る芭蕉の足を向けさせた芦野の柳、遊行柳へ。<又清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の「此柳みせばや」など折おりにの給ひ聞え給ふをいづくのほどにやと思ひしを今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

 田一枚植て立去る柳かな >(奥の細道)

★柳の大木は、文字通り刈入れを終えた稲田の中に枝を広げていました。西行がここに立ち寄って詠んだと伝えられる歌が、

 <道のべに沁みず流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ>(新古今集)

田圃の中の遊行柳 遊行柳の奥にある古社の公孫樹の乳根

★西行は、白河上皇の鳥羽離宮の襖に描かれた柳の絵を見て詠んだのですが、いつか那須の芦野の柳こそが、西行が詠んだ柳ということになり、歌枕になったのが史実。俳聖は、そんなことは百も承知で歌枕訪ねの旅に曽良を道連れに出たんですね。「曽良さんや。これが遊行柳なんだねえ」変哲もない柳を見上げている旅人2人。そばの田んぼでは1枚田植えが終わり、作業の人たちが立去って行く。「ああ、長居をしちまったねえ、曽良さん」なんて話しかける芭蕉翁。

★しかし、歌枕を訪ねる目的の「奥の細道」の性格から言って西行伝説、遊行上人伝説の中に翁自身が遊び、田植えをしたつもりになって<田一枚…>を詠んだのかも知れませんね。

[白河の関]

★遊行柳からバスで30分。紅葉と芒の白い穂の中から陸奥の入口、白河の関跡が現れました。関跡と言っても丘陵が白河神社の神域になっていて、鳥居の脇の白河藩主松平定信による碑「古関蹟」があるだけ。芭蕉の時代には、すでに所在地もはっきりしない歌枕の名所であり、翁と曽良は幻の関を越えて「みちのく」へと歩を進めたのでしょう。

白川の関の古蹟碑 白川神社 

★紀行作品「奥の細道」の白河の関では、芭蕉自身の詠んだ句はなく、弟子の曽良の句だけが記されています。俳聖の深い作意が隠されているようですね。

<心許なき日かず重るまゝに白川(河)の関にかゝりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして風躁(馬偏だが字が拾えないので当て字)の人心をとゞむ。秋風を耳に残し紅葉を俤にして青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に茨の花の咲そひて雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し琴など清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな  曽良>

★最後に吟行で詠んだ2句を披露させていただきます。

 冬鵙の声より速く藪に消ゆ   富彦
 賓頭盧の膝で息絶ふ冬の虫  富彦                                                      

                                                         (13.11.25.記す)

 ♪BGM:E.Satie[Gymnopedies]arranged by Pian♪

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