★きょう(2月19日)は、24節気の一つ雨水。そして、「雨水」は春の季語ですね。東京の天気は春うららかな一日でした。私はと言えば、もう1ヵ月近くも風邪をこじらせ、気管支の炎症で咳と鼻水が止まらず、泣きっ面にハチを続けています。でも、私にとっては、小学6年生のとき中学受験の口頭試問で出た俳句の作者を62年ぶりに突き止めるうれしいことがありました。以下は、そのいきさつです。
★有名私立、国立の中高一貫校の受験戦争は、子を持つ親の不安を掻き立て、ますます熾烈さを加えているようです。中高一貫校と言っても、中学から高校への全員の持ち上がり、高校から系列(や系属)の著名大学への優先入学を保証しない学校も多く、コースに乗せようとする親や先生の期待を集める12歳から18歳の思春期は、がんばり精神と心身のタフネスが求められます。
★私が中学受験期(小学校6年生)を迎えたのは、敗戦からまだ3年余りを経過したばかりの時期で、山の手の目黒、世田谷も焼け跡が広がり、食糧不足を補う菜園や原っぱになっていました。
★目黒区立Y小学校の素朴な6年生児童だった私は、黒い(金色でない)帽章、黒い学生服ボタンの私立麻布中学に進学させてほしい、と地方公務員だった父とお袋に経済事情など眼中になく、訴えていました。願書を出す時期がきたとき、担任の先生から母親ともどもクラスの男女児童各2人、合わせて4人が呼ばれました。
★男子は、私とW君(彼はその後、都立日比谷高校から東大に進み、労働省の事務次官を務め上げました。)でした。いまも90歳でご健在の女性教師H先生は開口一番「地元の新制中学へ進んでも、あなたたちはがんばれます。でも、入学試験という難関に挑戦することも人生のよい経験になります。あなたたちの進学希望校も聞きました。その上で、先生から提案します」
★H先生の歯切れのよさは、承る側にうむを言わせぬ説得力がありました。「みんなの家から歩いて、30分から40分。もちろん電車を利用できる人は、それもよし。付属小学校から他の中学に進む生徒の補充募集であり、東京中の優秀な6年生が受験するのですから難関です。でも、先生は、あなたたちなら突破できると信じています」
★私は、もう麻布中学受験を訴える気力を失い、「そこまで先生が言うなら受けてみよう。だめならクラスの大半が進む区立中に行けばいい」と長い名前の中学校受験にあっさりとスイッチを切り換えました。他の3人も同様でした。
★受験校は東京第一師範学校男子部付属世田谷中学行(同年1949年5月31日付けで校名は東京学芸大学附属世田谷中学校となる。)といい、豊島師範だった付属小金井中学校、東京第二師範の付属竹早中学校などとともに国立新制中学として、発足して3年目の時期でした。本題に入ります。
★現在(2011年2月)74歳の私が12歳の小学6年生だった2月、母に付き添われて当時住んでいた家から30分ほど歩いた世田谷区下馬の当時は第一師範本部校舎があった試験会場に出かけました。学科試験は筆記ではなく、口頭試問でした。算数、国語、理科、社会などの試問を受けましたが、質問内容はまったく覚えていません。
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群馬県側から浅間山を望む |
「野も山も冬のままじゃに春の水」 |
★そんな中で試験官が紙に書かれた一句の俳句を指さして「この俳句を読み、君はどんな情景を思い浮かべましたか」と質問したのをいまでもはっきりと記憶しています。12歳の少年だった私は、それが俳句だとは、すぐ分かりました。しかし、両親が俳句に親しんでいたわけでもなく、国語の授業で学んだこともありませんでした。
★でも、その俳句「野も山も冬のままじゃに春の水」を見せられたとき、野原も畑も家々も、さらに遠くの山々も雪を被って広がる情景が網膜に鮮明に浮かび上がりました。そして、雪を解かして水嵩を増した小川のせせらぎまで聞こえるような感じがしたのです。12歳の児童である私は「野原も山もまだ雪を被っているが、小川の水は、もう春だよ、とうれしそうにと言っている」と応答しました。試験官の先生が、こくりと頷いたのも覚えています。
★それから数日後、学科試験の合否発表があり、私は独りで出かけたのを覚えています。幸い一緒に受験した男女4人全員が合格しましたが、これで確定ではなく、補充定員数だけ選ぶくじ引きが待っていました。これは、本人の努力とは関係のない非情で残酷な選抜方法であり、一次合格4人のうち女性のIさんが悲運に泣くことになり、いまも不条理な思いを消すことができません。
★70歳を過ぎて2年前から句会に参加、へぼ句を捻るようになってから、「あの口頭試問の出題句は小学校6年生の児童にも情景を生き生きと浮かべさせる力を持っている。名句の一つとして句集に残っているはず」と気を付けていた結果、ついに作者を62年ぶりに突き止めることができました。
★私が大好きな江戸期の俳人は、与謝蕪村。その高弟、高井几董(1741年ー1789年)その人の句でした。几董は享年49歳、早すぎる死でした。
[季語「春の水」の几董の関連4句] |
・雪に折(れ)し竹の下ゆくはるの水
・堤行く牛の影見ゆ春の水
・日は落て増すかとぞ見ゆる春の水
・磯山や小松が中を春の水
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[几董の代表句から春の句をいくつかご紹介]] |
・水に落ちし椿の氷る余寒かな
・絵草紙に鎮おく店や春の風
・むらさきに夜は明けかかる春の海
[秋の句ですが、私が特に好きな几董の句]
・やはらかに人わけゆくや勝角力
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[おこがましいのを承知で季語「春の水」「水温む」でへぼ句]
・池の目高縦横無尽に春の水
・水温み上水の鯉しぶき上げ
・水温み野菜の泥も鼻歌で
・泥落とす野菜洗いも春の水
・咳止めの水薬たれ春の水
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